明治6年(1873)5月
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この月
・岡山県西条郡一揆、美作全州一揆に拡大。徴兵制・学校・賤民制廃止反対。他、香川・愛媛等へ。
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・弘前士族、家禄支給前に米価が貢納石代相場より高くなり、県令菱田重礼への反撥もあり、士族多数が正米支給を求めて屯集。
大蔵省6等出仕北代正臣が派遣され説諭するが、正米支給要求は却下。
県令菱田重礼は不品行・統制失敗などの理由で免官位記返上となる。
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5月1日
・ウィーン万国博開催。~11月2日。
赤字。佐野常民が担当副総裁。「神功皇后・武内宿彌の図」(河鍋暁斎)。「富嶽図」(高橋由一)出品。ワグネル、日本御用掛として活動。
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5月2日
・小野助次郎、京都府庁へ呼出し。
4日、指示に従い改めて転籍の口上書を提出。小野善助・小野善右衛門も提出。
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5月2日
・太政官職制改革(「約定」で禁じられているため「潤色」という)。
①太政官の権限は正院に集中。
②参議の地位・権限が強まり、国家統治権限が参議に集中(参議独裁制)。
③内閣制度を規定(参議=内閣議官が構成する内閣が立法権・行政権を独占)。
陸海軍を含む各省への介入可能。
予算編成権は正院へ移管。大蔵省骨抜き。
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太政官を正院・左院・右院で構成する方式は変更ないが、左院は「職制章程追テ定ムべシ」、右院は「勅命ヲ以テ臨時之ヲ開ク」として、太政官の権限を正院に集中させる。
また、正院において、参議の地位と権限を強め、国家統治の実権は事実上参議に集中するかたちとなる。
正院は、大臣(太政大臣、左右大臣)と参議とで構成する形は変更されていないが、大臣の職務は、「天皇陛下ヲ輔弼シ万機ヲ統理スル事ヲ掌ル、諸上書ヲ奏聞シテ制可ノ裁印ヲ鈐ス」と抽象化され、実際には参議の決定事項を天皇に取り次ぐ連絡係兼捺印係とされ、政務上の実権を失って棚上げされるかたちとなる。
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一方、参議は、「内閣ノ議官ニシテ諸機務議判ノ事ヲ掌ル」とされ政務の決定権を掌握。
「凡ソ立法ノ事務ハ本院ノ特権ニシテ、総テ内閣議官ノ議判ニヨリテ其得失緩急ヲ審案シ、行政実際ニ附スべキモノハ、奏書ニ允裁ノ鈐印ヲナシ、然ル後主任ニ下達シテ之ヲ処分セシム」と、内閣議官(参議)が政策形成のイニシアティヴを執り、各省への命令権を有すると明記される。
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さらに、「内閣ハ天皇陛下参議ニ特任シテ諸立法ノ事又行政事務ノ当否ヲ議判セシメ凡百施政ノ機軸タル所タリ」と、内閣制度を公式に規定し、参議が構成する内閣が立法・行政権を独占し「凡百施政ノ機軸」となる。
しかも、内閣議官(参議)は、司法権に対しても関与し、「凡ソ裁判上重大ノ訟獄アレバ、内閣議官其事ヲ審議シ、或ハ臨時裁判所ニ出席シテ之ヲ監視スルコトアルべシ」とされ、「裁判所ノ権限ヲ定ムル事」も正院の「専掌」とされる。
また、奏任官以上の人事は「必ズ内閣議官ニ諮」らねばならないとされる。
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このように、新しい政治体制は、すべての国政権限が内閣に集中する、内閣を構成する参議の独裁制とでもいうべきものである。
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この「潤飾」の起草者は新任参議江藤新平。
左院や司法省など、これまで江藤の所属する機関は、かれ自身が立案した規程によって、つねに政務の中枢に位置づけられている。同時に、江藤が所属することによって、その機関の樅威と実力は急上昇した。
ここに、予算問題に端を発した政府内の混乱を克服する糸口が開かれた。
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5月2日
・「新次郎魚代金渋事件」。
司法大輔福岡孝弟、京都府と京都裁判所の権限争議を訴訟と見做して司法裁判所で裁判すべきものとの伺いを正院に上申。正院は、内部に法制課が新設されたばかりで、司法省はその議案(指令案)を待つ。
7日、京都裁判所から司法省に「京都府による断獄事務侵害の実情」が報告。逮捕者の訊杖(拷問)が「当然のこと」として行われている。
20日、正院法制課小松彰課長(3等官)、京都府と京都裁判所の権利争議は、京都府が不条理、京都裁判所の議論が正当、但し、これを訴訟と見做し司法裁判所で裁判するべきでない、との議案を纏める。
27日、正院、議案を承認。京都府へ訴訟の受理・説諭の理由を問合せ。
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5月3日
・池上四郎・彭城中平、営口に帰着。
9日、伊東祐麿海軍少将、「筑波」艦で営口に来航、池上四郎らと会う。
13日、伊東、「筑波」艦に帰る。
14日、伊東と会ったことで疑われたらしく、池上四郎ら、急遽営口を引き払い、英国船「太沽」に乗船。
18日、上海到着。上海で北京行きを画策。
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5月3日
・大蔵大輔井上馨・大蔵省三等出仕渋沢栄一、辞表提出
(5月2日、官制改革:大臣参議で構成する正院への権力集中、参議職権拡大。大蔵と司法他と対立激化)。正院に意見書提出。
9日、辞表受理。参議大隈を大蔵省事務総裁に任命。
井上・渋沢は、建議書「財政改革に関する奏議」は「新聞雑誌」「日新真事誌」「ジャパン・ガゼット」などに掲載。
14日、財政改革建議が「日新真事誌」に掲載されたことで太政官布告違反で免官処分。
7月20日、司法省臨時裁判所、4月10日太政官布告に違反として井上に贖罪金3
円を課す。
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両名の意見書。
「方今ノ策ハ且(スベカ)ラク入ヲ量テ出ルヲ制スルノ旧ヲ守り、務テ経費ヲ節減」すべきであるのに、「院省使寮司ヨリ府県ニ至ルマデ、各自ラ其功ヲ貪テ往々其官ヲ増ス。・・・是故ニ事務日ニ多キヲ加へテ、用度月ニ費ヲ増シ、歳入常ニ歳出ヲ償フ能ハザ」るから、「今日ノ開明、唯ニ其喜プ可キ者ヲ見ザルノミナラズ、其大ニ憂フ可キ者将ニ弾指ノ間ニ在ラントス」と、長文の意見書を正院に提出。
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5月5日
・皇居全焼。赤坂離宮が仮御所となる。
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5月5日
・児島惟謙、東京へ戻る。司法省裁判所民事課詰。
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5月7日
・副島大使一行、北京着。清朝総理衛門(外務官庁、総署)と皇帝謁見交渉。
同治帝親政を機に、立礼5回・各国一括での謁見は可能と譲歩されてきたが、日本と清は同種同文なので、礼式どおり跪拝を要求される。副島は跪拝を忌避し、特命全権は公使よりも上だとし別扱いを要求。
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5月7日
・美濃部達吉、誕生。
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5月8日
・陸海軍武官官等改正。大元帥・元帥を廃止。
10日、西郷隆盛(元帥)は陸軍大将兼参議となる。
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5月9日
・1873年世界恐慌。
ウィーン株式取引所大暴落。取り付け騒ぎ・会社倒産。ヨーロッパ各国に波及し大不況始まる。
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5月11日
・プロイセン、ビスマルク、文化闘争で「プロイセン5月諸法」を制定。
聖職者の養成・罷免権の国家掌握を定める。
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文化闘争:
この頃、ローマ教会では教皇ピオ9世が自由主義へ挑戦(1864年の謬説表、1869~70のヴァチカン公会議)。
ここで宣言された教皇不可謬説はカトリック内にもミュンヘン大学デーリンガー等の反対者(古カトリック派)を生み出す。
ビスマルクはカトリック教理の問題には無関心だが、教会の内紛がプロイセンの僧職者任免問題に発展するに及びこれに介入、更に学校教育におけるカトリック教会の監督権を排除しようとした(1871年の教壇条項、1872年の学校監督法)。
この段階の文化闘争は、ビスマルクにとって近代国家の政教分離の立場からする防衛戦であり、国民自由党はルター主義の立場から、左派自由主義者は近代科学主義の立場から、カトリック教会のこの傾向を文化の敵と考える。
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文化闘争はまもなく国家の教会攻撃という局面に発展。
中央党(1870年結成、カトリック教政党)は、統一主義に対する連邦主義、旧プロイセンに対する西南ドイツ、国民自由党に代表される大資本に対する中産階級ないし労働者の反撥を結集した広汎な勢力を形成。
ビスマルクは特にヴェルフ派(ハノーファー王朝復辟派)、ポーランド人、エルザス・ロートリンゲン人が中央党と連携したのを見て、これを帝国の敵に対する闘争と考え、国民自由党と近い立場に立つファルクをプロイセン文相に任命し、カトリック教会に対する多くの弾圧法を発布(「1873年の5月諸法」)。
このような方策により、ルター派教会とプロイセン国家の結合を重んずる保守党の中にも文化闘争反対の機運が生じる。
ビスマルクはこの文化闘争においてプロイセンの自由主義勢力と最も結合。
しかしこの闘争の中には既に信教・思想の自由に対する侵害の要素も含まれ、これはドイツ自由主義の悲劇とも云える。
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5月15日
・図書縦覧所集書院、開設。
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5月15日
・妻の離婚請求の道が開ける
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5月中旬
・「資本論」第2版合冊本、出版。
22日、マルクス、マンチェスターの医師グンベルトの診察を受け、脳病のため仕事の時間を1日4時間に制限される。
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5月24日
・京都~大阪間の「関西鉄道会社」が正院決定により国有鉄道になり、株の応募も少なくなり存亡の危機に陥る。
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5月24日
・フランス議会、反ティエール派が多数を制し、ルイ・ティエール大統領を辞職。
モーリス・マクマオン元帥を新大統領に選出。カトリック教会強化と王制復活。
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急進派の進出を見て、穏和派に加担していたブルジョアジーがティエール政権に不信を懐くようになる。
王政派との対立が決定的になり、更にブルジョアジーが離反することで、ティエールは辞任に追い込まれる。
ティエールを辞任に追いやった多数派(王政派、帝政派、穏和派のタルゼ派からなる連合勢力)に推されてマクマオン元帥が大統領に選出され、連合勢力の指導者オルレアン派ド・ブロイ公爵を首班とする新内閣が組織される。
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「★一葉インデックス」をご参照下さい。
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