大正12年(1923)年9月1日の関東大震災
午前11時58分、相模湾の北西端を震源とするマグニチュード7.9の大地震。
昼食時であったため火災発生、そのため大きな被害がでる。
死者9万9331人、行方不明者4万3476人、家屋全壊12万8266戸、半壊12万6233戸、被害総額60億円、震災恐慌突入。
更に、9月2日
・朝鮮人暴動に関する(「不逞鮮人来襲」の)流言拡大。
朝鮮人虐殺(~7日)2,613人、中国人160人。10日迄兵員5万動員。
また、9月4日には亀戸事件
南葛労働会の川合義虎・平沢計七ら10人の労働運動家、亀戸警察署で軍隊(習志野騎兵第13連隊員)に虐殺。
9月末、布施辰治・春日庄次郎(出版産業従業員組合)ら10数人と荒川放水路土手を掘返して死体を捜す。10月10日新聞発表。
次に、9月16日
・大杉栄・伊藤野枝(28)・甥橘宗一、虐殺。
憲兵大尉甘粕正彦懲役10年、3年で仮出獄。
こんな事件が起ったこの年の永井荷風「断腸亭日乗」を追ってみた。
大地震と前後して、前は5月、後は11月まで余震が続いている。
主に、天候、世相、女性関係などの記述に絞り込みました。
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大正十二年荷風散人震災の記(荷風四十五歳)
正月二日。烈風暁に及ぶ。午に近く起出で顔を洗はむとするに、水道の水凍りゐたり。・・・
正月五日。水道の水今朝は凍らず。雑誌女性の草稿をつくりし後、四谷の妓家に往きお房と飲む。
正月八日。臺灣喫茶店女給仕人百合子といへるもの、浅草公園に往きたしと言ひければ哺時公園に赴き、活動写真館帝國館に入り、仲店にて食事をなし、安来節を看、広小路のアメリカンに憩ひタキシ自働車にて四谷愛住町なる女の家まで送り、麻布に歸る。方に夜半三更なり。・・・。
正月十日。・・・。寒風凛洌。厨房の水昼の中より凍りたり。
正月十二日。・・・。南風吹つゞきて心地悪しきほどの暖気なり。市中雪解にて泥濘歩むべからず。
正月十七日。厨房の水道鐵管氷結のため破裂す。電話にて水道工事課へ修繕をたのみしに、市中水道の破裂多く人夫間に合はず両三日は如何ともなし難しとの事なり。
正月二十日。午後雪を催せしが夜に至り風吹起りて晴る。宵の中より水悉く凍る。病床讀書。
正月廿一日。風南に轉じ寒稍寛なり。・・・。夜清元秀梅来る。
(*註 清元師匠「秀梅」さんがこの頃のメインの女性。
但しあくまで「メイン」。違う女性の名前がアチコチに散見)
正月廿四日。微雨雪となりしが須臾にして歇む。
正月廿六日。・・・。秀梅来る。
二月六日。曇りて寒し。
二月七日。朝まだきより雪降り出し夜に入るも歇まず。
二月八日。雪ふりつゞきたり。屋根の上に二尺ほどもつもる。薄暮に歇む
二月十三日。日ゞ晴れて暖なり。
二月十五日。病未癒えず。深更雨。
二月十六日。終日大雨。
二月二十日。昨夜枕上雨聲を聴いて眠りしが、今朝起出るにいつか雪となれり。・・・。
二月廿一日。午頃より雨に交りて雪また降る。街路忽沼の如し。
二月廿三日。・・・。夜暖なること四月の如し。
二月廿六日。帝國ホテルにて与謝野寛誕辰五十年の祝宴あり。
(*註 この年荷風は45歳。森鷗外全集編集に関して両者に確執あり)
二月廿八日。春寒くして梅花未開かず。秀梅に逢ふ。
三月六日。晴れて風寒し。
三月十二日。春雨歇まず。終日机に凭る。
三月十三日。・・・。風冷なり。
三月十五日。春雨晩晴。泥濘の路を歩み高輪楽天居句會に往く。
三月十七日。快晴。新橋の妓鈴乃に逢ふ。
三月十八日。南風頭痛を催さしむ。日暮俄に雨。
三月十九日。春雨烟の如し。・・・。
三月廿二日。・・・。深夜雨。
三月廿三日。・・・。春風冷なり。
三月廿八日。午前十時過京都驛に着し東山ミヤコホテルに投宿す。此日暖気五月の如し。祇園の櫻花忽開くを見る。夜島原に遊ぶ。
三月廿九日。午後より雨。気候再び寒冷となる。夜玉川屋に飲む。
三月三十日。終日散歩。夜九時半の汽車にて東歸の途に就く。
三月三十一日。朝十時新橋に着す。・・・。
四月一日。東京の櫻花は未開かず。風烈し。・・・。
四月二日。晴天旬餘。風強く塵烟雲の如し。市兵衛町表通の老櫻三分通花ひらく。午後四谷のお房来りて書斎寝室を掃除す。夜随筆耳無草を草す。
四月三日。・・・。風冷なり。
四月五日。風俄に寒く夜に入りて雨雪に変ず。
四月七日。雨歇みしが空晴れず風冷なり。富士見町に往き賤妓鶴代と九段の花を見る。
四月八日。夕刻驟雨。
四月十一日。快晴。・・・。夜に至り雨ふる。
四月十二日。雨午後に晴る。
四月十四日。・・・。春日駘蕩、品海の眺望甚佳し。・・・。
四月十五日。晴天。風猶寒し。今年花開きてより気候順調ならず。
四月十六日。俄に暑くなりぬ。・・・。
四月十七日。夕方より風吹き出で大雨となる。・・・。
四月十八日。日の光夏らしくなれり。・・・。風吹き出でしが雨にはならず。・・・。
四月二十日。晴れしが風猶冷なり。本年の春ほど気候不順なる時節は罕なるべし。宿痾よからず。深更雨。
四月廿一日。・・・。曇りて風寒し。・・・。
四月廿四日。午後散歩。・・・。風寒く日暮雨となる。四月末の気候とは思はれず、暖爐に火を焚く。
四月廿五日。雨ふる。・・・。
四月廿八日。・・・。薄暮細雨糠の如く風竹淅瀝たり。・・・。
四月三十日。曇りて風冷なり。・・・。
五月三日。雨終日小止もなく降りつゞきたり。・・・。午後一葉全集の中たけくらべ濁江の二篇を讀む。
(*註 一葉を読むところ、ワタシ的には嬉しい)
五月六日。立夏。曇りて夕暮れより雨ふる。・・・。深更地震。
五月七日。雨もよひの空なり。・・・。
五月八日。終日雨歇まず。
五月十一日。・・・。深夜雨聲あり。風呂をたきて浴す。
五月十三日。麦藁帽子を、購ふ。
五月十四日。・・・。風湿気を含みて冷なること梅雨中の如し。・・・。
五月十五日。昨日の如く曇りて風冷なり。濱町阿部病院に往きラヂウム治療の後、深川邊を散歩せむと新大橋を渡りしが、風甚冷湿なれば永代橋より電車に乗り、銀座にて夕餉をなして家に歸る。此日午前邦枝完二来訪。・・・。
五月十六日。・・・。雨ふり出して寒冷冬の如し。
五月十七日。曇りて寒し。・・・。
五月十八日。快晴。気候順調となる。・・・。
五月十九日。晴れて風爽なり。午後某雑誌記者の来訪に接したれば家に在るや再びいかなる者の訪ひ来るやも知れずと思ひ、行くべき當もなく門を出でたり。日比谷より本所猿江町行の電車に乗り小名木川に出で、水に沿ふて中川の岸に至らむとす。日既に暮れ雨また来らむとす。踵を回して再び猿江裏町に出で、銀座にて夕餉を食し家に歸る。大正二三年のころ、五ツ目より中川逆井の邊まで歩みし時の光景に比すれば、葛飾の水郷も今は新開の町つゞきとなり、蒹葭の間に葭雀の鳴くを聞かず。たまたま路人の大聲に語行くを聞けば、支那語にあらざれば朝鮮語なり。此のあたりの工場には支那朝鮮の移民多く使役せらるゝものと見ゆ。
五月廿一日。風歇み蒸暑くなりて雨ふり出しぬ。深更に至りていよいよ降りまさりぬ。
五月廿三日。雨ふりつゞきて心地爽かならず。・・・。
五月廿四日。両三年来神経衰弱症漸次昂進の傾あり。本年に至り讀書創作意の如くならず、夜々眠り得ず。大石國手の許に使を遣し薬を求む。午後雨の晴間を窺ひ庭のどうだん黄楊の木などの刈込をなす。夜四谷の妓家にお房を訪ひ歸途四谷見付より赤坂離宮の外墻に沿へる小路を歩みて青山に出で電車に乗る。曇りし空に半輪の月を見たり。
五月廿八日。黄昏驟雨。
五月三十日。・・・。此日曇りて風涼しく歩むによければ、神田橋より二重橋外に出で、愛宕山に登りて憩ひ、日暮家に歸る。初更雨烈しく降り出しぬ。
五月三十一日。陰晴定りなく時々雨あり。・・・。夜また雨。
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