明治17(1884)年11月4日(7)
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・坂本宗作、下吉田村から戻り、菊池貫平らと善後策検討。
この頃(午後6時頃)、皆野本陣に残る幹部は宗作、貫平、常次郎、門平惣平、稲野文治郎ら。
信州進発方針を決め、軍勢100で皆野進発、吉田で新井寅吉の上州勢を加え150余となる。
常次郎・惣平は途中で逃亡。
午後12時頃、上吉田塚越部落の河原で信州転戦を決定。
総理菊池貫平・大隊長坂本宗作・稲野文次郎(「会津の先生」)・柴岡熊吉。幹部小板橋貞吉・千本松吉兵衛(「東京の先生」)・小林酉蔵、上州組恩田卯一・新井寅吉・横田周作らが幹部に加わる。後、島崎嘉四郎も幹部に加わる。
4日夜は塚越河原で野営、翌朝、酒造家に朝食360人分を用意させ、夜明けを待って屋久峠(埼玉・群馬県境、標高820m)に向う。
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菊池貫平は早くから困民軍の信州転戦を企図していたとみられる。
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□菊池貫平は、4日午前中、皆野村で信州転戦を決意し周囲に呼掛けて皆野村を離れる。大宮郷経由で下吉田村に向う。
一方、この頃、首脳部の崩壊により皆野本営が混乱し、農民達は旗揚げの地である下吉田村に戻って来る。
貫平は彼らに信州転戦を呼掛け、その総理に推される。
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「四日午前十時頃卜覚へ、大野原卜黒谷村ノ境ナル黒谷橋(下小川橋)ト申ス処ニ、諸隊長ノ会議ヲ開キタルニ、菊池貫平ハ速カニ信州ニ赴キ、同所ノ暴徒卜合併シテ大事ヲ謀ラント部下ヲ集メ、大宮郷ノ方へ赴キタリ(「滝沢房吉訊問調書」)
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「皆野村へ参りタル処、同所ニ集り居りタル人数ハ二手ニナリ、一手ハ八幡山(町)ノ方へ繰出シ、一手ハ信州へ赴クトテ己ニ繰出ス際ニ付、信州へ赴ク一手ノ隊将信州ノ菊池貫平ニ面会、太田部(村)ニ巡査サンノ見ユル事ヲ咄シタル処、太田部・石間村ニハ構ハズ信州へ赴ク訳ニ付一緒ニ参レト申サレ、菊池ノ手ニ付キ皆野(村)ヲ発シ・・・」(「新井武平訊問調書」)
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「四日ニ親鼻ニ居りタル際、信州へ行クト申ス事ヲ承り、夫ヨリ内(家)へ帰り仕度致シタルナリ、其時ノ咄ニハ信州へ行ケバ一万人ニナル故、秩父連ノモノハ帰リ度望ミノモノハ帰スト申ス事ナリシ」(「青木与市訊問調書」)
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「八幡山(町)ノ方へ行クト云ッタ五百名程ノ人数ガ、織平等ハ金ヲ懐ニシテ逃去り、不届モノ故其家ヲ焼払フト申シテ一同引返シ、吉田ノ方ニ押シ登ッテ来タリ、自分等二五名ハ秩父新道ニテ其モノ共二出会ヒ、吉田村ノ下マデ共ニ行キ」(「小柏常次郎訊問調書」)
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「前ノ酒屋へ参リテ三銭ガ程酒ヲ飲ミ帰リテ見ルト、栄助モ伜モ居ラズ、其時小柏常次郎ニ総理ハ何処へ行シカト尋ネタルニ、何処へ行キタルカ居ラズトノ事、
其時大淵(村)ノ方デ巡査ガ切り出シ、怪我ヲシタト云フ者ヲ三人戸板ニ乗セテ担ギ来ル、
総理ハ居ラヌトノ騒ギニテ、大淵(村)へ出タル人数ハ呼戻ス、
野上(村)へハ兵隊ガ繰込ミタルト云フ話ガアル、
余程ノ混雑ニテ其時小柏常次郎ヤ横田周作ガ、此処ニ居夕処ガ仕方モナシ、
兎モ角モ吉田(村)ノ方へ行キ、信州へ越シタ方ガ宜シカロウト云ヒ、皆野(村)ヲ立チシガ午後三時過ニテ、人数ハ二百五十名位ニテ、
吉田ノ方へ出ル途中ニテ常次郎ハ何レへカ逃走シ、
吉田へ来タル処ガ重立シ者ハ横田周作卜坂本宗作「会津」ノミ、彼是レ致シ居り、夕飯ヲ宿へ云イ付ヨウト相談スルトキ、菊池貰平ガ大宮ノ下ニテ赤イ襷ヲ掛ケテ居ル者ニ取巻カレ、羽織モ脱ギ捨テ、衣類モ破りタリトテ逃ゲ来ル、夫ヨリ同人ヲ大将卜頼ミ、信州へ越スコトヲ極メタリ」(「新井貞吉訊問調書」)
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「田代栄助等ハ心変リシタルカ逃去り、夫ヨリ私共モ逃ル積リニテ、四日ノ午後六時過ギ拾四、五名ニテ吉田へ来ルト、会津先生、門平惣平、坂本宗作等ガ百人程ノ人数ニテ大淵ノ方ヨリ来リテ私共卜会ヒ、吉田ニテ又人数ガ百五拾人ニモ相成りタルヨリ、其処ニテ菊池貫平ガ南甘楽郡ヨリ信州へ押出ストノ相談ガアリ、一同ソレニ同意シ、其処ニテ飯ヲ仕舞出立スルト、門平惣平ハ何レへカ逃走シテ居ラズ、其処カラハ菊池ガ総理トナリ」(「新井寅吉訊問調書」)
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「四月午後七時頃、下吉田上町ニ群聚スル暴徒凡弐百三拾人許、同所ニテ喫飲シ、暫ク憩止シ、石間村城峯山ニ官軍アリ、之ヲ駆除スルト唱へ、該地ニ発向スル躰ニテ上吉田村字塚越ニテ朝食ヲ炊カセ」(田中千弥「秩父暴動雑録」)
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□塚越までの途中、坂本宗作はそっと隊列を離れ、自分の家へ立ち寄る。
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□信州転戦は菊池貰平が蜂起参加前から抱いていた構想。
菊池貫平・井出為吉は、蜂起前に
「若シ兵糧ニ差支タレバ信州ヨリ取寄セ、又秩父デ破レタルトキハ信州ニ退ク」
と発言し、「一同大ヒニ力ヲ得夕」という(「小柏常次郎訊問調書」)。
また、田代栄助は、
「此両人(貫平・為吉)ハ何等ノ目論見アリタルヤ自分ハ一向二存ジ不申、去リナガラ自分ノ推スルニハ、菊池、井出ノ両人ハ真ニ秩父郡ノ一揆ニ加担スル者ニアラズ、幸ヒ当郡中ニテ兵ヲ挙ゲタル上ハ、之ヲ率ヒ長野県へ繰込ム了簡ニ出タルナラン」(「田代栄助訊問調書」)
という。
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□「この時にあたりてや衆大いに危惧し栄助織平らはすでに逃走しほとんど瓦解の域にいたらんとするをもって下吉村に立戻り、菊池質平らと相会し、転じて信州地方に入らんことを議し、さらに貫平を総理に推選し翌五日貫平らと残徒百数十人を引率し群馬県下南甘楽郡魚尾村にいたり居民を募り、翌六日同郡神ケ原村にいたり、途中土民に攻撃せられ支うるあたわず、さらに転じて楢原村にいたり、翌七日白井峠の茶屋において貫平らと相謀り、さきに捕獲したる群馬県巡査前川彦六を小林酉蔵に命じて殺害せしめ、長野県南佐久郡大日向村に進み、翌八日同村浅川源太郎、同玉之助、同源助方に乱入し家産を破壊し金円物品を略奪しなお進んで海尻にいたり、翌九日官兵の攻撃を受け奮闘して巡査二名を負傷せしめたるも勢支えがたき察し、貫平らとさきに掠奪したる金円を分配し走って所々に潜伏・・・」(坂本宗作判決文)。
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□かつての幹部、小柏常次郎(小荷駄方)、門平惣平(伝令使)、新井蒔蔵(自由党員)らは、前途に見切りをつけて暗夜に姿を消す。
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□新井繁太郎、幹部逃亡に怒り追及しようとするが果せず、信州へ向かうが、途中脱落。
小柏常次郎・門平惣平も同様。
繁太郎、「皆野宿ニ至リタルニ、栄助・織平其他重立チガ何レへカ逃ゲタリト云事ヲ聞込ミタル故、栄助等ハ金ヲ握ツテ逃ゲタル事ニテ不届ナル者ニ付、見付出シテナグツテ仕舞フト申シ、自分等大勢卜共ニ栄助等ノ所在ヲ捜スニ更ニ行衛分ラズ・・・」。
吉田に行くが捜し出せず、貫平と共に信州へ行こうとして峠を越える。
しかし、「此分ニテハ迚モ目的ハ貫ケヌ事卜考へ」、自首のため警察に向かう途中、上州村民に捕えられる。
常次郎も、4日午後、児玉に押出そうとした農民500は、「織平等ハ金ヲ懐ニシテ逃去り、不届モノ故、其家ヲ焼払フ」と道を転じて吉田に向かった、と述べている。
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□島崎嘉四郎(千鹿谷の大将)、夜10時頃、分散したゲリラ隊を日野沢で統合し、下吉田の酒屋に焚出しを命じ、児玉に押出そうとする時、金屋の敗報を聞く。
5日午前2~3時、椋神社で休息中、軍隊・警官多数侵入の報を受け、嘉四郎は信州転戦を決意し、「最早己レハ信州路ニ立越、多人数ヲ集メ再ピ当地へ立越スベシ、仍テ命ノ情シキ者ハ勝手ニ帰レ。/信州ヨリ人数ヲ集メテ再度来ルべシ、ソノ際直チニ駆付ケヨ。」と演説。
嘉四郎は30名余を率い信州路に進出、幹部として活躍する。
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□11月4日時点の新聞報道
・秩父事件の2度目の報道。「東京横浜毎日新聞」が「埼玉県貧民暴動」の号外を出す。
4日から掲載を始めるのは、福地源一郎の「東京日日新聞」、成島柳北の「朝野新聞」などで、この日には各紙とも加波山事件の富松正安逮捕を報じる。
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「東京日日」は、「小民等が不景気の余響に苦しめられ、博徒溢れ者或は過激の政党輩加はりて之を煽し」と書く。
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・末広鉄腸「雑録」(「朝野新聞」)。
「客年以来全国商業の振わざる、農家の窮する甚だしきものあり。新聞各社亦幾分か其の影響を蒙るに及べり。諸君言う。我が社の如き社運頗る隆昌なれば今日未だ苦情を訴うる秋に非ざるべしと。或いは然らん。然りと雖も履下の新霜既に我が足を寒からしむ。亦痛心焦慮して将来の幸福を保持する策を画すべきの時なり。況んや二、三年来我が社の蒙りたる刀痕鏃傷は末だ全く癒える能わざるに於てをや」
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
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