2010年8月8日日曜日

樋口一葉17歳の夏 「涙のとしの葉月廿日頃みの虫のちゝよちゝよと嵐のやどりにしるす」 一葉の父祖の物語

明治22年(1889)7月12日
樋口一葉の父、則義は60歳で病没。
長男の泉太郎を24歳で亡くし、自らの事業にも失敗しての、失意の中でのことであった。
兄泉太郎に続く父則義の死は、一葉の生涯に大きな転機をもたらすことになる。
(女の戸長として、母妹を養ってゆかねばならない運命が決まる)
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この年の8月20日頃の一葉(樋口夏子、17歳)の歌

「涙のとしの葉月廿日頃みの虫のちゝよちゝよと嵐のやどりにしるす」

「枕草子」第40段「虫は」に、親に逃げられた蓑虫が、8月の風の音を聞き分けて、
「父よ、父よとはかなげに鳴く、いみじうあはれなり」
という描写からとったもの。
父に愛され、父を慕っていた夏子は、自分が父から捨てられたという思いを、この蓑虫になぞらえている。
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父則義と母あやめは夫々28歳と24歳のとき故郷を出奔。
江戸で働き、慶応3年(1867)39歳の時、則義は御家人の株を購い、武士となり、八丁堀同心の身分を得る。しかし、それは幕府崩解の僅か3ヶ月前のことであった。
明治維新後、則義は、新政府の下級官吏に転身し、47歳で退職、翌年から警視局庸となり58歳まで勤務している。

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ここで、一葉の父祖のことについて触れておく
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□祖父樋口八左衛門
享和2年(1802)、甲斐国山梨郡中萩原村字重郎原(甲州市塩山中萩原1269の1)の小前百姓の長男。
南喬と号し、漢詩、狂歌、俳句などを学ぶ。
政治にも関心を持ち、公文書の写しや記録を数多く残す。
土地の子供らに読み書きを教え、農民たちの手紙や文書の代筆をしたりするうち、村のもめごとや訴訟の弁護の役をかうようになる。
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「則義記録巻五」(一葉の父則義の記録)では、
「八左衛門事南喬(宅ノ南ニ柿ノ林アル為ニ号トス)大窪天民ニ詩ヲ習ヒ初子潜卜号ス真顔ノ門ニ入テ歌ヲ読ミ歌名ヲ才太楼咲良亦草丸漫漫卜俣ニ俳諧ヲタシミ(ママ)萩人卜言フ年七十明治四年十一月十九日没ス」
とある。
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老中阿部正弘に駕籠訴を決行
嘉永5年(1852)、則義が22歳の時、水飢饉のによる柏原堰の水利権を巡る紛争が起こる。
村はその訴訟闘争資金を、無関係の農民にも負担させようとするが、飢饉で困窮する農民たちは、訴訟に反対し話し合いでの解決を求める運動を起こす。
この時、八左衛門は小前百姓120人の総代となり、代官所に不服を申し立てる。しかし、代官は、この申し立てに加わる一同を投獄するよう命じる。
そこで、八左衛門はもう1人の総代と共に江戸に上り、老中阿部伊勢守正弘に命懸けの駕籠訴を決行。
幸い訴状は老中の手に渡り、2人はその場から甲州に護送され、1~2ヶ月の入牢で釈放される。
その後、村役人と小前百姓間の争議は示談に終わることになる。
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八左衛門は、明治4年(1871)11月19日、70歳で没。
妻ふさは、慶応2年(1866)に病没。
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一葉は「にごりえ」の主人公お力(リキ)が祖父について語る時、祖父八左衛門の面影をダブらせる。

「祖父は四角な字をば読んだ人でござんす、つまりは私のやうな気違ひで、世に益のない反古紙をこしらへしに、版をばお上から止められたとやら、ゆるされぬとかにて断食して死んださうに御座んす。・・・」
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八左衛門は、百姓とはいえ、漢詩文、和歌、俳句に親しみ、正義感の強い人物で、百姓の分に安んじていることができない人であった。
しかし、その志向、野心を達成し得ずに終わっている。
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八左衛門が駕籠訴を決行したにも拘わらず、軽い刑罰で済ませることができたのは、同郷の幼な友達である真下専之丞の力添えがあったからとされている。
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□真下専之丞(祖父の友人、父の恩人)
文政8年(1825)、益田藤助(八左衛門の3歳上24歳、中萩原村向久保出身)は妻ふじと共に江戸に出て、旗本小原氏の下僕(下級の従者)になり、30歳の時御徒士の身分を得る。
天保7年(1836)、御家人真下家の養子になって侍の身分を得て(真下)専之丞を名乗る。
後、文久元年(1861)に蕃書調所調役、幕末には江戸城御留守居役支配を勤める。
郷里では出世頭として敬われ、江戸へのぼった郷里の人々の力にもなる人物。
八左衛門の子則義夫妻の恩人ともなる。
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維新後は隠棲し、郷里の慈雲寺で漢学を教えたりするしながら数年を暮す。
その後、招かれて横浜に行き、野毛に私塾「融貫塾」を開き、また妾腹の子渋谷徳次郎のいる原町田でも塾を開く。原町田での教え子には多摩の自由民権運動指導者となる石坂昌孝がいる。
真下の孫渋谷三郎も、石坂の影響で若い時に自由民権運動に加わっている。
三郎は、その後東京専門学校(現早稲田大学)に学び、樋口家に出入りし、則義に対し夏子との結婚を約束する。但し、則義没後、この婚約は破棄される。
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明治8年10月17日77歳で没。
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□父樋口則義(1830~1889)
天保元年(1830)11月20日、樋口八左衛門と妻ふさの長男として誕生。母あやめは天保5年5月14日、中萩原村の古屋安兵衛と妻よしの長女として誕生。
則義は地元の慈雲寺の白厳和尚の寺子屋に学ぶ。
あやめの古屋家が慈雲寺の前にあることから、則義はあやめを知り恋仲となる。
2人の仲は深まり、あやめは身重の体になるが、中農の古屋家は入牢歴がある小前百姓の樋口家の者との結婚に同意しない。
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安政4年(1857)4月6日
則義は、かねてよりの願望もあり、江戸で出世した父八左衛門の友人藤助(蕃書取調所調役勤番筆頭真下専之丞)を頼って、この日出奔。
鎌倉往還(街道)を、御坂峠、河口湖、山中湖、足柄峠、小田原を経て8日間かけて、江戸に到着。この時、則義28歳、あやめ24歳。
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則義は書物150冊を売って費用を作ったといい、父八左衛門は江戸への駆け落ちを認め、友人の真下専之丞に息子夫婦を託したと推測できる。
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則義は、
「生来農を好まず、経書に心を寄せ、同村なる浄土真宗法正寺の是証に修業す」
と自ら記し、父(一葉の祖父)の八左衛門の志向を継承し、百姓としては異例の学問好きで、その身分からの脱出に意欲を傾けている。
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4月13日
則義とあやめは真下専之丞宅を訪問、不在のため、翌14日改めて訪問。
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5月14日
2人は大塚窪町の松平大学頭屋敷近くの組屋敷を借りて暮らす。
あやめは5月14日女児(長女)を出産。専之丞の妻の名を貰って「ふじ」と名づける。
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6月21日
あやめは、湯島3丁目の旗本稲葉大膳正方(2500石)の養女鑛(コウ)の乳母として奉公に出る。
長女のふじは市谷長延寺内に住む和介夫婦に里子として預ける。あやめは、後に女中頭を勤める。
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則義は真下専之丞のつてで、九段下の蕃書調書(軍事関係、外交文書、外国新聞などによる情報収集)の小使として働く。
安政6年6月、蕃書調書は九段下から小川町御台所町(三崎町)に移転し、維新後は明治政府に引継がれ東京大学の源流となる。
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安政6年6月
役宅移転によって、則義は大番組与力田邊太郎に随行して大阪へ1年間出向。
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安政7年10月
則義は江戸へ戻るが居場所を失い、10月から御勘定組頭菊池大助に中小姓として抱えられる。
菊池大助は勘定吟味役、外国奉行、大目付兼外国奉行に昇進し、文久4年(1864)隆吉と改名し伊予守となり、ベルギーなど諸外国との通商条約の締結に関わる。
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元治元年(1864)4月17日
長男泉太郎、菊池大助宅で誕生
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慶応2年(1866)10月14日
次男虎之助、菊池大助宅で誕生
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慶応3年(1867)3月9日
則義、菊池家を退き、士族株を買う準備をする。
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5月16日
則義、浅井竹蔵から同心の職を引き継ぎ武士の地位を得る
(南町奉行配下八丁堀同心株を買い、幕臣となる)。南御番所当番方を務める。
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則義は、在京の同郷人と幾つかの「無尽」を組織し、士族株を買う際に必要だったと見込まれる資金200両の不足分は無尽で賄ったとの推測がある。
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7月
与力仁杉八右衛門の配下で、取米30俵2人扶持で八丁堀組屋敷のうち北島町の浅井宅を役宅とするよう同時に申し渡される。
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以下、明治維新前後の則義の動き
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慶応4年(1868)1月
奉行が朝比奈甲斐守昌広に替わると、奉行直属として外国人居留地掛下役に抜擢。
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4月
芝札の辻取締として出役。西の丸までを警備。
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7月
市政裁判所赦帳撰要方下役を申付けられる。
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9月
府内受領地並に戸籍掛下役となる。
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12月
外国人居留地掛下役となる。
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このように、父の則義は祖父以来の望み(武士になること)を遂げるが、維新の嵐に翻弄されこととなるる。
しかしそんな中でも、父則義はマネーゲームの才能を発揮し、一葉が幼い頃は、引っ越しの度に大きい家に移っている。
(一葉自身はは、そんな金儲けを嫌っている一面もみせている)
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明治22年夏、17歳、女戸長としての一葉(夏子)の人生が始まる
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そして、明治29年夏、24歳、最後の夏を迎える
この年8月初め
重篤な容態にも拘わらず、一葉は容易に診察を受けようとしなかったが、日記も書けない容態(7月22日が最後)になって、
8月初め、夏にもかかわらず綿入れに袷(アワセ)の羽織を着せて毛布にくるんで駿河台の山龍堂病院に妹くにが連れて行き、診察を受ける。
病院長樫村清徳は付添いで来たくにに絶望という所見を伝えたが、くにはそれを姉に知らせなかった。
「智徳会雑誌」に寄稿を依頼され、執筆できず、和歌8首を寄せる。
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「★一葉インデックス」をご参照下さい
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江戸時代も中期以降は、身分制度がかなり流動的となり、一葉の父則義や真下専之氶のように百姓身分から武士の格を購入した人がいたようだ。
伊藤博文や大村益次郎なども出自は不明ながら士分にとりたてられているし、勝海舟の父小吉も越後出身の祖先が、金の力で旗本の養子になっている。
岩崎弥太郎は、父が売った侍株を買い戻して士分に復している。
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