2011年12月12日月曜日

弘仁15年/天長元年(824)~天長2年(825) 左・右検非違使庁の創設  藤原緒嗣が右大臣・冬嗣が左大臣 高棟王に平の姓を与える(桓武平氏)

東京 江戸城東御苑 二の丸雑木林(2011-11-30)
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弘仁15年/天長元年(824)
この年
・公水を利用しながら池溝の修築を怠る農民に対し、杖80の実刑に処することにする。
治水は元来、国・郡司の任たる勧農事項である。
国司らはその保全をなおざりにし、その責任が農民に転嫁される。
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左・右検非違使庁の創設
嵯峨の政府は、薬子の変を機に、臨時措置として、京内外の巡検と盗賊・無法者の追捕を職掌とする左・右衛門府内に検非違使を創設。
この年、これを独立の機関として編成し、左・右検非違使庁を創設。
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・この年、空海の根本道場である高雄山寺は定額寺(じようがくじ、古代の寺格の一つで、国家公認の寺)の待遇をうけ、寺名は神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)と改められる。
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1月5日
・天長改元。
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2月
空海(51)、勅命により神泉苑で請雨経法を行う。
ちなみに生涯に祈雨法を修すること51回とも云われる。
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3月26日
空海(51)、小僧都に任命され僧綱の一員となる
得度は公認制、僧尼は国家の統制下に置かれたこの当時、僧尼を管理する官として僧綱が設けられていた。
この頃の僧綱は、僧正、大僧都、小僧都各1名、律師4名と決められていた
(僧正は置かれないこともある)。
3年後には大僧都となる。
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6月20日
・渤海に対し朝貢頻度を減らし1紀(12年)1貢制を採るよう要求(『類聚三代格』)。
しかし、実際は守られなく間隔はそれより短い。
渤海は、当初、半島における孤立状態を脱し、新羅を牽制するため日本に使節を送ってきた。
8世紀後半以降は、2、3年毎、多い時には毎年である。
しかし、東アジア情勢が安定してからも渤海の「朝貢」は続く。
実際は、通交よりも貿易が主眼で、渤海使は、一度に数百人も来日するこもある。
「朝貢」の場合、経費は日本側が負担するため、この年、来航頻度を1紀(12年)1貢制にするよう要求(『類聚三代格』)するが、実際には守られなかった。
渤海がもたらす物品には、薬用人参(朝鮮人参)、蜂蜜、獣皮などがあり、貴族たちはこれを争って買い求めた。
なお、近年では、従来、中国から直接もたらされていたと推測されていた唐三彩や高級織物なども、渤海経由でもたらされた可能性が指摘されている。
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7月7日
・平城上皇(51)、没。(父;桓武天皇、母:皇后藤原乙牟漏)
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9月10日
・勘解由使を復活させる。
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9月27日
・河内国の神願寺を高雄山寺の地に移し、神護寺と称す。
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天長2年(825)
・政府は国府の歳費として修理池溝料を計上する。
大国は4万束、上国は3万束、下国は1万束を出挙(貸付け)して、その利稲を池溝修理の財源とする。
小破は当年のうちに農民に修造させ、大破の場合は、太政官に申告した後、修理料を支出してその事業に充当させる。
この制度はその後ながく保持され、10世紀初頭の法典『延喜式』にも窺われる。
しかし、出挙稲の膨脹は全て農民の負担に帰することになる。
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4月5日
藤原緒嗣が右大臣、藤原冬嗣が左大臣となる。
緒嗣は天長9年に左大臣となる。
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5月
・東寺講堂建立。この年、空海は52歳。
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7月
桓武天皇の皇子葛原親王の子、高棟王に平の姓を与える(桓武平氏)
葛原親王には、高棟(たかむね)王と高見(たかみ)王の2人の子がいた。
正史に登場するのは長男の高棟王のみで、大学頭などを経て、この年に平姓を与えられ、貞観9年(867)に大納言正三位按察使で没する。
書籍を好み、仏教を篤く信仰していたという(『日本三代実録』貞観9年5月19日条)。

高見王は正史にみえず、『尊卑分脈』では無位(無品の誤りか)と尻付にあるだけ。
高棟王と母が異なったとしても、高棟王とは位階・官職が違いすぎる。若死にしたと考えられる。
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11月28日
・嵯峨上皇の40歳の賀。
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