2010年8月28日土曜日

明治6年(1873)7月1日~26日 朝鮮問題の閣議開催 木戸孝允、帰国、井上救済に動く  [一葉1歳]

明治6年(1873)7月
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この頃
朝鮮問題の閣議(6月~7月の間)
派兵(板垣)、使節派遣(西郷)等の議論。結果は外務卿副島の帰国待ち。
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経緯:
維新後、日本政府側は中央政府主導による両国関係の刷新を期すが、朝鮮政府は、旧来の対馬藩仲介による「通信」関係継続を望み、国交交渉は頓挫。
前年の明治5年9月、外務省は、一方的にこれまで旧対馬藩が管理していた草梁倭館を接収し、これを「大日本公館」と改称して外務省管轄に移すが、この措置は朝鮮側を刺激し、現地は一触即発の危機に陥る。

草染倭館は、朝鮮国釜山草梁項にある広大な土地・建物で、元来は朝鮮政府所有のものを、対馬藩が伝統的に使用を許されて役人や商人を滞在させていたもの。
外務省は、廃藩置県によって対馬藩が消滅した機会に、旧対馬藩役人を退去させ外務省役人にこれを統括させる。
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明治6年5月21、31日、大日本公館駐在の外務省七等出仕広津弘信が外務少輔上野景範宛に報告書を送達。
①公館への生活物資供給と同館在住日本人商人の貿易活動が、朝鮮側官憲の厳しい取締りで困難になっている。
②理由の一つは、三越の手代が対馬商人の名義を借りて商売を試み、「僭商」と朝鮮側の怒りを買った事である。
③朝鮮東萊府が公館門前に出した掲示には、日本は西洋の制度や風俗を真似て恥じることがない、朝鮮当局は対馬商人以外に貿易を許していないのに達反した、近頃の日本人の所為を見ると日本は「無法之国」というべきである云々、と記載されている。

報告書は、大久保利通の帰国前後に到着。
その頃、外務卿副島種臣は、全権大使として清国に出張中で、大輔寺島宗則は駐英大弁務使に転出しており、上野少輔が外務省務の責任者であった。
上野は、広津の報告書の内容を重大事と見て、太政大臣三条実美に太政官(正院)での審議を求める。
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閣議の原案:
朝鮮側官憲が、「我ヲ目シテ無法ノ国トナシ、叉ハ我ヲシテ妄錯生事後悔アルニ至ラシメヨ」などと掲示したので、「自然不慮ノ暴挙ニ及ビ、我人民如何様ノ凌虐ヲ受ケ侯ヤモ測り難キ勢ニコレアリ」、「第一朝威ニ関シ、国辱ニ係」わる事態であり、「最早、此儘閣(オ)キ難ク」、「断然出師ノ御処分」(武力解決)を決断しなければならないであろう。
しかし、「兵事ハ重大ノ儀」であるから、とりあえず居留民保護のため「陸軍若干、軍艦幾隻」を派遣し、九州鎮台に即応態勢をとらせ、軍事力を背景に使節を派遣して、「公理公道ヲ以テ、屹度談判ニ及ブべキ」である、との方針。

正院メンバ:
三条太政大臣と、西郷隆盛、板垣退助、大隈重信、後藤象二郎、大木喬任、江藤新平。

審議:
板垣が、原案に賛成し、居留民保護のために兵士1大隊を急派せよ、と発言し、閣議の空気はそれに傾きかける。
西郷は、陸海軍派遣は朝鮮官民の疑懼をまねき、日本側の趣意に反する結果となろうと反論し、使節を派遣して公理公道をもって談判すべきである、これまで朝鮮に派遣されたのは大丞以下の外務省官吏であったので、今度は全権を委ねられた大官を派遣せよ、と主張。
三条は、使節派遣であれば護衛兵を率い軍艦に搭乗して赴くべきだと発言。草梁倭館接収事務に派遣された外務大丞花房義質が軍艦「春日」に搭乗し歩兵2小隊を乗せた汽船有功丸を伴ったので、その事例を持ち出したのであろう。
西郷は、これにも反論して、使節は「烏帽子、直垂」(礼装、非武装)でなくてほならないと主張し、日本開国にあたってのペリーやプチャーチンの様に、西郷自ら使節の任にあたりたいとの意向を表明。
しかし、事は重大で、副島外務卿は清国出張中であり、また西郷の国外派遣に三条が躊躇したので、閣議は結論を保留。
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この月
・海軍兵学校、英人アーチボルト・ダグラス准艦長以下34名の雇教員団着。
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・旧庄内藩士(酒田県)の出訴に司法省権中判事早川景矩派遣、松平親懐参事ら100余処分。不徹底。
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・東京府、撃剣興行を禁止
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・森有礼、アメリカより帰国。
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7月3日
・司法権中検事(5等官)澄川拙三、京都出張報告。京都府は裁判所申渡しに対し請書も上告もなし、罰せざるを得ない。
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7月5日
・工部省、「各寮ニ傭使スル職工及ヒ役夫ノ死傷賑恤規則」制定。
死亡5円、重傷2円50銭、その他医薬料支給。
官業労働者対象の日本最初の労働保護立法。
実態は少額の手当金の支給という慈恵的な性格。
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7月5日
・京都府庶務課長関谷生三、小野組に転籍許す通告。
13日、京都裁判所中解部犬塚重遠、京都府庶務課長関谷生三と区長・戸長らを訊問。
関谷らを監置処分とする。
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7月5日
・司法省、正院へ「京都府の官員を推問する儀」伺う。
8日、正院、司法省に取調書類詳細をもって改めて伺うよう指示。
12日、司法省六等出仕早川勇、太政官へ出頭。取調書類を示して閣議で説明。「ただちに罪を科すべき」閣議決定。
13日、司法省中検事澄川拙三、閣議決定により擬律案(知事8円、参事6円の贖罪金)作成。
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7月12日
・陸軍少佐樺山資紀、上海で柳原外務大丞と会い、西郷兄弟への手紙託す。
清が先住民地域を「化外」と表明したこと、出兵すべきであること、ロシアの極東進出の脅威など、について。
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7月16日
・この日付、池上四郎宛ての児玉利国の書簡。
海軍秘書児玉利国は北京長逗留で池上四郎に会えなかったが、池上四郎の台湾偵察を希望する。
この後、児玉利国は陸軍少佐樺山資紀に従い、清国南部と台湾を偵察するが、台湾内地の偵察はできず、後に福島九成が台湾内地偵察に成功。
この月、彭城、復命書を政府に提出。
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7月16
・太政官正院法制課長(3等官)楠田英世(7月9日任命)、澄川拙三の擬律案を採用。
この指令案は直ちに承認され、三条の上奏も裁可され、特命として京都裁判所に電達。
19日、京都裁判所、京都府知事(3等官)長谷信篤・参事(5等官)槇村正直に呼出状を送付。槇村は長谷を説得して、自ら太政官正院に進達状を執筆。
22日、京都府7等出仕谷口起孝、上京、太政官正院に進達状を提出。
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7月20
・太政官正院法制課長楠田英世、前任者小松彰の5月20日の決定を覆し、司法省の伺った「新次郎魚代渋事件」を司法省にて取調べることとする。
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7月21
・西郷隆盛、陸軍大輔西郷従道へ手紙。
台湾出兵の場合、陸軍少佐別府晋介が鹿児島よりも出兵する意志ありを伝える。
数日後、陸軍少佐樺山資紀から手紙。
清が「化外」を言明したからには、気候を考慮して「十月を期限に突入」してはどうか、また、ロシアの極東進出が脅威であるとする。
8月9日、西郷はこの手紙を板垣に廻す。この手紙は岩倉のもとに残る(政府高官に回覧された)。
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7月23
・木戸孝允、帰国。
朝8時、工部大輔山尾庸三がボートで木戸の船を訪れる。
26日、井上を訪問。
28日、井上宅に宿泊。渋沢栄一も同席。井上救済と尾去沢銅山事件のもみ消し工作。
8月19日、京都府権典事木村源蔵が木戸を訪問。
20日、京都府参事槇村正直が来訪。小野組転籍事件への対応。
9月13日、岩倉一行帰国。
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8月1日の木戸日記。
「朝井上世外を訪う、一昨日同氏へ一書を送れり、其主意は使節も不日帰朝に付、暫時奥州行(尾去沢銅山視察)を見合せ在留をすすめり」とある。
しかし、井上は、木戸の忠告にもかかわらず「奥州行」して疑惑を深める。
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小野組転籍事件(纏め)
小野家は三井家・島田家と並ぶ江戸時代以来の巨商、新政府発足当時の為替方をつとめる。
小野組の本拠は京都であったが、東京が首都になり、小野組の営業もしだいに東京中心となったので、本籍を東京に移動したいと考え、6年4月8日、小野善助と小野善右衛門が京都府庁に京都秋野々町から東京への転籍を願い出る。

ところが、京都府は、口実を設けて願書の受理を拒む。
転籍申請拒否の理由は、管轄下の富豪に賦課していた臨時の公納金に関係がある。この頃、地方官は、かつて大名が有力町人に御用金を課した慣習を引き継ぎ、富豪に公租以外の臨時の出金を命じており京都府に限らず、地方官は、管轄下の富豪の転出を好まなかった。
また、京都府知事は公卿出身の長谷信篤であったが、実権は長州出身の参事槇村正直(木戸の腹心)が握っており、槇村は、木戸の京都邸買収にあたったり、木戸の機密金の運用を三井源右衛門と相談したりしている。
京都府は、木戸の政治資金の重要な源泉だった可能性があり、府庁は金づるである小野組の転出阻止を目論む。

さらに、三井組と関係のある井上大蔵大輔が、三井の商売敵小野組の足を引っぼるために、槇村に手をまわして小野組東京進出の妨害をはかったとの噂もあったという。
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府庁は、小野家の代表を白洲に引き据えて転籍を断念せよと罪人扱いして強要したり、様々な迫害を小野家に加える

小野側は、司法省達第46号(地方官が人民の権利を侵害したときは裁判所への出訴を許す)を知り、6年5月末、京都裁判所に、「先般御布達も之れ有り候儀に付、恐れ多く候えども、余儀なく御訴訟申し上げ奉り侯、何卒出格の御憐慇を以て速に送籍御聞き届け相成り侯様、伏して願い上げ奉り侯」と、恐る恐る「御訴訟」申し上げる。

京都裁判所長北畠治房は、天誅組志士の生残りで、江藤の眼鏡にかなった硬骨漢で、6月、京都裁判所は、原告小野善助らの請求を認めて京都府は転籍届を受理すべき旨の判決を下す。

しかし、京都府庁は、小野側を府庁に呼び出して裁判所に訴えたのはけしからんと逆にこれを脅迫。
ここで、事件は転籍をめぐる行政訴訟から刑事訴訟に発展。
府庁首脳(知事、参事)は裁判所判決を履行しない罪を問われて、刑事被告人となり、その結果、裁判所は、長谷知事に贖罪金8円、槇村参事に同6円を課せられる。

ところが、府庁側が伏罪を拒否したため、北畠裁判所長は「槇村正直の法権を侮辱する更に之より甚しきはなし」と、司法大輔に槇村の拘禁を上申。

この背後には、裁判権・警察権の移管をめぐる地方官と裁判所との対立、ひいては大蔵省と司法省との対立が存在している。
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「★一葉インデックス」をご参照下さい
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