2011年4月24日日曜日

樋口一葉日記抄 明治27年(1894)4月(22歳) 「店をうりて引移るほどのくだくだ敷、おもひ出すもわづらはしく、心うき事多ければ、得かゝぬ也。」(樋口一葉「塵中(ちりのなか)につ記」)

明治27年(1894)4月
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この頃の一葉の日記「塵中(ちりのなか)につ記」(表書年月「廿七年三月」。署名「夏子」)は、
以下の構成になっています。

①まず、「わがこゝろざしは国家の大本にあり」の部分(コチラ):閉店の決意

3月26日~28日の日記部分(コチラ)

③そして、今回ご紹介する「四月に入りてより、・・・」で始まる4月の日記代わりの簡単なメモ(4月の日記は書かなかったと自身もこのメモに記しています)、
と5月1日(引っ越しの日)~2日の2日分の日記部分

から成っています。
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その後、1ヶ月の空白のあと、
6月4日からは、「水の上日記」として新たな日記が始まります。
(引っ越し先の住居が、池の上に建っていたので、日記の表題は「水の上」と付けられる。)
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(段落、改行を施しています)
四月に入てより、釧之助の手より金子五拾両かりる。
清水たけといふ婦人、かし主なるよし。利子は二十円に付(つき)二十五銭にて、期限はいまだいつとも定めず。
こは大方(おほかた)釧之助の成(なる)ペし。

かくて中島の方も漸々(やうやう)歩(ほ)をすゝめて、「我れに後月(ごげつ)いさゝかなりとも報酬を為して、手伝ひを頼み度」よし師より申(まうし)こまる。
「百事すべて我子と思ふべきにつき、我れを親として生涯の事を計らひくれよ。我が此萩之舎は則ち君の物なれば」といふに、
「もとより我が大任(たいにん)を負ふにたる才なければ、そは過分の重任なるべけれど、此いさゝかなる身をあげて歌道の為に尽し度心願なれば、此道にすゝむべき順序を得させ給はらばうれし」とて、先づはなしはとゝのひぬ。
此月のはじめよりぞ稽古にはかよふ。

花ははやく咲て、散がたはやかりける。
あやにくに雨風のみつゞきたるに、かぢ町(ちやう)の方(かた)、上都合(じやうつごふ)ならず、からくして十五円持参。

いよいよ転居の事定まる。家は本郷の丸山福山町とて、阿部邸の山にそひて、さゝやかなる池の上にたてたるが有けり。
守喜(もりき)といひしうなぎやのはなれ座敷成しとて、さのみふるくもあらず、家賃は月三円也。たかけれどもこゝとさだむ。

店(たな)をうりて引移るほどのくだくだ敷(しき)、おもひ出すもわづらはしく、心うき事多ければ、得かゝぬ也
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五月一日 小雨(こさめ)成しかど転宅。手伝(てつだひ)は伊三郎を呼ぶ。
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西村釧之助を通してお金50円を借りる。
貸主は清水たけという婦人で、返済期限などはまだ決めていないという。
恐らく釧之助のお金であろう。

「萩の舎」の歌塾の話も進み、いくらかの報酬を出して手伝いを頼みたいと言って来る。
・・・
4月初めから稽古指導に出ている。

桜は早く咲いて、散るのも早かった。
鍛冶町の石川銀次郎の商売はよくなかったとのことで15円を持ってきてくれた。

いよいよ転居が決まった。
家は本郷の丸山福山町、阿部邸の山にそって、小さな池があり、その池の上の方に建てられたもの。
「守喜」という鰻料理屋の離れ座敷であったとかで、それほど古くもない。家賃は月3円。高いけれどもここに決めた。

店を売って引っ越しをするまでのごたごたした事は、思い出すのも煩わしく、不愉快なことが多かったので、とても書くことができない。
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阿部邸:福山藩主阿部家の武家地
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西片町の高台の崖下にあたる。
「守喜」(モリキ)という鰻屋の離れ座敷を改築して、池とともに貸していた家屋。
前隣には「浦島」、北隣には「鈴木」という銘酒屋があった。
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馬場孤蝶の回想:
「方三尺位な履脱(クツヌギ)の土間があり、正面は真直に三尺幅位の板の間が通って居る。それに沿ふて、右側には六畳が二間並んで居り、左側は壁と板戸棚であり、それから、上り口の左の方も一寸板の間になって居て、それから正面の廊下の右側の後になる所に、丁度隠れたやうな四畳半くらいな部屋があり、・・・入口の六畳の間で、大抵一葉女史は客に応接した」(『明治文壇の人々』)。
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「殊に一葉君の家の近辺が左様いふ商売屋(*銘酒屋)の中心であったやうだ」、
「今喜楽館といふ活動小屋の角を曲がった所などは、その当時は抜裏と云つて宜い程の狭さであったが、その辺から一葉君の家の前までは右側は殆ど門並さういふ家であって、人の足音さへすれば、へンに声作りをした若い女の『寄ってらっしゃいよ』といふ声が家の裡(ナカ)から聞えた」(「一葉全集の未に」明治45年6月)。
一葉はそういう女性たちと交わり、彼女たちが客に出す手紙の代筆などもする。
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「となりに酒うる家あり。
女子あまた居て、客のとぎをする事うたひめのごとく、遊びめに似たり。
つねに文かきて給はれとてわがもとにもて来ぬ。
ぬしはいつもかはりて、そのかずはかりがたし」
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三宅花圃の談話。
「夏子の君が先には吉原の傍なる浅草大音寺前通りに住みたまひ、今はまた本郷丸山の福山町なる銘酒屋なんどが限りもなふ軒をならぶる醜(ミグ)るしの街に宿を定めたまへるを諌めける人さへあり。妾もまた君の為めに言ふ所ありしに君は笑ひたまふて一言も答へせず、朗詠の声もすゞしく
なかなかにえらまぬ宿のあしがきの
あしき隣もよしや世の中
とて話題を他へそらしたまひぬ」(「讀賣新聞」明治29・11・30)
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この丸山福山町で、一葉は「奇蹟の十四箇月」を過ごす。
ここでの作品は、
「やみ夜」(明治27年7月~11月)、「大つごもり」(27年12月)、「たけくらぺ」(28年1月~29年1月)、「ゆく雲」(28年5月)、「にごりえ」(28年9月)、「十三夜」(28年12月)、「わかれ道」(29年1月)、「この子」(同上)、「裏紫」(29年2月)、「われから」(29年5月)
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しばらく後になって、漱石の弟子森田草平が偶然にもこの借家に住むことになります。
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「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
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以前に友人とこの丸山福山町の一葉終焉の地を訪ねたことがあるのですが、まだご紹介していないのに今気付きました。
近いうちにご紹介します。

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