「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」が出てきたことで、これに拘って年表的進行が停まっています。
寄り道ついでに、今回は、
「明月記」以前の定家と定家の兄弟姉妹などについて。
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藤原定家は、応保2年(1162)、五条邸で生まれる(五条邸はコチラ)。
父は藤原俊成(49歳)、母は俊成の第二の妻で、藤原俊忠女の美福門院加賀。
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父の晩年の子?、と思いきや・・・、父俊成はこの後40年以上も生きて、91歳で没します。
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美福門院加賀は、はじめ藤原為隆(寂超)の妻となり、歌人で画家の隆信を生み、為隆の出家後、俊成に恋われてその室となる。
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隆信は、源頼朝・平重盛・藤原光能を描き、高尾の神護寺に納めていることで有名。
俊忠は、鳥羽院の近臣で、若狭・摂津・安芸・筑後などを歴任した受領。
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俊成のはじめの妻は、歌人藤原為忠女で、為忠の子が美福門院加賀の夫であった為隆(つまり、俊成の前妻は後妻の前夫と兄妹関係)。
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俊成と為忠女との間には、覚長・覚禅・快雲・後白河院京極局があった。
後白河院京極局は、後白河院に出仕、唯一人祇候して御車の後に乗り、「近習奏者余人なし」と、『明月記』に記されている。院が平清盛に幽閉された時、清盛が侍することを許した二人の女性のうちの一人で、院中女房の第一位に在る。
(もう一人は寵姫高階栄子。丹後局、浄土寺二位とお呼ばれる。)
京極局は、鹿ヶ谷密議で、平家打倒を企てた藤原成親の妻となり、四人の子を生み、その一人が平維盛の妻となっている。
定家の同母姉の建春門院中納言(健御前)が、十二歳で建春門院に出仕の際、この京極局が伴って行くなど、終生異母腹の妹たちの世話をよくしている。
さらに俊成は、叔父の藤原顕長の女も妻としていて、八条院中納言(延寿御前)・八条院坊門局が生れている。
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定家の同腹の兄弟姉妹
定家の同腹には、兄成家・覚弁と、八条院三条・高松院新大納言・八条院按察・八条院中納言(建春門院中納言)・前斎院大納言・承明門院中納言がある。
成家は、定家より7歳年長で、侍従右近少将を経て、正三位に到り、建保3年(1215)出家、承久3年(1221)6月4日、66歳で没。
定家よりはるかに劣り、家庭も乱れ、建保元年召し捕られた強盗の中に、成家の家人進土成清・雑色自吉・童法寿・阿闇梨某等があった。
覚弁は、俊成19歳の出生で、正治元年(1199)権大僧都をもって、興福寺別当となり、定家は奈良僧都とよんで、『千載集』『新古今集』に、各一首入集している。
長姉八条院三条は、定家より14歳年長、五条尼上と呼ばれ、藤原成親の弟少将盛親の妻となり、二女を生み、その一女が、祖父俊成の養女となった歌人の俊成卿女である。正治元年9月出家、同2年2月20日没。
高松院新大納言(祇王御前)は、定家の12歳年長、出家の後六角尼上。八条院の妹で、二条天皇の皇后高松院妹子内親王に仕える。御車の後に乗り、左衛門督藤原家通の妻となり二男を生む。裕福であり、俊成没、77日の仏事などは、この人が主として経営。
八条院按察は、8歳の年長で、朱雀尼と呼ばれ、大納言藤原宗家の妻となり、文治5年(1189)宗家の死後出家。
八条院中納言は、5歳の年長、異腹の姉八条院坊門局の養女となり、建春門院滋子に出仕、建春門院没後は、後白河皇女の前斎宮殷富門院亮子内親王に出仕、その後八条院に出仕、建永元年(1206)50歳を期に、九条邸で出家、九条尼上と呼ばれる。未婚と云われるが、藤原伊輔と関わりがあり、一女があったという説もある。『建春門院中納言日記』(たまきはる)を晩年に書く。
前斎院大納言は、4歳の年長、竜寿御前と呼ばれ、前斎院式子内親王に仕え、式子没後は、忌日毎に常光院の御墓に参じた。
承明門院中納言は、2歳の妹で、愛寿御前と呼ばれ、藤原成実に養われ、後鳥羽中宮承明門院源在子に仕え、その姫宮を養育していたが、姫宮が21歳で寛喜2年(1230)没後出家。
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定家は、
仁安元年(1166)5歳、皇后宮の御給によって従五位となる。
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定家の御子左家と実定の徳大寺家との強い繋がり
この時、長寛元年(1163)の「皇后宮」の給が配当される。
給主の皇后宮は藤原公能の娘の忻子(キンシ)で、定家の叔母の豪子(ゴウシ)の娘。また、この時の皇后宮大夫は忻子の兄弟の徳大寺実定である。
その後の嘉応2年(1170)、俊成は実定の譲りを受けて皇后宮大夫となる。
これらの関係によって、定家は皇后宮の年給を与えられている。
実定の徳大寺家と定家の御子左家との間には強い繋がりがあり、若い定家の和歌の道において、徳大寺家の存在が大きな意味を持っている。
徳大寺家は、院政時代には多くの女子を後宮におくって摂関家につぐ清華という家格を形成し、和歌や管弦に秀でた風流の貴公子を輩出している。
『古今著聞集』の説話には、実定は「おほかた風月の才、人にすぐれ給へるにや」(129話)と記されている。
165話では、摂津の住吉社の歌合において実定が秀歌を詠んだのを、判者の俊成を始めとして多くの人々が感じ入ったという説話になっている。
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また、『平家物語』では「徳大寺の沙汰」「月見」などにその名が見える。
「月見」の、遷都した福原から上洛した実定が近衛河原の大官(多子)の御所を訪れを場面。
「其なかにも徳大寺の左大将実定の卿は、ふるき都の月を恋て、八月十日あまりに、福原よりぞのぼり給ふ、何事も皆かはりはてて、まれにのこる家は、門前草ふかくして庭上露しげし、蓬が杣、浅茅が原、鳥のふしどと荒れはてて、虫の声々うらみつつ、黄菊紫蘭の野辺とぞなりにける、故郷の名残とては、近衛河原の大官ばかりぞ在ましける、」
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西行と定家
『新古今集』の行遍の歌の詞書に、
「月明き夜、定家朝臣に逢ひて侍りけるに、歌の道に志深きことはいつばかりよりのことにかと尋ね侍りければ、若く侍りし時、西行に久しくあひ伴ひて聞きならひ侍しよし申して・・・」
とある。
定家は、若いときに西行に出会って歌の道に精進することになったのだと行遍に語ったという。
さらに『古今著聞集』には、西行が自分の詠んだ歌を選んで『御裳濯(ミモスソ)歌合』『宮川歌合』をつくり、慈鎮和尚(慈円)に清書をしてもらい、俊成や若い定家に判を仰いだという話がある。
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安元元年(1175)12月8日、14歳、父が右京大夫を辞任して侍従に申し任じられる。
兄の成家が八条院の御給によって既に侍従に昇進している。
俊成は自分の官職を辞して、定家にも官職を与えようとした。
また、自分はもはやこれ以上の出世は望めぬと判断したと推測できる。
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俊成の家は、道長の子の長家を祖とし、源兼明の御子左家を伝領した名門。
この頃は、下級貴族に転落しているが、俊成は、歌道をもってこの家を再興しようと、定家の才能に賭ける。
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安元2年9月、俊成(63歳)は重病を患って出家。この頃から、定家は和歌を本格的に勉強するようになる。
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治承2年(1178)3月15日、父が判者を勤めた『鴨別雷(カモノワケイカズチ)社歌合』において3首の和歌を詠む。
この年、父の命により中御門宗家(定家の義兄)の猶子となって同居する。
宗家は、筆頭中納言で大納言への昇進が目前にあり、その大納言の拝賀の儀式に必要となるのが、行列を飾り、威儀を与える殿上人である。
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「故亜相(アシヨウ、大納言、中御門宗家)、治承二年婚姻を為すの始め、予猶子の儀あるべきの由、先人示し付けらる、後、命じて云く、実子の如く常に同宿すべし」(「明月記」寛喜元年3月13日条)
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治承3年(1179)2月、俊成より「古今集」伝授。
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治承3年3月11日、定家に内の昇殿が許され、兄成家と共に3月24日の石清水臨時祭の舞人に選ばれる(『山槐記』)。
推挙は中御門宗家と思われる。
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6月15日、祇園臨時祭の使者となる。
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10月9日、宗家が大納言に就任。
定家・成家兄弟は拝賀の行列に騎馬で従う(『山槐記』)。
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翌治承4年年正月5日、従五位上に叙される(「玉葉」)。
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「明月記」の始まり
現存の『明月記』は、治承4年(1180)から始まっている。
前年に内の昇殿、つまり内裏の殿上に昇る資格を得たことが大きかったようだ。
定家は後年に次のような述懐を記している。
「夜に入りて北の小屋に宿し、朧月に懐旧の恩ひを催す。治承三年三月十一日、始めて青雲の籍に通じ、遠く朧月の前を歩む。時に十八。寛喜三年三月十一日、猶頭上の雪を戴き、僅かに路間の月を望む。時に七十。」
3月11日は記憶されるべき日で、その昇殿の時を後年の寛喜3年(1230)に思い出し、述懐を書き記した。
実際には、『明月記』はこの人生の一大エポック、昇殿の日(前年3月11日)から始まっていたと推測できる。
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「★治承4年記インデックス」をご参照下さい
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