明治6年(1873)3月5日
*
・越前護法大一揆(越前真宗門徒の大決起)、大野・今立・坂井3郡下で勃発。3万人以上が出動。処罰者総数8,439人。死刑6人。
*
「開花」「復古」が人民を直撃、反撥する人民が決起
*
坂本龍馬の「船中八策」は、
「一 上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賀セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事」
で、二院制を唱えていることで有名であるが、
その第五策は、
「一 古来の律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事」
とされている。
*
開明的とされる龍馬でさえ、「幕府」に代る国家の原理を「復古」に求めざるを得なかったということである。
*
その後の「倒幕の密勅」では、「王政復古」の源泉について、岩倉具視の同志たちは建武の中興あたりを想定していたが、玉松操が「神武創業」にまで遡らせたという。
*
こうして、維新後の政府組織や政策は、「開花」と「復古」がペアで進められ、時には本末転倒と思われる事態も惹起する。
*
越前護法大一揆は、このような背景において、かつて「一揆持」の国として信長に対峙した越前で起こる人民の一大決起である。
*
*
経緯
この年1月
今立郡定友村(今立町)の唯宝寺(本願寺派)出身の教部省教導職(11等出仕)石丸八郎(還俗前は良厳)が帰省し、周辺の五箇・月尾谷法中14ヶ寺を集め岩本村成願寺で行った発言が発端。
当地に小教院を設立し、現在の寺院の宗旨や門徒同行を廃止して「三条宗」(三条は教部省の三教則)とし、仮教院とした成願寺で教導職の人才取調を実施するというもの。
さらに彼は、粟田部・庄境・小坂など近在の村々へも説諭する。
寺院や門徒の動揺は大きく、欧米諸国に迫られて、この年よりキリスト教信仰の禁止も撤廃されることになっていたことや、新政策に対する誤解ともあいまって一大騒動へと発展していく。
石丸の発言が、「耶蘇」の教法と喧伝され、その情報が隣接の大野郡に及び、
この月下旬、
友兼村の専福寺(真宗高田派)住職金森顕順、上据村の最勝寺(本願寺派)住職柵専乗・上層農竹尾五右衛門らを中心に約65ヶ村の「護法連判」が行われる。
石丸を「耶蘇宗の者」とし、「耶蘇」の侵入には、村毎に「南無阿弥陀仏」の旗を押し立て、断固一揆の強硬手段での対抗を誓う。
*
*
一揆は、3月4日、大野郡友兼村専福寺及びその周辺の村々から始まり、5日には竹槍などを携え「南無阿弥陀仏」の旗をかざした3千余の一揆となる。
3月5日、
福井支庁から派遣された官員・邏卒らが、竹尾五右衛門ら5人を「護法連判」主導者として拉致し、これを発端として大野郡下で大一揆が勃発。
翌6日、
上庄・下庄両地区から一揆の大群が大野町に押し寄せ、旧足羽県支庁はじめ豪商・戸長・商法会社・教導職寺院・高札場などを破毀・焼き打ち、農村では豪農の区・戸長宅を攻撃。
福井支庁は、官憲や旧藩士から募集した貫属を現地に派遣し、また大野町に乱入した農民を「説諭」するが、
逆に彼らの掲げる「三か条の願書」(一、耶蘇宗拒絶の事 一、真宗説法再興の事 一、学校に洋文を廃する事)を福井支庁に提出することを確約。
8日夕刻、
「願書」に対する県側の回答が遅れ、一揆勢が結集、「大野市中又騒然竹槍林立立錐ノ地モ無シ」の事態となる。
官員は、一旦一揆側の「願書」全てを認め、一揆主導者処刑はしないと確約し、事態を鎮静化させる。
*
本庁は、名古屋鎮台・大阪鎮台彦根営所に一揆勃発の事情を報告し、11日、一揆主導者一斉摘発のため名古屋鎮台に至急出兵を要請。
*
しかし、同日(11日)、
隣接の今立郡に大一揆が勃発。
*
小坂村など近村の農民諸階層による戸長富田重右衛門宅への打毀しが発端となり、莇生田・東庄境・野岡・粟田部・定友・岩本・大滝・松成・中新庄の諸村に及び、教導職寺院・豪農商の区戸長居宅・土蔵を破毀焼却。「南無阿弥陀仏」の旗をおしたてた一揆勢は2万余。
*
県は、官憲・旧鯖江貫属を派遣、武力弾圧を行い、13日、一揆勢は四散。
*
今回も横越村に屯集した農民が「三か条の願書」を差し出すが、官員はこれを拒絶。
*
更に一揆は、13日、坂井郡下の九頭竜川以北の農民が各所で蜂起、金津・兵庫・森田近辺に群集し約1万となり、福井に進撃、舟橋の上で「願書」を差し出すが、拒否されると反撃に転じる。
官側は、福井町周辺の要路に邏卒・貫属を配置、砲撃による武力制圧を加え、一揆勢の福井侵入を阻止。
15日、
一揆勢は丸岡町近くの一本田に押し寄せ、また川西地方からも川東へ渡ろうとする形勢をみせたので、県側は川西諸道へも官憲を派遣し「西北諸村響応の道」を遮断、一方、郡内の戸長も「説諭」に尽力し一揆勢はようやく四散。
*
(**この一本田は、中野重治さんの故郷)
*
14日、
大野町では小隊取締・小隊長(正・副)・弾薬方・小荷駄方・探索方(斥候)など1小隊の部隊編成を行い、一揆再発阻止の態勢をとり、
22日から
鎮台兵進駐の下に、一旦容認した一揆側「願書」を取り消し一揆参加者の一斉検挙を開始。
一揆に出動したと見做される人々への拷問が長善寺(大野寺町)の「仮断獄所」で開始。
その場で重犯とされる人々は福井の獄舎に護送され、再び拷問に近い取調べが続けられ、軽犯とされる者には「村預ケ」処分が下される。
同時に、各村代表者が呼び寄せられ、村民1人毎の行動を裏付けする調書作成が命じられ、これと併せて、新暦採用、時鐘改定、学校での洋学教育、説教規制など、一揆で拒絶を訴えた事柄について遵守を誓約する証文提出が求められる。
拷問・捕縛・執拗な取調べの中で「開化」受容が迫られる。
*
4月4日、
捕縛者80余の内、友兼村専福寺の住職金森顕順(41)・竹尾五右衛門(39)ら6人に判決、即日処刑。
県は、「朝威ヲ蔑如、再燃実ニ不可測ノ形勢」にあり、「積弊懲化ノ好機」であるとして、政府への正規手続きを省き見せしめの為の処刑を急ぐ。
*
*
一揆側の諸要求
1.耶蘇宗拒絶之事、
2.真宗説法再興之事、
3.学校ニ洋文ヲ廃スル事、
4.朝廷耶蘇ヲ好ム、
5.断髪洋服耶蘇ノ俗ナリ、
6.三条ノ教則ハ耶蘇ノ教ナリ、
7.学校ノ洋文ハ耶蘇ノ文ナリ、
8.地券ヲ厭棄シ(諸簿冊灰燼トシ)、
9.新暦ヲ奉セス、など(3月11日の県の報告書)。
*
護法的なものは1・2・4・6で、3・5・7~9は政府の新政策への反対抗議(「反動的一揆」としての性格)。
1・4~7には「耶蘇」の語を用いるが、一揆側が護法的立場から民心掌握する便法として喧伝したものとみられる。
従って、「耶蘇」の語は、その教義の問題ではなく、「反対すべきもの」・「好ましからざるもの」の嫌悪意識の表現として掲げられたといえる。
*
*
大野町の元足羽県支庁の焼打ち、商法会社・高札場・布告掲示所などの破毀は、権力支配機構への反発を意味し、明治初年の「村方騒動」など「世直し型」的状況とは性格が異なる。
支庁の焼打ちによる地券調書類の焼失は、大野郡下248ヶ村について、かねて県が各村取調台帳・一筆限帳の作成を進め、ほぼ完成した時点で行われる。
足羽県を併合した敦賀県が、旧足羽県下諸町村の地券調書類作成を性急に進めたことが、農民の反発を招いたものとみられ、地券取調実務担当の区・戸長が敵視されている。
一揆勢は、大野町の阿部善四郎・鈴木重明の両戸長が預かっていた地券を奪取し善導寺境内で焼却。
*
攻撃目標。
一揆勢は、攻撃対象者の生産・商業活動を一時麻痺状態にする事を狙う。
今立郡下の在方町的な性格の粟田部村の場合、
豪農商筆頭木津群平は、住家・土蔵・酒蔵・生産用具の水車・農具類・諸生産物までが徹底的に破毀される。
大商人飯田上祐(戸長)の油蔵、木津次平の海産物、法幸治郎三郎の砂糖類の諸商品が、大量に破損・焼却される。
背景として、商人資本による収奪が、日雇・雑業の賃稼ぎ層や借地人層など下層民の反発をかっていたとみられる。
大野町の場合も、攻撃の矛先は、元足羽県支庁・商法会社・高札場のほかに、豪商で県内外各地「大野屋」総本店大坂屋七太郎、酒造業者の布川源兵衛、海産物商の中野屋又兵衛らに集中し、大坂屋の住家・店舗・諸商品全て焼き払い、布川家の住家・土蔵・酒蔵を破毀、「一時ノ間ニ酒道具いろいろ残らず間ニ合はざる様打クタき」、酒造用原料品を破却。今立郡粟田部村の木津家と同様に、「世直し型」的状況が認められる。
*
主導的諸階層。
一揆には、町内でも下層町民の多い横町・春日町・末吉町方面からの出動が目立ち、特に桶屋治助(桶屋、末吉町)は、布川家破毀、元足羽県支庁・豪農杉本弥三右衛門宅(木ノ本領家村)・正津孫十郎宅(菖蒲池村)放火により極刑に処せられる。
桶屋治助に同行した小坂屋小太郎(小商い)らの居住する春日町の総戸数56戸の内、借家戸数は31戸(55%)で、内日雇・雑業の下層町民が約3割を占める。
大一揆に先立つ「護法連判」の主導的役割を果たした上庄地区の木ノ本地頭村は、全191戸の内、無高・5石以下の貧農層が127戸(67%)で、同村は畑方村落の性格を帯び、養蚕・楮・漆実など貧農層の農間稼ぎにもかかわらず、総体的に農民層の貧窮分解の傾向が顕著である。
同村の高橋太右衛門は、持高5斗8升5合の下層農で、桑崎与八郎(持高6石1斗)と共に一揆を主導、元足羽県支庁に乱入したほか、桶屋治助と共に豪商布川家を打毀し、豪農杉本弥三右衛門宅放火に手を貸すなど、大野町の下層町民と農村の下層農との連携・同盟関係を象徴的に示す。
大決起展開過程で、真宗寺院僧侶と共に門徒層として、農村では一部上層農のほかに中層農・下層農が積極的に出動する「惣百姓型」一揆の様相をみせ、また在方町では特権商人(高利貸資本)と対立する賃稼ぎ層などの主導的役割のもとに、中小商人・職人層の広汎な参加がみられる。
*
*
官側の対応。
処罰者総数8439人、贖罪金2万309円余。大野(135村出動)・今立(75村出動)・坂井(121村出動)3郡の大半、一部吉田郡(4村出動)を含め計8028人に贖罪金を賦課。出動者全てに「贖罪金」(竹槍・棒等の持参者3円、不持参者2円25銭)を課す。
4月、県は、罹災者への「救恤金」貸与申請を行うが、「伺い書」の中で、区戸長の罹災者や被害を受けない他郡の末端支配層までが大一揆の脅威に慄き「退役辞職を表する者連綿として絶たず」という政治社会情勢を醸し出したと述べる。
4月13日、政府は総額3100円を大野・今立両郡の13人に貸与するよう指令するが、区戸長などの役職のない寺院・豪農商層には貸与されず、権力支配末端統治組織の保持・強化に腐心する政権の企図が窺える。
一揆の歴史的性格
「真宗地帯」での「護法」的課題を直接的な契機としながら、
一揆勢の諸要求・攻撃目標・主導的諸階層などからみて、明治初年の「世直し型」性格と、同時に「惣百姓型」一揆の性格を持つ。
全国的にみて、明治4~6年に勃発し、特に6年でピークを迎える「護法一揆」の特質を極めて明瞭に示す。
*
*
本記事は、大半を「福井県史」デジタル版によっています。*
*
*
0 件のコメント:
コメントを投稿