永井荷風年譜(8)
明治35年(1902)満23歳
2月
木曜会の会員赤木巴山人と黒田湖山が始めた美育社が「饒舌」を創刊(この年10月廃刊)。
この頃、木曜会本部は美育社内に移され、例会を活発に行う。
2月6、13日には荷風の「地獄の花」が朗読される。
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またこの頃、金港堂が「文藝界」を発刊し懸賞小説を募集。
荷風は「地獄の花」を応募するが採用されず。
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3月25日
荷風が木曜会に参加する契機となった清国人羅臥雲(蘇山人)が22歳で没する。
5月11日、追悼句会開催。
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4月
美育社から「野心」を出版(「新青年小説叢書」)。
この頃、「饒舌」にゾラを紹介(3回の掲載)。
「ゾラ氏の故郷」(4月5日)、「ゾラ氏の「傑作」を読む」(6月5日)、「ゾラ氏の作La Bete Humaine」(7月5日)
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5月26日
父が牛込区大久保余丁町79番地(現、新宿区余丁町)に土地家屋を購入、家族とともに転居。
来青閣と称する。敷地2千坪、建坪240坪余。
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6月1日
「闇の叫び」(「新小説」掲載)
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9月
懸賞では選外となった「地獄の花」(金港堂)を「等外報酬」として刊行、75円を得る。
ゾライズムの作風を深める。
森鴎外に絶賛され、彼の出世作となる。
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野口冨士男「わが荷風」によれば、この懸賞金で荷風は洲崎遊郭に「留連」し、そこで見聞した事柄を題材にして、翌年には「夢の女」を執筆、出版したという。
白米1升が15錢弱の時代の75円の時代であったそうだ。
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10月15日
「新任知事」(「文藝界」掲載)。
福井県知事であった叔父阪本釤之助をモデルとしたとされ、これがもとで阪本から絶縁される。
荷風の権力に対する反骨精神の現れでもある。
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11月1日
巌谷小波がドイツより帰国。
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明治36年(1903)満24歳
1月
市村座で小栗風葉に森鴎外を紹介され、初めて挨拶をする。
(森鴎外『玉篋両裏嶼』、尾崎紅葉『夏小袖』の伊井蓉峰一座公演。)
鷗外から「地獄の花」を読んだと言われ感激する。
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5月8日
「夢の女」を新声社から出版。
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■「濹東綺譚」の中での「夢の女」への言及
「曾て、(明治三十五六年の頃)わたくしは深川洲崎遊廓の娼妓を主題にして小説をつくった事があるが、その時これを読んだ友人から、
「洲崎遊廓の生活を描写するのに、八九月頃の暴風雨や海嘯(ツナミ)のことを写さないのは杜撰の甚しいものだ。作者先生のお通ひなすつた甲子楼の時計台が吹倒されたのも一度や二度のことではなからう。」
と言はれた。
背景の描写を精細にするには季節と天候とにも注意しなければならない。例へばラフカヂオ、ハーン先生の名著チタ或はユーマの如くに。」
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■洲崎遊廓は、明治21年、根津遊廓が深川区弁天町(現、東陽1丁目の埋立地)の海辺の埋立地に移転したもの。
海に近く、「甲子楼の時計台が吹倒されたのも一度や二度のことではなか」ったような場所だったと知れる。
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荷風は、前年出版した「地獄の花」で得たお金をもとに、この遊郭に「留連」して、茶屋で働く若い女(半玉)と深い仲になったりしながら取材を重ねたそうだ。
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■「冷笑」には、「おきみさん」が登場する。
「私はおきみさんをば斯(カ)う云ふ種類の女としては、その模範だと信ずるほど美しいと思つて居たが、然し別に恋してゐる訳ではなかった。
私は唯水の多い、私の好きな深川の景色がこの女性を得て更に美しく、或時は堪へがたいまでに私の詩興を誘(イザナ)つてくれるのを非常なる賜物として喜んで居たのである・・・
富岡門前まで生花の稽古に行くからと云ふので、朝帰りの吾々と早船を共にして、堀割の水に浮かべた材木の脂(ヤニ)の匂が冷い朝風に立迷ふ間を通つて行く時、私はおきみさんが胴の間の薄べりの上に横坐りして、舷(フナベリ)に頬杖をついた其の横顔を斜めに眺め、いかに麗しい空想に酔ふ事が出来たであらう。
おきみさんは土地のものだけに早船の船頭とは大概知り合つてゐて、随分卑陋(ビロウ)な冗談をも平気で聞いて居るが、其代り時としては金歯を暼見(ホノミ)せて笑ひながら、荒くれた船頭を鋭く頭から叱りつける事もあつた。
花を片手に舟から上つて朝日を受けた美白な倉庫の壁を後にして岸に佇立(タタズ)む若いおきみさんの姿をば、私は滑(ナメラカ)な朝汐の水面に流れる其倒影(カゲ)と共に眺めた時の心持を、今もつて夢のやうに思ひ出す事がある」(「冷笑」)
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7月1日
『夜の心』を「新小説」、『燈火の巷』を「文芸倶楽部」に掲載。
『小説 恋と刃』(ゾラ「獣人」の翻案)を「大阪毎日新聞」(9日から8月23日まで46回)に連載。
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9月24日
『女優ナゝ』を新声社より刊行。
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9月22日
父の意向で実業を学ぶべく渡米、1907年までタコマ、カラマズー、ニューヨーク、ワシントンD.C.などでフランス語を修める傍ら、日本大使館・正金銀行に勤める。
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9月22日、日本郵船「信濃丸」6,833tで横浜港を出発
(「信濃丸」は当時第一級の豪華船、荷風はその一等船室に乗り込む。2週間の船旅。)
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■末延芳晴氏「永井荷風の見たあめりか」によれば、
アメリカでの入国審査の差別
「一等船客は簡単な審査で済んだが、三等になると審査の目が厳しく、特に出稼ぎ労働者が主体の普通三等船客になると、渡航の目的から身元の引き受け人、当座の現金の持ち合わせなど厳しくチェックされ、検疫では全員裸にされて長時間待たされるなど屈辱的な扱いを受けた。
その上、トラホーマや伝染病の徽候が少しでもあると、入国が拒否され、日本に強制送還された。
なけなしの金をはたき、その上借金までして三等船室に乗り込み、奴隷のような待遇に耐えて太平洋を渡り、ようやくアメリカの大地を踏んだと思ったら、その場で入国を拒否され、泣く泣く日本に送り返された出稼ぎ労働者も少なくなかったのである」
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のちに親くする金沢の人今村次七と同室。
一等船客の日本人の記念写真裏に、今村は、荷風について「温厚ナル才子ナリ多少東京ニ在ル時分講武所ノ藝者ニ金ヲ使フタル様ナリ女ノ写真卜紙入ヲ大事二鞄ノ中ニ所持シ僕丈ニ見セテ呉レタ」と記している。
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10月5日
カナダのヴィクトリア港に着く。
「ヴィクトリア港の燈火天上の星と相乱れ月中異郷の山影は黒く怪物の横るに似たり。鳴呼余の身は遂に太平洋の彼岸に到着せるなり」(「西遊日誌抄」)。
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10月7日、シアトル港に到着。
10月10日、タコマ市に行きここに居住。
語学習得のためにハイスクールに通う(どうやら1、2回聴講した程度らしい)。
10月24日シアトルに遊び、平原での牧畜の風景に感じ入る。帰途夜の日本人街に足を踏み入れる。
この頃、日本人出稼人の暗黒な運命について見聞するところが多かった。
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「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
1 件のコメント:
ア質問です。永井荷風と同室した今村弥七の情報はなにが出典でしょうか。
御教えいただければ、幸いです。
宇佐美昇三
imasu77$ab.auone-net.jp
お手数ですが$を@に打ち変えておおくりください。
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