天文21(1552)年 [信長19歳]
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1月2日
・近江守護六角定頼、没。嫡男義賢後継。義賢は将軍義輝と三好長慶の調停に奔走する。
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1月3日
・武田晴信、義信の具足始めの儀式を行う。
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1月10日
・北条氏康、上州に出兵。上野平井城(群馬県藤岡市)落城。氏康は北条三郎長綱を守将に任じて小田原に凱旋。
管領上杉憲政は越後守護代長尾景虎(23、後の上杉謙信)を頼る。景虎、憲政の為の館として御館(上越市五智1丁目)を築造。
平井城に残された憲政嫡子竜若丸は乳母兄弟・目加田新介の裏切りにより小田原に連れ去られる。氏康は神尾治部右衛門に竜若丸を斬らせる。目加田一族8人は不義不忠の裏切り者とされ、小田原城下引き回しの上に一色村で磔刑。
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1月15日
・フリーデヴァルト(シャンボール)条約締結。
ザクセン選帝侯モーリッツ(31)が、マクレシブルク、ストラスブルク、ニュルンベルク、神聖ローマ皇帝カール5世を裏切り、フランス国王アンリ2世(33)と協定。<ゲルマニア(ドイツ)の祖国回復条約>。
アンリ2世、メッツ、トゥール、ヴェルダン、カンブレーなどフランス語圏諸都市を占有。<ドイツ人の自由の擁護者>。
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ザクセン選定候モーリッツ、チューリンゲンの野で皇帝カール5世に宣戦布告(歩兵2万、騎兵5千)。
ルターの教義を承認、帝国の自由を回復、ヘッセン方伯の釈放。
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1月22日
・北畠具教(伊勢国司)、従四位下に昇進。
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1月22日
・イングランド、摂政サマセット公エドワード・シーモア、反逆罪で処刑。
政敵ウォーリック伯ジョン・ダドリーの陰謀による
(ジェイン・グレイを自分の4男ギルフォードと結婚させ、エドワード6世の王位継承者とする。2人の間に生まれた男子を王位継承者とするのが最終的目的)。
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1月24日
・フランシスコ・ザビエル(46)、インドのコーチン着、インド管区長として仕事に従事。2月、ゴア着。
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1月28日
・足利義輝、三好長慶和議成立。
足利義輝、細川晴元嫡男聡明丸(昭元)を伴い京都復帰。
長慶嫡男千熊丸(慶興)を朽木御所へ。細川晴元嫡男聡明丸(昭元)を長慶のもとへ。
3月11日、細川氏綱が細川家後継者として管領の前段階にあたる右京太夫に就任。三好長慶は御供衆となる。
12日、細川晴元(嫡男は人質に取られ、家督は氏綱に奪われる)は剃髪し、武田信豊を頼り若狭へ出奔。
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丹波・山城北部の晴元残党=反三好勢力は根強く、これを掃討する必要から、長慶は一時義輝と和議。11月の清水坂の戦いで和議破綻。
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和議の内容は、
①細川晴元は隠居出家、
②昭元は元服後細川家督に取立てる、それ迄は氏綱を細川氏家督とする、
というもの。
将軍を京都へ迎える代りに氏綱を正式に認めさせる。長慶は名を捨て実を取る。
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三好長慶、御供衆となる。
御供衆:奉公衆(親衛隊)の頭(かしら)で、待遇は管領家・侍所の頭人・守護家につぐ。長慶は管領細川晴元被官から将軍直臣となる。
将軍義輝体制は、義輝―細川氏綱―三好長慶という構図。
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阿波・淡路を根拠に、摂津・河内・山城・丹波をおさえ、次第に畿内を支配するほどになってはいるが、情勢は未だ不安定。長慶は細川晴元勢力に悩まされる。
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1月28日
・狩野元信、孫の永徳(元信3男直信の長子)を連れて将軍義輝に会う。
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2月1日
・北条氏康、武藏御獄城(現、埼玉県児玉郡神川町)を攻略。
上野国人は動揺、西上野国峯城の小幡氏、高山城の高山氏、東上野那波城の那波氏が、北条方への鞍替え。
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2月26日
・三好長慶・細川氏綱、上洛。氏綱、高国の跡目相続。長慶は御供衆となる。
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3月1日
・陶隆房、大友晴英(義長、大内義隆の姉の子、豊後国主大友義鎮の異母弟)を大内氏家督とする。
隆房、晴賢と改名。
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3月3日
・織田信長(19)、家督を継ぐ。
織田信秀(42)、病没(「信長公記」首巻)。
信秀没年には天文18、20、21年の諸説あり。信秀は早くから病み、天文18年頃から信長が父に代わって実権を握っていたことも考えられる。天文18年に没し、天文21年に葬儀との説もあり。
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尾張国の情勢:
上4郡(葉栗、丹羽、中島、春日井)守護代織田信安、下4郡(愛知、海東、海西、知多)守護代織田彦五郎、犬山の織田信清。
信長は家督相続後もこれまで通り那古野城(名古屋市中区)に住み、信秀の居城末森城(千種区)は弟信勝が相続。
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周辺:
北方の美濃の斎藤道三とは、信長の正室に道三の娘を迎え同盟が成立。
東方は、今川義元が三河を実質的に支配下に置き、尾張との境界で攻勢に出ている。
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□「信長公記」(改行を施す)
「備後守病死の事
一、備後守殿疫癘に御悩みなされ、様々の祈祷、御療治侯と雖も、御平愈なく、終に三月三日、御年四十二と申すに、御遷化。
・・・国中の僧衆集まりて、・・・、僧衆三百人ばかりこれあり。
三郎信長公、林、平手、青山、内藤、家老の衆、御伴なり。
御舎弟勘十郎公、家臣柴田権六、佐久間大学、性久間次右衛門・長谷川、山田以下、御供なり。長御焼香に御出づ。
其の時の信長公御仕立、長つかの大刀、わきざしを三五なわにてまかせられ、髪はちやせんに巻き立て、袴もめし侯はで、仏前へ御出でありて、抹香をくはつと御つかみ侯て、仏前へ投げ懸け、御帰る。
御舎弟勘十郎は折日高なる肩衣、袴めし侯て、あるべき如きの御沙汰なり。
三郎信長公を、例の大うつけよと、執貼評判侯ひしなり。
其の中に筑紫の客僧一人、あれこそ国は持つ人よと、申したる由なり。
一、末盛の城、勘十郎公一参り、柴田権六・佐久間次右衛門、此の外、歴貼相添一御譲るなり。・・・」(「信長公記」巻首」)。
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馬廻・小姓による親衛隊を育成:
父信秀には従属していた国衆、譜代の家臣、近親までも信長に叛く状況
(鳴海城主山口教継父子が今川に通じ、清洲城の守護代織田彦五郎と家宰坂井大膳が信長を離れる。
叔父信光や異母兄の秀俊は表面上は信長に協力的だが野心家で場合によっては敵となる可能性もある。
弟の信勝は筆頭家老林秀貞などに担がれて兄にとって代わる動きがある)。
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信長は、尾張の国衆・土豪の2男以下から自分の手足となる者を選び、親衛隊を育成。
新しい家臣を馬廻りや家臣に抜擢して、平時より自分の周囲を固めさせる。
翌月の赤塚の戦い(鳴海側1,500、信長800)、1556年8月の稲生の戦い(信勝側1,700、信長側700)、1560年5月の桶狭間の戦いなどで活躍。
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信長軍団の特色:
尾張出身者を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆など機動性ある有能な直属軍団に仕立て、天正4年(1576)からは安土に集結させ、織田家宿老衆・先手衆など独立の部将が率いる各軍団と有機的に結びついて作戦行動を繰り広げること。
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3月11日
・細川氏綱、管領就任。従五位下右京大夫。
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3月12日
・細川晴元、若狭へ出奔。後、波多野晴通と通じ山城小野郷付近に進出。
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3月21日
・若狭守護武田家臣の反乱。
丹後加佐郡武士らの鎮圧のため武田氏が軍勢を丹後へ派遣している間隙をついて、天文7年の反乱以降冷遇されている粟屋元隆一族の牢人衆(粟屋右馬允ら)、近江から若狭街道を攻め入り吉田村(福井県遠敷郡上中町)を焼払う。
武田氏家臣熊谷勝直も武田氏に反旗を翻す。
8月、再び越前の武田信孝が敦賀に布陣。
宮川の庶子家武田信方らの出陣や朝倉教景らによる信孝への説得により、事態収拾。
家臣反乱は、武田氏の領国支配が破綻しつつある事を示し、弘治年間(1555~58)以降、家臣達は武田氏から離反したり自分に有益な惣領後継者を巡り家督相続争いを引き起こし相互に対立するなど、若狭は内部分裂の様相を呈していく。
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「★信長インデックス」をご参照下さい
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