東京 江戸城東御苑(2011-12-13)
*承和2年(835)
1月
・空海の念願であった宮中に真言院を建てることを許可され、初めての密教による修法が宮中で行われる。
これを機に、真言宗にも年分度者3名が勅許される。
宮中の真言院における修法にのぞんだ空海は、ただちに高野山金剛峰寺に帰って病める老躯をいたわったのであるが、にわかに危篤におちいる。
真言院は、中国の内道場を模した施設で、天皇や王権の安寧を密教修法により祈願するための施設である。
毎年正月に宮中で挙行される御斎会(最勝会)の後に、7日から15日まで行われる後七日御修法(ごしちにちのみしほ)を付加するという形での顕教との併存を図る。
御斎会では代表的な護国経典である『最勝王経』が転読されるが、それは顕教での護国法会であり、併せて密教の修法での国家護持も図れば万全である、という論理である。
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1月22日
・承和昌宝(皇朝十二銭の六)を鋳造。
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3月21日
・空海(62)、趺座結印(ふざけついん)の姿で没す。
1月22日
真言宗の年分度者3人を申請。許される。
2月30日
金剛峯寺が定額寺として認められる。
3月15日
高野山において諸弟子に遺告を与える。
延喜21年(921)10月27日
東寺の長者であった観賢の申請により、弘法大師の諡号を賜る。
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7月3日
・諸国の守・介の任期を4年とする。但し大宰府・陸奥・出羽に関しては変わらず。
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9月
・円仁(43)に請益僧(還学僧)として入唐するよう命令が出る。
円仁:
延暦12年(793)、下野国に生まれる。
長じて比叡山延暦寺に入り、最澄に師事。
朝野の尊崇を受け、日本最初の大師号である慈覚大師の称号を受ける。
円仁が最澄に弟子入りしたのは大同3年(808)、最澄は最大の庇護者桓武を失い、辞を低くして空海から密教経典を借り写していた時期であった。
円仁の使命は、最澄の跡を継いで、天台教学の深化を図ることと、天台宗への密教の本格的な導入を図ることである。
最澄没後、14年間は、空海の全盛時代。
比叡山延暦寺は、空海の影響をうけて密教の空気が濃くなり、教団の独自性を失う危局にさらされた。
また、空海は『秘密曼荼羅十住心論』において、教義上、真言密教を天台よりも上に位置づけしたので、叡山は、最澄の理論から踏み出さねばならない状況にあった。
それを打開する異材として最澄の弟子のなかに円仁が現われた。
円仁は、3年後に承和の遣唐使に加わり長安に赴く。
彼の10年に及ぶ滞唐求道の事歴は『入唐求法巡礼行記(につとうぐほうじゆんれいこうき)』で窺える。
円仁は、密教とその様々な修法を学び、帰朝後、比叡山の宗風・経営に活をいれ、仁明・文徳・清和の歴代天皇や貴族らに接近して、授戒そのほかの奉仕を行う。
天台宗は円仁によって一段と密教化されたが、教団の力は強大となり、円珍・安然らの著名な後継者を次々生みだしていく。
円仁は貞観6年(864)に没し、2年後、清和天皇は唐の制にならって最澄に「伝教大師」、円仁に「慈覚大師」の諡号を与えた。(勅諡号のおこり)。
金剛峰寺の座主観賢(かんげん)のたびかさなる要望をいれて、醍醐天皇が空海に「弘法大師」の諡号を贈ったのは、はるか後の延喜21年(921)のことである。
空海没後しばらく、天台の勃興に比して真言はふるわなかった。
空海のような敏腕の大器の跡を継ぎうる偉才に欠け、わずかに実恵(じつえ)と真雅(しんが)の2人が光り、承和3年、真然(しんぜん)・真済(しんぜい)が唐への旅についたものの、途中で難船して目的を達しなかった。
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12月3日
・陸奥国には俘囚が多く、任意に国境を出入りしており、また商旅の人々が、陸奥国から朝廷に進上すべき特産物を買い漁っているので、陸奥南端の白河・菊多(きくた)関において、長門の関に準じて勘過する(よく調べて通過させる)ことを陸奥国が申請し、許可される。(『類聚三代格』巻18承和2年12月3日太政官符)
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12月4日
・夷俘が国境を出ることは、以前から禁止されているのに、近年では任意に国境を出て入京する者が多いので、太政官符を下して陸奥出羽按察便・国司・鎮守府を譴責したという。(『続日本後紀』承和2年12月甲戌(4日)条)
陸奥の俘囚が国境の関を出て入京している様子がわかる。
目的は交易であるとの説もあるが、俘囚の入京は、陸奥の官人や政府にとって不都合であったことが窺える。
この年12月に入京が禁止され、翌年1月頃から陸奥奥郡で騒乱が発生するところを見れば、入京の主目的は越訴であったと考えられる。
この頃、陸奥の俘囚が何らかの理由で入京越訴を繰り返していたが、この月に入京が禁止され越訴できなくなり、武装して国司の支配に抵抗するようになったと想定できる。
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