さて、北野白梅町から嵐電北野線にのって妙心寺、龍安寺、仁和寺を参拝する。
下図のように、各寺ごとに嵐電の駅があるが、時間とお金のセーブの為には、龍安寺駅で下車して一気に歩くのが得策であろう。
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龍安寺駅で下車し、一旦南へ下り妙心寺へ、そこから再度龍安寺駅に戻り、今度は北へ上り龍安寺へ、さらに「きぬかけの道」なるところを通って仁和寺へ、というコースとした。
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龍安寺駅で下車し、一旦南へ下り妙心寺へ、そこから再度龍安寺駅に戻り、今度は北へ上り龍安寺へ、さらに「きぬかけの道」なるところを通って仁和寺へ、というコースとした。
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龍安寺駅
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龍安寺駅
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妙心寺は、南は丸太町通りから北は一条通りまでが寺域である。
妙心寺は、南は丸太町通りから北は一条通りまでが寺域である。
私のとったコースだと、北側の北総門から南総門に至ることになるが、これでは裏門から入って大手門に出る逆コースなので、以下では実際に私の辿ったコースとは異なり、表の南総門から順をおってのご紹介とします。
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南総門(慶長15年)
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すみません、下の山中図は妙心寺さんのHPからの無断借用でです。
すみません、下の山中図は妙心寺さんのHPからの無断借用でです。
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妙心寺は、暦応年間(1338~42)、花園上皇がこの地の離宮を禅寺とし、大徳寺の開山宗峰妙超(大燈国師)の弟子関山慧玄(カンザンエゲン)を開山として迎えたことに始まる。
妙心寺は、暦応年間(1338~42)、花園上皇がこの地の離宮を禅寺とし、大徳寺の開山宗峰妙超(大燈国師)の弟子関山慧玄(カンザンエゲン)を開山として迎えたことに始まる。
その後、政争による中断、応仁の乱での焼亡などののち、文明9年(1477)、細川勝元・政元らの援助で堂宇が再建される。
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境内は500㎡
三門、仏殿、法堂、寝堂、大方丈が一直線に整然と並ぶ。
これらはいずれも、室町後期~江戸初期の建築
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子供の頃、生家近くを修行僧の団体が経をあげながら行進しているのをよく見かけた。
あれは、妙心寺の僧であると教わった記憶がある。
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子供の頃、生家近くを修行僧の団体が経をあげながら行進しているのをよく見かけた。
あれは、妙心寺の僧であると教わった記憶がある。
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法堂
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法堂
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仏殿
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仏殿
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塔頭の一つ、霊雲院(重文)
塔頭の一つ、霊雲院(重文)
西田幾太郎の墓所
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山内は、一条通りから丸太町通りに出る抜け道でもある。
山内は、一条通りから丸太町通りに出る抜け道でもある。
たくさんの高校生が自転車で走り抜けて行く。
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佐久間象山の墓所である塔頭
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佐久間象山の墓所である塔頭
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遠くに(多分)「双ヶ岡(ならびがおか)」が見える
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遠くに(多分)「双ヶ岡(ならびがおか)」が見える
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家光が乳母春日局の菩提寺として建てた麟祥院などの閑静な塔頭が続く
家光が乳母春日局の菩提寺として建てた麟祥院などの閑静な塔頭が続く
塔頭は全部で42あるという
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北総門から入ってすぐの景色
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北総門から入ってすぐの景色
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北総門
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北総門
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