以前に、昭和15年9月27日の日独伊三国軍事同盟締結に関しての、永井荷風「断腸亭日乗」をご紹介しました(コチラ)が、今回は、続いて翌月10月の数条をご紹介。
当時の世相の一端が見えます。
(読みやすくするために改行を施します)
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昭和15年(1940)10月8日
十月初八。新秋八月この方新聞紙の記事は日を追ふに従つて益甚しく人をして絶望悲憤せしむ。
今朝讀新聞の投書欄に、或女学校の教師虫を恐るゝ女生徒を叱咤し運動場の樹木の毛虫を除去せしめたる記事あり。
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鰻は萬人悉くうまいと思つて食ふものとなさば大なる謬なり
勲章は誰しも欲しがるものとなさば更に大なる謬なり
都会に成長する女生徒をして炎天に砂礫を運搬せしめ
又は樹木の毛虫を取らしめて戦国の美風となすは抑も何の謂ぞや
教育家の事理を解せざるも亦甚しと謂ふべし
ジヱズイツト宗の教育家と雖かくの如くは残酷にはあらざるべし
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〔欄外朱書〕 河合教授無罪ノ判決アリ
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10月9日
十月九日。好く晴れて時に蝉聲をきく。晩夏の幻想却て哀愁を感ぜしむ。
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10月10日
十月十日。晴天またつゞきたり。
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[欄外朱書]帝國大学慶應応大學々生各數十名共産黨嫌疑ニテ捕ヘラル新聞ニハ此記事無シト云
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10月13日
・十月十三日 日曜日 くもりて風なし。
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銀座通にて曾てかきがら町に住みし叶家の婆に逢ふ。去年の暮より神田通に移り玉突場を營めりと云ふ。喫茶店に入りて雑談をなす。
濱松邊にては妾の取締きびしきこと東京の比にあらず。或商人の妾にてわけもなく数日拘引せられしものあり。其檀那は呼出されて厳しく説諭せられし上妾を解雇し其給金若干圓にて國庫債券を男はされたりしと云ふ。
京都にては女子同伴の男を捉へ交番にて衆人の面前に於て罵詈せし巡査ありしと云ふ。
世の中もかうなつてはうつかりしては居られませぬ。今までに待合稼業にて相應に残して置きましたから、どうやら人さまの世話にならず其日だけは迭つて行かれるつもりですと。
叶家婆の語るところ若し眞實なりとせば日本人の羨望嫉妬は實に恐怖すべきものと云ふぺし。
(*註:
日付けの前にあるポチ(・)は荷風のある行動に関するマークだそうです。
ある行動とは? お察し下さい)
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10月15日
十月十五日。雨歇みて薄き日かげ折々窓を照す。野菊の花さかりなり。
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この頃は夕餉の折にも夕刊新聞を手にする心なくなりたり。
時局迎合の記事論説讀むに堪えず。
文壇劇界の傾向に至つては寧ろ憐憫に堪ざるものあればなり。
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10月16日
十月十六日。くもりて静なり。
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招魂牡の祭今年は臨時なりとのことなれど此神社の祭りに晴るゝ日は少し。
銀座通にも全國の僻地より駆り出されたる田舎漢隊をなして横行するを見る。・・・
(*註:
招魂牡は、今の靖国神社。ことさら、「晴るゝ日は少し」と云うところが面白い)
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10月17日
十月十七日。雨やみしが空霽れず。くもりしまゝに日はくれたり。
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築地劇場に関係ある者数月前より拘留せられて今だに放免せられずと云。
(*註:
荷風の遊び友達に築地小劇場関係者がいる筈です。その人からの情報でしょう。)
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10月18日
十月十八日。陰。午後落葉掃かむとて庭に出るに門外の木の間に何やら赤ききれの閃くを見る。
〔此間約八字切取。以下行間補〕
女の腰巻かと見るにさにあらず、
〔以上補〕
これ鄰家の墺國人ナチスの旗と日の丸の旗とを其門に立てたるなり。
此墺國人は第一次欧洲大戦の時には既に日本に在りしが、いかなる方法を取りしにや日本に滞在し戦乱鎮定の後日本人の下女を妻となし現在の家に来り住みしなり。家屋は下女の名義にて之を買取りしものなり。此事は余大正九年偏奇館築造の際舊の家主及地所々有者より聞きたるなり。下女は房州遽漁村の者かと思はれ二目とは見られぬ醜婦なれど、忠實に能く働く女なり。二兒を舉ぐ。長女は既に廿二三なるべく男の子は十七八なるぺし。名は何といふや知らず。其母折々大聲にてクニトモ々々々と怒鳴りゐることあれば國友と云ふにやあらむ。此の子も近頃は日本の学童と交るやうになりて我家の門前にて球投をなし行儀甚わるくなれり。
〔此間十六行強切取。以下欄外補〕
日本人の教育を受くれば人皆野卑粗暴となること此實例にても明なり
余が日本人の支那朝鮮に進出することを好まざるは悪しき影響を亜西亜洲の他邦人に及すことを恐るゝが故なり
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〔欄外朱書)昭和七年暗殺團首魁井上(*日召)橘(*孝三郎)出獄
(*註:
井上日召らは終身懲役の判決であったが、6年で出獄している。)
昭和15年という時期に、掲揚された日の丸を腰巻きが干してあると言い放つ人は、そうはいないんじゃないか。
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10月21日
十月廿一日。くもりて蒸暑し。
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或人のはなしに書籍雑誌店も店数を減じ、閉店を命ぜられし家の主人は雑誌配給處の雇人となりて給金を貰ふことになるなり。
過日市内書店営業者一同其筋の呼出しにて内閣情報部に出頭せしところ掛りの役人
(此間約九字切取。以下行間補)
の他に二人の軍人剣を帯びて出で来り
〔以上補〕
陽には忠節とやらを説き聞かせ、陰に不平反対することを許さざる勢を見せたりと云ふ。
いかなる店が配給所として残り、いかなる店が閉店の悲運に遭遇するならむか。
世の中はいよいよ奇々怪々となれりと云ふ。
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10月24日
十月甘四日。午後より雨ふり出して風も次第に吹き添ひたり。
この頃ふとせし事より新體詩風のものをつくりて見しに稍興味の加はり来たるを覚えたれば、燈火にヴェルレーヌが詩篇中のサジヱスをよむ。
戦乱の世に生を偸む悲しみを述ぶるには詩篇の體を取るがよしと思ひたればなり。
散文にてあらはに之を述べんか筆禍忽ち来るべきを知ればなり。
〔欄外失書〕九段参拝の群集にまぎれ十六歳の女學生掏摸(スリ)をはたらき捕へらる
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10月26日
十月廿六日。
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日本橋邊街頭の光景も今はひっそりとして何の活氣もなく半年前の景気は夢の如くなり。
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10月28日
十月廿八日。朝くもりしが午後より空隈なく晴れわたりぬ。
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この頃の晴天つゞきに市中商店の電気時計に再び不良とかきし貼紙を見るところ多し。
されど今は怪しむもの無く、日常生活の萬事萬端皆不良不便なるが當然なりとあきらめて居るが如し。
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10月30日
「十月三十日。
〔この間約四字切取。以下行間補〕
専制政治
〔以上補〕
の風波は遂に操觚者の生活を脅すに至りしと見え、本月に入りてより活版摺の書状にて入会を勧誘し来るもの俄に多くなれり。文学者と活版職工との差別は唯机の上にて紙に字をかくことゝ工場にて活字を拾ふ事との相違あるに過ぎざるに至りしなり。哀れ果敢(はかな)きかぎりならずや。
今入会勧誘の手紙の甚滑稽拙劣なる一例として今朝到着せし書簡をこゝに写す。
(前文畧)
もともと時局に処するための文学者の運動は既に数多く存する。
然し本会ハ特に文学の局部的機能を強調宣伝せんとするものではない。文学そのものゝ大使命を掲げ文学報国の真意義を世に徹底せしめると同時に一国文化の担当者たる文学者の自主的機関たらしめんとするものである。
(中畧)
本会ハ高邁にして健全なる国民文学の建設に全力を尽し文学の社会的認識を高め日本文学界の一元化を図りつゝ新文化創造運動の一翼たらんことを期す
(以下畧)
余笑つて曰く、もし此文言の如くにならむと欲せばまづ原稿をかく事をやめ手習でもするより外に道はなし。
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参考までに、この月の黙翁年表の項目のみを、以下に記します。
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10月1日
・歓楽街への車乗り付け禁止。
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10月4日
・砂糖とマッチの配給統制規則、公布
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10月6日
・大阪、女子モンペ部隊が贅沢全廃強調大行進。
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10月7日
・奢侈品禁令で中古品を含めた販売も禁止
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10月9日
・第1回出版配給機構新体制準備委員会。委員長伊藤述史内閣情報部長。
商工省の原案(暫定的に書籍・雑誌の2本建て制)を審議。
岩波茂雄以下民間側より一元的配給会社設立意見が大勢を決める。
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10月10日
・牛乳・乳製品配給統制規則公布
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10月11日
・ファシスト歌人斉藤瀏ら、大日本歌人協会に対して解散勧告状提出。
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10月12日
・日本文芸中央会発足。
10月14日に、日本文学者会となり、昭和17年5月26日、日本文学報国会となる。
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10月12日
・大政翼賛会(総裁近衛首相、文化部長岸田国士)発会式。首相官邸。網領は「大政翼賛の臣道実践」と挨拶。
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10月17日
・元帝大教授河合栄治郎、第1審で無罪判決。裁判長石坂修一は左遷。検察控訴。
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10月19日
・会社整理統制令、会社経理統制令、船員給与統制令、銀行等資金運用令公布。
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10月24日
・日本文学者会設立。
阿部知治、伊藤整、尾崎一雄、尾崎士郎、川上徹太郎、川端康成、岸田国士、小林秀雄、島木健作、高見順、中島健蔵、林房雄
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10月29日
・大豆・大豆油配給統制規則公布。
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10月31日
・外国名排斥、煙草の「バット」を「金鶏」、「チェリー」を「桜」に改名。
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