大逆事件の断罪があった明治44年(1911)3月、慶応大学生佐藤春夫(20)は、父の友人大石誠之助の死を悼む詩「愚者の死」を「スバル」に発表。
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「千九百十一年一月二十三日
大石誠之助は殺されたり。
げに厳粛なる多数者の規約を
裏切る者は殺さるべきかな。
死を賭して遊戯を思ひ、
民俗の歴史を知らず、
日本人ならざる者
愚なる者は殺されたり。
「偽より出でし真実なり」と
絞首台上の一語その愚を極む。
われの郷里は紀州新宮。
彼の郷里もわれの町。
聞く、彼が郷里にして、わが郷里なる
紀州新宮の町は恐懼せりと。
うべさかしかる商人の町は欺かん、
---町民は慎めよ。
教師らは国の歴史を更にまた説けよ」
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更に、翌年4月にも「病」、「街上夜曲」を発表
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「病」
「うまれし国を恥づること。
古びし恋をなげくこと。
否定をいたくこのむこと。
あまりにわれを知れること。
盃とれば酔ざめの
悲しさをまづ思ふこと。」
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「街上夜曲」
「×
号外のベルやかましく
電灯の下のマントの二人づれ
---十二人とも殺されたね。
---うん・・・・・深川にしようか浅草にしようか。
浅草ゆきがまんゐんと赤い札。
電車線路をよこざる」
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明治41年(1908)
佐藤春夫が15歳、新宮中学4年生の頃、大石誠之助と沖野岩三郎は、新宮の町はずれにある大石誠之助の甥西村伊作所有の空家に新開雑誌閲覧所というのを設け、そこに文学雑誌・新聞・社会主義の著作をおく。佐藤春夫は学校帰りによくこれを利用。
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西村伊作:
誠之助の兄の子、西村家に養子に入る。のち文化学院(コチラ)を創立、鉄幹・晶子は全面的に運営をバックアップする。
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沖野岩三郎:
和歌山県の日高川に近い寒川村生まれ。極貧の境遇に育ち、13歳~17歳まで土方の労働生活を続ける。18歳で和歌山の中学予備校に入り、翌年、小学校の雇い教師となり、22歳で小さな小学校の校長になる。
明治37年29歳で明治学院神学部に学ぶ。日露戦争後の東郷大将の凱旋式の際、学校が学生を参加させようとしたときストライキでそれに反対。
明治39年、沖野岩三郎(31)、明治学院神学部を卒業、紀州の新宮教会の代理牧師として赴任。夏期の伝道旅行に行った縁で大石誠之助を知る。明治43年、試験に合格して正式の牧師となる。
秋水の新宮訪問の際には、所用のため歓迎の席に出られず、結果的に難を逃れる。
新宮グループが検挙された際、崎久保・峰尾の弁護は沖野が鉄幹を介して平出に依頼。
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・この年は、4月に啄木が起死回生の上京を果たし、その直前の3月末には、新聞各紙が森田草平と平塚明子の事件を報道している。
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7月25日
幸徳秋水が新宮に大石誠之助訪問、8月8日まで滞在。秋水は故郷土佐で赤旗事件の報を聞き、急遽上京する途次であった。
幸徳は新宮滞在中に、熊野川の舟遊び、高木顕明が住職をしている浄泉寺での社会主義講演会、高木、成石、崎久保、峰尾らが集まった座談会に出席。
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「社会主義の巨頭幸徳秋水の来遊を歓迎して、新宮町の同志大石誠之助の発起によって大石の感化を受けて社会主義を奉ずるようになっていた町内の二、三の人々、たとえば真宗の僧侶や、川奥の山に働く青年やいかだ流しの若者、さては社会主義とは関係なく大石と親交のある町のインテリなど、大石の呼びかけに応じて集まり、季節柄熊野川に自慢の落鮎狩りを催して晩夏一夕の涼をとり、互に杯を交して親睦しつつ幸徳氏の旅情をねぎらい高話を聴こうと川舟を用意した。」
(佐藤春夫『大逆事件の思い出』(「新しき抒情」1968年所収))
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この年末には、誠之助が東京の秋水を訪ねている。
後の予審で、その時の「茶飲み話」の革命談議が大逆事件の共同謀議、誠之助が帰郷して東京のみやげ話をしたことが同志糾合とされ、このフレームワークは最後まで維持される。
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明治42年(1909)
年初より佐藤春夫の歌が「スバル」に採用されている。
2月には啄木の朝日新聞校正係入社(月給25円)が決まる。
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8月
鉄幹(37)が、生田長江(28)・石井柏亭(28)らと再び新宮に行く。佐藤春夫(18)はこの時鉄幹を知る。 明治39年10月にも訪問している。
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8月21日の文学講演会の際、佐藤春夫が前座として『偽らざる告白』の談話をし、それが物議をかもし9月初めに学校を無期停学になる。
講演内容は、自然主義文学の解説を、「一切の社会制度の虚偽を排し百般の因習と世俗的権威を無視した虚無観に立って天真のままの人間性と人間生活を見ようというのが自然主義の文学論」であると、「生意気な公式論の受売を二〇分かそこら」やった。(佐藤春夫『私の履歴書』(日本経済新聞社1957年)。
そして、この春夫の無期停学処分が、2年生~4年生の学校ストライキ騒動に発展する。
11月上旬、春夫は騒動を嫌って、生田長江を頼って上京するが、11月15日に新宮中学放火事件があり新宮に呼び戻される。
春夫にはストライキ・放火事件の首謀者の嫌疑がかかるが、春夫はこれに反論。
警察も手を引いたため、学校側は、停学処分を解除し早く卒業させる方針をとる。
翌1910年3月中学を卒業し、4月に再び上京。
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明治43年(1910)
大逆事件の年
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4月
佐藤春夫は、鉄幹に詩歌の直接の批評を受けるようにる。この年、慶応大学に入学。
鉄幹は春夫に、「きみは詩を作ったらいいだろう。歌を作る人はたくさんあるし、詩の方が面白くないのか」と言われ、春夫は詩をやりだしたという。
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両親は、春夫が一高~東大へ進むのを望み、春夫は7月上旬の試験まで受験勉強をすることになる。
生田長江の世話になり、下宿屋に落ち着いてから鉄幹を訪問し、同い年の堀口大学と知り合う。
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堀口大学:
明治25年、父堀口九万一と政夫婦の間に生れた。父はまだ東大法科の学生であったので、生まれた子供に大学という名をつけた。九万一は新潟県長岡の出身で、明治27年大学を卒業、外務省に勤め、間もなく京城に副領事として単身赴任。
明治28年春、鉄幹(23歳)が鮎川房之進に招かれ乙未義塾の教師として赴任。
また、この年10月は、日本公使三浦梧楼・公使館一等書記官杉村濬らの陰謀により閔妃暗殺事件が起り、鉄幹や堀口九万一も逮捕される。広島に護送されるが無罪となる。
堀口九万一は、明治28年に妻の政を亡くし、32年、ベルギー人と再婚、その間に2人の子をもうける。
大学は、明治41年長岡中学5年のとき、「スバル」9月号の吉井勇の短歌「夏のおもひで」に感動し、歌を作るようになり、42年9月から鉄幹の新詩社に入って歌を学ぶ。
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5月25日
大逆事件検挙始まる。
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誠之助が検挙された6月初め頃の新宮の様子。
「故郷に帰って来たのは、夏休みにしては早すぎる晩春初夏の候であった。折から町ではドクトルさんが検挙されて、高木顕真和尚や川奥のいかだ師の某などにも手がまわって、まだ連累があるらしいと、ドクトルさんの知人たちは、あの温厚なドクトルさんの何の罪かとあやしみながら町は恐怖に襲われていた」(佐藤春夫『わんぱく時代』1958年)
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春夫の父豊太郎(医師)と大石とは、
「大石は緑亭の号を持って文学趣味も深く、この点でも父とは合い口であったし、同業のことではあり、父とは町政の政見をも同じくして町インテリとして実業派と称する一派にも反対していたので、何かと互いに相往来することの多い間がら」
であった。
幸徳の熊野訪問の際は、
「父は北海道の開墾に熱中しつづけて十勝止若の仮寓に暮していた」
ため欠席していて難を免れた。
もし参加していたら、父も死刑か無期徒刑になっていたに違いないと言う。
春夫の父は家宅捜索もされ、取調べから帰った時は、
「父は帰ると直ぐ、クロボトキンの『パンの略取』という本があったろうあれをさがしているのだがどうしても見つからないと、不安がって騒ぎ出した。それならば父の書斎から持ち出してわたくしが読みはじめていたところだから、そのことを言うと、早く持って来い。あれは大石から借りていた本であると急いで取り返して、それを金庫のなかへ隠した」。
と述べ、
さらに、熊野川の舟遊びで事を謀ったというのは、
「デッチ上げで、わたくしばかりでなく、口にこそ出さぬ町の人々は当時からみなそう思っている」
と言い切っている。
(佐藤春夫『大逆事件の思い出』(「新しき抒情」1968年所収)
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