永禄3年(1560)5月12日
・松永久秀、春日社に神供料100貫文を寄進。
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5月13日
・今川義元本隊は懸川城(重心筆頭朝比奈泰朝)着、先手は池田着。
14日、本隊は引馬(ひくま)城(重心飯尾乗連、後の浜松城)着、先手は二手に分かれて赤坂で合流。
15日、本隊は吉田着、先手は御油・赤坂に布陣。
16日、本隊は岡崎着、松平勢と合流。先手は池鯉鮒(後の知立)着。
17日、本隊は池鯉鮒(ちりふ)着。先鋒は三河・尾張国境の境川を越え、尾張に侵入。先手14隊4500、知多半島一帯放火。
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5月17日
・松平元康、生母於大の方を尾張阿久居の久松俊勝の館に訪ねる。
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5月18日
・今川義元本陣、尾張侵入。今川方拠点沓掛城(愛知県豊明市)に入り、軍議。全軍の攻撃部署を定める。
沓掛城:
もと松平の支配地で松平広忠の家臣、のち、一時織田信秀に属し、信秀没後に城主近藤景春が鳴海城山口左馬介と呼応して織田家を離れる。以降、今川方に属す。
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5月18日
・松平元康、夜のうちに鵜殿長照守備の大高城に兵糧を入れ、大高城に留まり、翌日未明に予定される丸根・鷲津攻撃準備を整える。
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5月18日
・夕刻、佐久間大学・織田玄蕃より、今川先鋒が丸根・鷲津攻撃態勢に入ったと、信長に報告。
夜半、織田方竜泉寺城集結の佐々内蔵助、300率い平針城入り。
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「甫庵信長記」では清洲城内の軍議で林秀貞(通勝、天正8年追放)が今川の来襲に対し篭城を主張したとする。
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□「一、今川義元沓懸へ参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、助けなき様に、十九日朝、塩の満干を勘がへ、取出を払ふべきの旨必定と相聞え候の由、十八日夕日に及んで佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申上候処、其夜の御はなし、軍の行(テダテ)は努々(ユメユメ)これなく、色色世間の御雑談迄にて、既に深更に及ぶの間、帰宅候へと御暇下さる。家老の衆申す様、運の末には知恵の鏡も曇るとは此節なりと、各嘲哢候て罷帰へられ候。」(「信長公記」)。
信長は急報を受けても軍議を開かず。
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5月19日
・早朝(午前8時頃)、今川義元、沓掛城を出て大高城に向けて西に進軍。
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5月19日
・未明(午前3時頃)、松平元康2,500、佐久間大学(盛重)の丸根砦400攻撃。佐久間らは城外で戦う。
同時刻、朝比奈泰能・井伊直盛2千、織田玄蕃・飯尾親子の守る鷲津城攻撃。籠城作戦をとる。
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5月19日
・桶狭間の戦い
明け方、丸根・鷲津砦に攻撃開始を知らせが清洲へ到着。
信長は敦盛を舞い、立ったまま食事を済ませ出陣、熱田へ向かう。小姓5人が後を追う。(午前4時頃か?)
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午前8時、熱田着。
東を望み丸根・鷲津砦の方向に煙を確認。
信長一行は「馬上6騎、雑兵弐百なり」(「信長公記」)。
この時、鷲津・丸根砦は陥落し、守将織田玄蕃允・佐久間大学は討死。
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午前10時頃、丹下砦~善照寺砦に着陣。
信長は海岸沿いを避け熱田より土手沿いに水野帯刀らの丹下砦に入り、次いで佐久間信盛の善照寺砦に到着。
ここで軍兵を立て直し、軍勢を揃えて戦況を分析・検討。兵2千が集結。
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□「案のごとく夜明けがたに、佐久間大学・織田玄蕃かたより早鷲津山・丸根山へ人数取りかけ候由、追々御注進これあり。
此時、信長敦盛の舞を遊ばし候。
人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか、と候て、螺ふけ、具足よこせよと仰せられ、御物具(モノノグ)めされ、たちながら御食をまゐり、御甲(カブト)をめし候て御出陣なさる。
其時の御伴には御小姓衆、岩室長門守・・・・・・、是等主従六騎、あつた迄三里一時にかけさせられ、辰剋(午前8時頃)に源太夫殿宮のまへより東を御覧じ候へば、鷲津・丸根落去と覚しくて、煙上り候。此時馬上六騎、雑兵弐百ばかりなり。
浜手より御出で候へば、程近く候へども塩満ちさし入り、御馬の通ひこれなく、熱田よりかみ道を、もみにもんで懸けさせられ、先(マズ)たんけの御取出へ御出で候て、夫より善照寺佐久間居陣の取出へ御出ありて、御人数立てられ、勢衆揃へさせられ、様鉢御覧じ、・・・」(「信長公記」)。
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善照寺砦からは眼下に中嶋砦見え、その南には鷲津・丸根砦のある丘陵北側が見える(鷲津・丸根砦自体は見えない)。
逆に、今川方は、鷲津・丸根砦を落とした時点で、両砦のある丘陵北側から善照寺砦を監視下に入れることができる。
従って、信長が進軍中に、鷲津・丸根砦陥落を知ったにもかかわらず、善照寺砦に入ったということは、彼が最初から、その行動を隠蔽する意思がなかったことを示す。
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午前10時30分頃、丸根・鷲津砦陥落。佐久間大学・織田玄蕃・飯尾近江守親子ら戦死。
松平元康は大高城守備の鵜殿長照との交代を命じられ大高城入り、以後の義元軍先手は鵜殿長照が担当。
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午前11時頃、大高城に向けて進軍中の義元に、丸根砦・鷲津砦陥落、信長軍先鋒の佐々政次・千秋季忠らを討ち取るとの報が入る。
義元は予定通り桶狭間山の陣所で昼食休憩をとることになる。
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正午、今川義元、沓掛から桶狭間に到着、桶狭間山に布陣。前衛隊(5~6千)は狭間を西進し中島砦方面に向う。
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桶狭間山:
東海道と大高道の分岐点に広がる鳴海丘陵内、海抜65m、沓掛と大高城のほぼ中間。
東海道を進めば織田方中島砦まで3km。
ここで義元本隊5千は北西に向けて兵の備えを立てて休息。各部隊は見通しの利く山上を選んで散在。
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□「御敵今川義元は四万五千引率し、おけはざま山に人馬の息を休めこれあり。
天文廿一(誤り)壬子五月十九日午剋(ウマノコク、正午)
成亥(北西)に向て人数を備へ、鷲津・丸根攻落し、満足これに過ぐべからず、の由候て、謡(ウタイ)を三番うたはせられたる由候。
今度家康は朱武者(アカムシャ)にて先懸をさせられ、大高へ兵根入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御辛労(シンロウ)なされたるに依で、人馬の息を休め、大高に居陣なり。」(「信長公記」)。
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□今川軍の戦術、部隊編成
義元本隊:義元護衛部隊5千程度
(義元が襲われたとき、「初めは三百騎ばかり真丸になって、義元を囲み退きけるが・・」(『信長公記』)と、僅か300の旗本が守備していただけ)
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主力は、岡部元綱らが率い、鳴海城の前線にまで進んでいる。
19日の今川軍の軍事行動予定
①義元が入る大高城を安全にするため、織田方からの付け城である丸根砦・鷲津砦を落とすこと。
②義元本隊の沓掛城から大高城への移動
③鳴海城に兵力を集中させ、織田方の付け城である善照寺砦・丹下砦・中島砦を落とすこと。
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正午過ぎ、今川本隊の前衛部隊が中島砦に近付いた時、織田軍の佐々隼人正が今川勢に突撃。
信長の善照寺砦到着の報に勢いづいた佐々隼人正300が今川勢に突撃(抜け駆け)敢行。佐々隼人正・千秋四郎李忠ら戦死50。
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□「信長善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正・千秋四郎二首(フタカシラ)、人数三百ばかりにて義元へ向て足軽に罷出で候へば、瞳(ドツ)とかゝり来て、鑓下にて千秋四郎・佐々隼人正初めとして五十騎ばかり討死候。
是を見て、義元がよんかく戈先(ホコサキ)には天魔鬼神も忍(タマル)べからず。
心地はよしと悦で、緩々(ユルユル)として謡をうたはせ陣を居(スエ)られ候。」(「信長公記」)。
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佐々隊敗北を見た信長は中島砦へ移動。兵は2千以下。
この信長の動きは、今川軍の少なくとも前衛部隊からは丸見え。
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中島砦は丹下・善照寺砦と連携して鳴海城を封鎖し、大高城を囲む丸根・鷲津砦に対しては繋ぎ機能も果たす位置にあったが、丸根・鷲津砦陥落後は最前線基地となっている。
川の合流点に築かれた砦のため、周囲一面に湿地帯で、足を取られて一騎縦隊でしか進めない低地であるが、信長は家臣の制止も聞かずに前進。
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□「信長御覧じて、中嶋へ御移り候はんと候つるを、脇は深田の足入(アシイレ)、一騎打ちの道なり。
無勢の様躰(ヨウダイ)、敵方よりさだかに相見え候。
御勿躰(モツタイ)なきの由、家老の衆御馬の轡の引手に取付き候て、声々に申され候へども、ふり切って中嶋へ御移り候。此時二千に足らざる御人数の由申候。」(信長公記」)
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中島砦で信長は攻撃指示。
反対する家臣を督励して中島砦を進発。総軍2千(前田利家、佐々隊の残党、親衛隊)。今川軍の前衛隊は織田軍に押されて山際まで後退。
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□「中嶋より又御人数出だされ候。今度は無理にすがり付き、止め申され候へども、爰(ココ)にての御諚には、各よくよく承り候へ。
あの武者、宵に兵粮つかひて夜もすがら来り、大高へ兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労してつかれたる武者なり。
こなたは新手なり。其上小軍ニシテ大敵ヲ恐ルルコト莫(ナ)カレ、運ハ天ニ在リ、此語は知らざる哉。
懸らばひけ、しりぞかば引付くべし。是非に稠倒(ネリタオ)し、追崩すべき事案の内なり。
分捕をなすべからず、打捨たるべし。
軍(イクサ)に勝ちぬれば此場へ乗つたる者は家の面目、末代の高名たるべし。只励むべしと御諚の処に、
前田又左衛門(利家)…、
右の衆手々(テンデ)に頚を取り持ち参られ候。」(「信長公記」)。
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信長配下の簗田出羽守が義元本隊を捕捉。
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午後1時頃、桶狭間一帯ににわか雨。
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□「右の趣、一々仰聞かさせられ、山際迄御人数寄せられ候の処、俄に急雨(ムラサメ)石氷を投打つ様に、敵の輔(ツラ)に打付くる。
身方は後の方に降りかかる。
沓懸の到下の松の本に、二かい三かゐの楠の木、雨に東へ降倒るゝ。
余りの事に熱田大明神の神軍かと申候なり。
空晴るるを御覧じ、信長鑓をおつ取て大音声を上げて、すすはかゝれかゝれと仰せられ、黒煙立てゝ懸るを見て、水をまくるがごとく後ろへくはつと崩れたり。弓・鑓・鉄砲・のぼり・さし物、算を乱すに異ならず。今川義元の塗輿も捨てくずれ迯(ノガ)れけり。
天文廿一年(誤り)壬子五月十九日、
旗本は是なり、これへ懸かれと御下知あり。
未剋(ヒツジノコク)東へ向てかゝり給ふ。」(「信長公記」)。
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義元本隊は桶狭間山を下り東海道の方向に組織的な退却。風雨で地盤が緩み、一列しか通れない道路で、義元にとって条件は不利。
義元本隊の集結は困難で各隊の援護も絶望的。
300騎程で義元を囲み退却する義元本隊勢は、次第にその数を減らし、遂に50騎余となる。
信長も先頭にたって攻撃。信長の馬廻りや小姓衆も「手負い、死人数知れず」。
服部小兵太(一忠)・毛利新介(良勝)が手傷を負いながら総大将義元(42)を追い詰め首級を上げる。
今川軍、壊滅・敗走。
信長、その日のうちに清洲に帰陣。
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□「初めは三百騎ばかり真丸になつて、義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度帰し合せ帰し合せ、次第々々に無人になりて、後には五十騎ばかりになりたるなり。
信長も下(オリ)立つて、若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒ほし、いらつたる若もの共、乱れかゝつてしのぎをけづり、鍔(ツバ)をわり、火花をちらし火焔をふらす。
然りといヘども、敵身(味)方の武者、色は相まぎれず。爰(ココ)にて御馬廻・御小姓衆歴々、手負死人員(カズ)を知らず。服部小平太、義元にかゝりあひ、膝のロきられ倒伏す。
毛利新介、義元を伐臥せ頸をとる。
是偏(コレヒトヘ)に先年清洲の城において、武衛様を悉く攻殺し候の時、御舎弟を一人生捕り、助け申され候、其冥加忽ち来つて、義元の頚をとり給ふと人々風聞候なり。運の尽きたる験(シルシ)にや。」(「信長公記」)。
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今川軍は総崩れになり、凄惨な掃討戦が始まる。
□「おけはざまと云ふ所は、はざま、くてみ、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所(セツシヨ)と云ふ事限りなし。
深田へ迯入(ノガレイ)る者は所をさらずはいづりまはるを、若者ども追付き追付き二つ三つ宛、手々に頸をとり持ち、御前へ参り候。
頸は何れも清須にて御実検と仰出だされ、よしもとの頸を御覧じ、御満足斜(ナナ)めならず。
もと御出で候道を御帰陣候なり。」(「信長公記」)。
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信長、義元の佩刀左文字を奪い、のち、戦勝記念として、「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀 織田尾張守信長」と刻字する。
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佐久間一族:
今川方の大高城・鳴海城に付けられた5砦の内、丸根砦(佐久間大学)・善照寺砦(佐久間信盛・同信直)に佐久間一族がおかれ、織田家臣団で最大。大学が戦死したため、信盛が一族惣領となる。
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佐々成政兄・政次、戦死。
成政、家督を継いで比良城主となる。織田信長の馬廻り役(黒毋衣組)となる。
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金森可近(32)、功績を認められて信長の長の字を与えられ長近と改名。信長の赤母呂衆となる。
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今川方、井伊直盛(井伊谷城主)、桶狭間に於いて戦死。
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今川片の松平元康は敗戦の中で岡崎城を回復し、今川氏からの独立の第一歩を踏み出す。
翌々年、信長は元康と同盟を結んで東方を押さえさせ、自分は美濃の攻略に専念する。
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江戸初期の作家小瀬甫庵「甫庵信長記」の「義元合戦の事」で奇襲戦と記述。
後、江戸中・後期の軍記物「総見記」「改正三河後風土記」でより潤色。
明治35年「日本戦史・桶狭間の役」(参謀本部編集)や「近世日本国民史」(徳富蘇峰)でもこれを踏襲。
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『三河物語』(大久保彦左衛門忠教)に見る桶狭間合戦
信長が戦場に駆けつけてきたので、駿河衆が徳川の家臣、石河六左衛門に状況を判断させた。
六左衛門が「敵は少なくとも五千はあるだろう」と言うと、駿河衆はそんなにはいないだろうと嘲笑した。六左衛門は次のように答えたという。
「かたかた達は人数の積(ツモリ)は存知なしと見えたり。かさにある敵を、下より見上て見る時は、少勢をも大勢に見るものなり。
下にある敵をかさより見をろして見れば、大勢をも少勢に見るものにて候。旁々(カタガタ)達の積には何とて五千より内と仰せられ候哉。」
(今川方は信長軍を見下して過小評価している)
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「早々帰らせたまへと六左衛門申ければ、急早めて行所に、歩行者(カチモノ)は早五人三人づゝ山へあがるを見て、我先にと除(ノク)。
義元は其をば知給ずして、弁当をつかはせ給て、ゆるゆるとして御(オワシマシ)給ひし所に、車軸の雨がふり懸る処に、永禄三年庚申五月十九日ニ、信長三千計(バカリ)にて切て懸らせ給へば、我も我もと敗軍しければ、義元をば毛利新助方が、場もさらさせずして討捕。」
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「★信長インデックス」 をご参照下さい。
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