天文21(1552)年9月
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9月5日
・イヴァン4世(雷帝)のカザン攻撃。カザンの町に構築した地下道爆破、カザン陥落。
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9月7日
・山科言継、滞在先の葉室家の持ち山の栗が熟し、200~300個を拾う(「言継卿記」同日条)。
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10月
・尼子軍、備後福永城攻撃。毛利軍救援し、これを破る。
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10月2日
・三好長慶2千、入京。
3日、松永甚介3千と合流し、細川晴元党の潜伏地域を焼き討ち。京都西岡に放火し三鈷寺・善峰寺などが炎上(「言継卿記」)。
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10月2日
・イヴァン4世(雷帝)、カザン・ハーン国カザン市征服。ロシア領に。カザン・ハーン国は滅亡。
29日、イヴァン4世(雷帝)、モスクワ帰国。
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10月12日
・信長、知多郡郡代大森平右衛門尉へ、知多郡と篠島の商人が守山を往来する自由を安堵(「古今消息集」)。
21日、織田秀敏(大叔父、祖父信定の弟)へ尾張中村3郷を信秀の判形通りに安堵(「尊経閣文庫所蔵文書」)。
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10月20日
・細川晴元党香西元成、内藤貞正(八木城主、氏綱党)を撃破し、河瀬城(大堰川流域、位置不詳)奪取。
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10月26日
・幕府軍、京都杉坂および嵯峨に打廻す。
29日、京都船岡山に出張。細川晴元軍、蓮台野へ退却。(「言継卿記」)。
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11月20日
・神聖ローマ皇帝カール5世(アルバ公6万)、仏ギーズ公フランソワ(33、519~1563)が守備のメッツ到着。包囲開始。
12月26日、ギーズ公フランソワ、皇帝軍を撃退。アルバ公軍、補給続かず撤退開始。 包囲戦動員6万のうち帰還1万2千。
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11月27日
・将軍義輝・三好長慶の和議破綻(この年1月~11月)。
足利義輝、新規築城の東山霊山城入城。同日、細川晴元、高雄口から嵯峨に現われ、桂川を渡って西岡一帯の村落を焼打ち。
郡城(コオリ、右京区)・西院城を守備する三好長慶被官小泉秀清・中路修理亮らは小泉城を焼いて将軍義輝のいる霊山城に逃れる。
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28日、清水坂の戦い。細川晴元軍、嵯峨から霊山城に向う。霊山からは小泉・中路氏らが出撃し、五条坂で交戦。負傷者双方数人、死者なし。建仁寺、兵火に炎上。
翌日、河内守護代安見直政上洛の報に、晴元らは丹波に引上げう。
翌天文22年8月1日霊山城陥落。
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「去夜西院の小泉・郡の中路修理等城自焼(ジヤキ)、霊山へ参ると云々」(「言継卿記」11月28日条)。
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義輝、この頃、東山霊山(時宗寺院の伽藍跡、東山区円山公園の北東)に城霊山城築城。
「義藤(義輝)霊山御城普請始」(「後鑑」所収「異本年代記」天文21年10月27日条)が初見。
「東山霊山の峰に、公方様御城構へらるゝ事これあり」(「厳助往年記」同年11月条)とある。
京郊地域で殆ど最後に築城された中世城郭。
時宗寺院「正法寺」のあった場所で、原因は不明だが天文19年6月に山科七郷はじめ近隣郷民の焼打ちにあい(「言継卿記」同月21日条)、荒廃したままの伽藍跡を、義輝が中尾城焼失の代わりとして修築したもの。
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□「言継卿記」(改行を施す)
義輝方と晴元軍との清水坂の合戦のあった11月28日、山科言継(正二位権中納言、陸奥出羽按擦使、現役公卿中17位の序列)は霊山城に義輝を見舞う。
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「牢人(晴元方)衆西辺方々放火す。辰の刻計霊山へ取り懸かる。
五条坂悉く放火す。建仁寺の大竜・十如二塔頭悉く炎上し了んぬ。
・・・。清水の坂にて軍これあり。但し討ち死にこれなし。手負左右(双)方六七人宛これありと云々。午の時これを引く。
・・・申の刻計り。予(言継)・冷泉・広橋黄門(国光)・庭田・尊勝院等同道せしめ霊山へ参る。其外奉公衆、摂津掃部頭(晴門)・飯尾大和守(尭連)・同加賀守・疋田弥四郎・梅雪等同道し了んぬ。則ち御対面。次いで清水へ罷り向かう。・・・」(「言継卿記」)。
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翌12月の下旬でも霊山城の普請は続いている。
「御城山普請の事、前々御下知の筋目、殊更先年御堀の時の例に任せ、当社務(北野社)西京七保人足の儀、家次(イエナミ)としてこれを申し付けらるべし。若し異儀に及ぶ族(ウカラ)これあらば、御成敗を加へらるべきの由仰せ出され候なり。
仍て執連件の如し。
天文廿一 十二月廿日 (松田)盛秀(花押) (中沢)光俊(花押) 竹内宮御門跡雑掌」
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11月28日
・今川義元娘と武田信玄嫡男義信との婚儀。
天文19年(1550)6月2日、義元夫人(信玄姉)が没するが、甲駿同盟を継続するための政略結婚。更に翌天文22年正月、信玄の娘と氏康嫡男氏政との婚約が成る(甲相同盟成立)。
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12月
・小笠原長時、長尾景虎を頼る。
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・松永久秀、朝廷4府(左右近衛府・左右兵衛府)の駕輿丁御服座衣更の件を裁判する。
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12月3日
・[明・嘉靖31年11月18日]フランシスコ・ザビエル(46)、マカオの上川(サンシャン)島で病没。
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12月7日
・将軍義輝、本願寺に要求し、堺を通じて火薬の原料硝石を入手。
「室町殿(足利義輝)へ塩硝十斤これを献ず。中務書状にてなり。比儀は一昨日三淵より中務へ書状を以て塩硝四五斤御所望の由候間、堺へ取りに遣はし進(マイラ)すなり。」(「石山本願寺証如上人日記」12月7日条)。
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12月12日
・古河公方足利晴氏、家督を嫡男義氏(北条氏康甥)に譲る。以降、北条政権の傀儡として存在。
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12月20日
・幕府、霊山城修築のために西京7保に人足役を賦課(「古文書集」)。
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12月20日
・信長(19)、織田氏御用商人の加藤全朔・資景父子へ商売に関する優遇を安堵(「加藤秀一氏所蔵文書」)。
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「★信長インデックス」をご参照下さい
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