夏目漱石「吾輩は猫である」再読私的ノート(4の1)
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吾輩は、「例によつて金田邸に忍び込む。」
「例によつてとは今更解釈する必要もない、屡を自乗(じじよう)した程の度合を示す語(ことば)である。」と説明するのが面白い。
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続いて、吾輩は、この「忍び込む」という行為の正当性を裏付けるために、土地の私有制否定論を展開し、併せて対権力へのスタンスも披露する。
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「元来吾輩の考によると大空は万物を覆ふ為め大地は万物を載せる為に出来て居る・・・。
偖(さて)此大空大地を製造する為に彼等人類はどの位の労力を費やして居るかと云ふと尺寸(せきすん)の手伝もして居らぬではないか。
自分が製造して居らぬものを自分の所有と極める法はなからう。
自分の所有と極めても差し支ないが他の出入を禁ずる理由はあるまい。
此茫々たる大地を、小賢(こざか)しくも垣を囲(めぐ)らし棒杭(ぼうくひ)を立てゝ其々所有杯と劃し限るのは恰(あたか)もかの蒼天に縄張して、この部分は我の天、あの部分は彼の天と届け出る様な者だ。
もし土地を切り刻んで一坪いくらの所有権を売買するなら我等が呼吸する空気を一尺立方に割つて切売をしても善い訳である。
空気の切売が出来ず、空の縄張が不当なら地面の私有も不合理ではないか。・・・
然し猫の悲しさは力づくでは到底人間には叶(かな)はない。
強勢は権利なりとの格言さへある此浮世に存在する以上は、如何に此方(こつち)に道理があつても猫の議論は通らない。
無理に通さうとすると車屋の黒の如く不意に肴屋(さかなや)の天秤棒を喰ふ恐れがある。
理は此方にあるが権力は向ふにあると云ふ場合に、理を曲げて一も二もなく屈従するか、又は権力の目を掠(かす)めて我理を貫くかと云へば、吾輩は無論後者を択(えら)ぶのである。
天秤棒は避けざる可からざるが故に、忍ばざるぺからず。
人の邸内へは這入り込んで差支へなき故込まざるを得ず。
此故に吾輩は金田邸へ忍び込むのである。」
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その(四の二)に続く
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