夏目漱石「吾輩は猫である」再読私的ノート(6の1)
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今回は落語ネタが登場。
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暑い日、迷亭が苦沙弥先生宅にやって来る。
自分の昼食に蕎麦の出前を注文している。
迷亭ソバ喰いの情景、落語の如し。
「君此暑いのに蕎麦は毒だぜ」と先生。
「なあに大丈夫、好きなものは滅多に中(あた)るもんぢやない」、「打ち立ては難有(ありがた)いな。
蕎麦の延びたのと、人間の間が抜けたのは由来頼母(たのも)しくないもんだ上」と、迷亭は、薬味をツユの中へ入れて無茶苦茶に掻き廻はす。
「君訳そんなに山葵(わさび)を入れると辛らいぜ」と先生。
「蕎麦はツユと山葵で食ふもんだあね。君は蕎麦が嫌ひなんだらう」
「僕は饂飩(うどん)が好きだ」
「饂飩は馬子が食ふもんだ。蕎麦の味を解しない人程気の毒な事はない」と云び乍ら杉箸をむざと突き込んで出来る丈多くの分量を二寸許りの高さにしやくひ上げる。
「奥さん蕎麦を食ふにも色々流儀がありますがね。初心の者に限つて、無暗にツユを着けて、さうして口の内でくちやくちや遣つて居ますね。あれぢや蕎妻の味はないですよ。何でも、かう、一としやくひに引っ掛けてね」と云ひながら・・・。
箸を上げると、長い奴が勢揃ひをして一尺許り空中に釣るし上げられる。
もう善からうと思つて下を見ると、未だ十二三本の尾が蒸籠(せいろ)の底を離れないで簀垂(すだ)れの上に纏綿(てんめん)して居る。
「此長い奴へツユを三分一(さんぶいち)つけて、一口に飲んで仕舞ふんだね。嚙んぢやいけない。嚙んぢや蕎麦の味がなくなる。つるつると咽喉を滑り込む所がねうちだよ」と思ひ切つて箸を高く上げると蕎麦は漸くの事で地を離れた。
左手に受ける茶碗の中へ、箸を少し宛(づゝ)落して、尻尾の先から段々に浸すと、アーキミヂスの理論に因つて、蕎麦の浸(つか)つた分量丈ツユの嵩(かさ)が増してくる。
所が茶碗の中には元からツユが八分目這入つてゐるから、蕎麦の四半分も浸らない先に茶碗はツユで一杯になって仕舞う。
少しでも卸(おろ)せばツユが溢(こぼ)れる許りである。
迷亭は、茲(ここ)に至つて少し躊躇の体であつたが、忽ち脱兎の勢を以て、口を箸の方へ持つて行つたなと思ふ間もなく、つるつるちゆうと音がして咽喉笛が一二度上下へ無理に動いたら箸の先の蕎麦は消えてなくなつてた。
迷亭の両眼から涙の様なものが一二滴眼尻から頬へ流れ出した。
山葵(わさび)が利いたものか、飲み込むのに骨が折れたものか判然しない。
苦沙弥先生と細君は、「御見事です事ねえ」と迷亭の手際を激賞。
迷亭は何にも云はないで箸を置いて胸を二三度敲(たた)いたが、
「奥さん笊(ざる)は大抵三口半か四口で食ふんですね。夫より手数を掛けちや旨く食へませんよ」
とハンケチで口を拭いて一寸一息入れる。
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死ぬ前に一度ツユにたっぷり浸けてソバを食べたかった、という例のあの落語ネタの拝借ってところでしょうか。
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その(六の二)に続く
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