2010年8月7日土曜日

明治6年(1873)5月26日~31日 大久保利通、欧米視察より帰国  小野組、京都裁判所へ「難渋御訴訟」   [一葉1歳]

明治6年(1873)5月26日
大久保利通、欧米視察より帰国
翌日、帰朝届けを三条に提出し、箱根~京阪に遊び政府内の風雲を傍観(8月16日、休暇をとって関西旅行)。
岩倉帰国まで静観の構え。7月23日、木戸帰国。9月13日、岩倉・伊藤一行帰国。
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大久保は(木戸も)、留守居役の西郷や板垣に負い目を感じ、また使節団の中では、大久保・木戸は一時は口もきかないほど疎遠になっていた。
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8月3日、大久保は、左院三等議官宮島誠一郎と会見した際、
「実は使節派出先へ御用これあるに付、早々帰朝の旨、御呼び戻し申し来」たので、「夫より大使に先ち二、三個国を残し取り敢えず帰朝」したが、
「すでに御改革も相済み候由にて、態々(ワザワザ)帰朝に対したる御用もこれなく、当時休息中・・・」
と語る。
大久保は、わざわざ中途帰国させられたのに、すでに改革はすんでしまっていて何もすることがない・・・と失望の心境を語る。
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□「大隈伯昔譚」(改行を施す)
「大久保は其の巡遊中に木戸と不和にして、単身帰朝するの己むを得ざるに至りしより、快々(オウオウ)として楽まざるのみならず、一旦帰朝して内国の事情を察するに及んで、井上の辞職、閣僚の反目は言うまでもなく、彼(大久保)と西郷との関係、彼と旧藩主(久光)との関係など、殆んど之を口にすべからざるものあるを知り、痛く落胆失望して輙く政務を執るを欲せず、慨然天を仰いで長大息して日く『鳴呼斯くの如くんは吾れ復た何をか為さん』と。
大久保は此のごとき悲境に沈めり
……是に於て新たに帰朝せし大久保も、暫くは何も為す所なかりしのみならず、終に京地に在るを厭い、瓢然として旅行の途に上り、以て其の煩累を避くるに至れり」(「大隈伯昔譚」)
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□三宅雪嶺「同時代史」(改行を施す)
「初め大使一行の日本を出発せし際、・・・必ず大に得る所あらんと期待せしに、米国にて改正の実地問題に触れ、早くも一行間に異議の起り、木戸が大久保及び伊藤の軽卒を難じ、大久保等は之に快からず、木戸の曩(サキ)に同意せしを言ひて報い、相ひ反目するの形を呈す。
互に他を責むるとて何等特別に為すべき事なく、前の抱負の幻滅しつつ、予め照会せし諸国を巡回せざるを得ず。
米国を去る時、事実上に漫然たる巡遊に過ぎざるを意識せるも、其の儘に中止すべくもなく、幾許か予想の狂へるに失望し、幾許か文明国の旅行に興味を唆られ、世界の形勢に通ずるを以て心に慰め、英国より仏国に渡りて新年を迎へ、・・・
大使及び副使は自ら徒らに漫遊せず、為し得べき限りを為し来れりと考ふるも、留守居の大官より観れば純然たる漫遊と同様にして、・・・国事を余所にし、花に戯れ月に浮かるゝとは何事ぞと責められぬ許りにて、空気は頗る穏かならず」
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「大使派遣が既に誤りにして、最初の一歩を誤り、互に他を責め、後は後ほど距離を多くし、(木戸と大久保は)何の故を知らずして極力相ひ抵排するに至る。
・・・大使一行中にさへ『条約は結び損ひ金は捨て、世間へ大使(対し)何と岩倉』といふ狂歌の行はるゝ位にて、内地に悪評少からず、恥の上塗とも取り沙汰せり。
・・・(大使らは)何を為し来れるやを言ふに難く、言へば欧米の文明又は世界の大勢を説くべきのみ。
留守派は漫然たる洋行話を聴くを欲せず・・・
元はと言へは、一大使四副使同勢百人といふ大掛りにて出発せしの誤りに起り、・・・大掛りの観光団は後より顧みて思はざるも甚だしけれど、既に発せし矢は帰らず、齟齬の結果として何辺かに大破綻の起るを禦ぐに由なし
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5月26日
・北条県(岡山県)、徴兵令反対と被差別民呼称を変更反対の暴動。
戸長宅・小学校等を破壊、被差別部落襲撃し29人殺害。死刑15人・処罰2万6900人。
6月2日、大阪鎮台兵が暴動を鎮圧。
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5月27日
・小野組総支配人小野善右衛門、京都府庁の白州で京都府七等出仕谷口起孝に尋問される。
同日、小野組、転籍で京都裁判所(所長北畠治房)へ「難渋御訴訟」
五代友厚が小野善右衛門に司法省「達第46号」による提訴を勧める。
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5月30日
・文部省、官費留学生の無断民間就職禁止
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5月30日
・仮名垣魯文(44)、横浜の太田東福寺奥の牧畜所で製造した牛乳の販売を始める。1合につき銀3匁。
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仮名垣魯文
文政12年(1829)、京橋の鎗屋(ヤリヤ)町に生れる。
父野崎佐吉は魚屋で、俳句・狂歌など好んで作る風流な人物で星窓梶葉(ホシマドビヨウ)という号を持つ。
魯文(文蔵)も、9歳の頃から戯文や小説を読みあさるが、家が貧しく商家の丁稚となる。
ある時、人相見に小説書きになれば出世すると言われ、18歳の時、戯作者花笠文京の弟子になる。
翌年、19歳の時、師匠の花笠魯介文京の名から、英魯文鈍事という筆名を作り、名弘めのために「名聞面赤本(ナヲキイテオモテアカホン)」という小冊子の原稿を書き、師の文京や先輩の文人・芝居作者・俳人たちに俳句や和歌をそれに書きつらねて貰う。
この時、売文業者の仲間の習慣として、三代目並木五瓶、二代目河竹新七(後の黙阿弥)、五代目鶴屋南北、三代目十返舎一九、山々亭有人(後の条野採菊)、二代目為永春水(染崎延房)、山東京山等40名が賛助執筆。
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更に、文人の最高権威・曲亭滝沢馬琴(82歳)の一筆があれば何よりと、嘉永元年7月、師の文京に連れられて、四谷信濃町の馬琴の家「著作堂」に行く。
馬琴は8年前から失明しており、死んだ息子宗伯の嫁の路(50歳ほど)が、助手として口述されるものを筆記していた。
馬琴は、自分は眼も見えず、耳も聞えないから、そういうものを書くことはできない、と言うが、文京が若い弟子のためにと懇請したので、馬琴は路女に書きとらせて「味噌揚げて作り上手になりたくば世によく熟し甘口ぞよき」という狂歌を一首贈る
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そして印刷に着手。表紙の絵を渓斎英泉、本文の筆耕は田端松軒が担当。
しかし、この「名聞面赤本」が出来上らないうちに嘉永元年11月6日滝沢馬琴は没す。
辞世は「世の中のやくを遁れて元の儘かへすはあめと土の人形」。
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安政元年(24歳)に自立。湯島の妻恋坂に初めて妻よしと持った家の表に専門文士の看板を掲げる。
安い稿料で先輩作家の書き直し本を作り、引き札(チラシ)の文案を書き、手紙を書き、時々自分の作をも書くが、暮しが成り立たず、その家で古道具屋を営み、後には文士にふさわしい副業として黒牡丹という丸薬を売る。
安政2年10月2日、ある読切本を脱稿し、妻よしが草稿を、日本橋通2丁目の出版屋糸屋庄兵衛方に持って行き、妻がその作料で米を買い、井戸端で米を洗っていた時(その時魯文は蒲団の中で書見をしていた)、安政の大地震が起る。
この大地震の騒動の最中、出版屋三河屋鉄五郎が魯文を訪れ、地震を題材にルポルタージュ「安政見聞誌」という際物を3冊で出したい。原稿締め切りは3日後で原稿料は特別に10両にする、と提案。
その日の米代にも事欠く魯文は、これを承知する。
その時そこへ、魯文「名聞面赤本」の表紙を描いた画家英泉の門弟の英寿が、魯文の壊れた家を訪ねて来る。魯文は英寿と稿料を折半する約束で、2人でその原稿にとりかかり、3昼夜で「安政見聞誌」3冊本、約200枚の原稿を書き、2人5両ずつを得る。
これが彼の得た最高の原稿料である。
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江戸時代からの戯作者の生活は、道具屋か薬屋を兼業しなければ成り立たないものである。
馬琴は神女湯他の家伝丸薬を売り、京伝は読書丸を売る。魯文の同時代者で新聞人となる2世春水(染崎延房)は古本屋を営み、後の3世種彦である高畠藍泉は画を描いて大道で売る。
また、彼らは幇間同様の生活もしている。
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魯文は、少年時代から幾人かの後援者の取り巻きとして生活をしていた。
後援者としては、初めは評定所の留役である榎本総助、次に金座役人の高野酔桜軒、大伝馬町の豪商勝田幾久が、その後は今紀文と称された津藤香以山人がいる。
香以山人の取り巻きには、魯文の外にも、その親友の山々亭有人(採菊条野伝平)、河竹新七(後の黙阿弥)、その競争相手の劇作家瀬川如皐(ジョコウ)、画家落合芳幾、俳人其角堂水機などの魯文の友人がいる。
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明治3年9月(42歳)、福沢諭吉の「世界国尽」「西洋事情」「西洋旅案内」「西洋衣食住」をもとに、十返舎一九「東海道膝栗毛」に似た作品「万国航海 西洋道中膝栗毛」を書き上げる。
翌明治4年には「牛店雑談 安愚楽鍋」を書く。
更に、明治5年には「胡瓜遣」、「西洋料理通」、「世界都路」等の福沢諭吉の作品を摸したものを書く。
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しかし、元来、体験も知識もなく、洋学流行の風潮に乗って戯作口調の悪ふざけを売りものにした仕事であったから、次第に行きつまってゆく。
明治5年頃から新聞が発行されるようになり、戯作の読者は、次第に新聞の読者となり、最もよく作品の売れた魯文ですら生活は困難となる。
また明治5年2月、和田倉門の内側で兵部省の添屋敷となっていた旧会津藩邸から出火、火は京橋、銀座、木挽町を焼け尽し、多くの出版書肆が焼ける。
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この年明治6年、魯文は著述生活に見切りをつけ、横浜に移り、月給20円で神奈川県庁の雇員になる。
明治初年の官公吏は、旧武士のみの就き得た職業であって、魯文のような平民にとってはそれが一種の出世である。(伊藤整「日本文壇史」より
)。
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5月31日
・朝鮮、草梁の外務省7等出仕広津弘信、朝鮮人民への布告用の「東萊府伝令書」に、日本人の髪型・風俗変質を非難する項目ありと報告。
6月後半~7月の閣議、外務卿代理外務少輔上野景範(外務卿副島は清国全権大使、外務大輔寺島は駐英大弁務使で、上野が外務省務の最高責任者)は、在留邦人保護のための軍隊派遣を主張。
板垣・三条は同調。西郷は自ら非武装で使節を引受けると発言。
副島外務卿の帰国を待つとこになる。
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「★一葉インデックス」をご参照下さい
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