東京 江戸城(皇居)東御苑
*「原爆では、米国が内部被曝をなかったことにしました。
福島が同じ軌道をたどることは絶対にあってはならないのです」
とは、12月7日に連載の終った「朝日新聞」「プロメテウスの罠」のシリーズ4番目「無主物の責任」の最後で、
広島で被爆した医師の肥田舜太郎(ひだしゅんたろう、94歳)さんが7年前の大阪地裁での証言で述べた言葉。
このシリーズは、東電が、ある裁判で
飛び散った放射性物質は既に「無主物」であり、東電の所有物ではないということを主張した、
という話から始まった。
(このことに関する詳細は、コチラでご紹介済)
ここで改めて肥田さんの活動を中心に「無主物の責任」シリーズのあらましをご紹介する。
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肥田は、原爆が落とされた昭和20年8月6日、当時は軍医でたまたま郊外の村にいた。
その村は人口2千人弱であったが、直後から1万人をこす被爆者が流れ込み、彼はそこで被爆者の治療にあたる。
原爆で大やけどを負った人は、最初の3日間で死んだが、その後、変な死に方をする人が出てきた。
軽いやけどなのに、熱が出て、鼻、口、目から血を流し始め、口の中は腐り、髪の毛はさわるとごそっと抜けた。
後になって分かったが、放射線による急性症状だった。
そのうち、さらに不思議な死に方をする人が出てきた。
松江から来た女性は、原爆が落ちたときは岡山にいて、1週間後、夫を探しに広島に入り、何日か焼け跡を歩いた。
肥田のいた村でやっと夫を見つけた。夫は重症だった。
ある日、その女性は着物姿のまま、重症の夫の横で仰向けに寝ていた。
具合が悪そうだったが、聴診器をあててみても異常は見つからない。風邪だろうと思って薬を与えた。
女性の容体は、日増しに悪くなり、顔色は青くなり、肌に斑点が出てきた。斑点は、原爆を直接浴びた被爆者の皮膚に、死ぬ間際に出てきたものと同じだった。
女性は血をはき、髪の毛が抜け、まもなく死んだ。
原爆に遭っていないのに、なぜ女性は死んだのか。
それが、肥田が内部被曝にこだわるようになったきっかけだった。
肥田は戦後、東京で診療所を開く。
噂を聞き、原爆症ではないかと疑う人たちが大勢やってきた。
彼らに共通したことは、口々にだるさを訴えることだった。
これまで広島や長崎での被爆関連患者6千人を診た。
うち4千人は、被爆直後は広島や長崎にいなくて、後から市内に入ったり、少し離れた所にいたりした人だった。
症状は10年後、20年後も、30年以上たって出た人もいる。
肥田は、原爆後に広島に入った「入市(にゅうし)被爆者」をたくさん診てきた。
長野県から肥田の診療所にやってきた男性の場合。
家族にさえ被爆者であるとを話してない。
男性は最近、急に体がだるくなって、仕事ができなくなったと告げた。
大学病院に行ったがどこも悪くないといわれたという。
原爆が落とされたときは岡山にいたが、翌日、父を捜しに広島に行った。
しばらくして体がだるく感じるようになり学校を休んだ。
初めはあまり気にしていなかったが最近は耐えられなくなり肥田のところにきた。
男性は診察の途中、「すみません、だるくて」といい、椅子から降り、床に座ってしまうほど。
健常者の「だるさ」とは明らかに異質だが、そうした人々は、倦怠感(けんたいかん)から仕事を休みがちになり、「怠け者」といわれた。
病院に行っても原因が分からず、「神経過敏症だ」「ノイローゼ」とされてしまう。
共通しているのは、原爆後、広島に入ったり、広島の近くに住んでいたりしていること。
とすれば、原因は原爆の放射線以外に考えられなかった。
しかし、国はそれが原爆のせいだとは認めなかった。
8年前、国から原爆症と認められなかった被爆者たちはまとまって裁判を起こした。
肥田はその裁判で、被爆者側に立って大きな役割を果たした。
内部被曝の因果関係を証明するのは困難で、裁判では、国は「内部被曝は無視し得る」と切って捨てた。
被爆者たちは論理ではなく、自らの体験を語るしかなかった。
7年前の大阪地裁。
肥田は証言台で、広島で経験したことを話した。
「このような議論をするとき一番大事な発火点は、人間として被害を受けた被爆者なんです。
それは、物理学者の議論でもなく、医学者の議論でもないのです」
2年後、大阪地裁で被爆者たちは勝利する。
国は控訴したが、棄却された。
一連の原爆症の裁判は、その後も各地で被爆者たちが勝ち続ける。
しかし、内部被曝を積極的に認めない国の姿勢は基本的には変わらず、補償を受けられない被爆者たちは、年老いた今もやむなく裁判を起こし続けている。
被爆者の病気が放射線によるものなのか。
国の姿勢からは「われわれの方が科学的に正しい」という考えがにじみ出ている。
肥田は、政府が今回の事故後に「ただちに人体には影響はありません」と何度も強調したことに腹が立っている。
「ただちにはないが、もしかしたら影響が出る人もいるかもしれませんと、ちゃんと付け加えなくてはいけないでしょう。
66年前の原爆の話が今もこじれているんだ。
福島でも、また同じことが繰り返されるかもしれない。」
「政府が被害を小さく見せようとし、事実をきちんといわないから、住民の間で反目が生まれるのです。
そして住民の対立は、政府や東電にとっては都合のよいことなのです。」
「被害が出てくるのはこれからです。
66年前の原爆で、被害者がいまだに国を相手に裁判を起こしている。
これが事実です」
肥田は、今回の原発事故で日本の国土の多くが汚染されてしまったとみる。
それに対して政府は何ら有効な手を打っていない。
「66年前の原爆の放射線の影響を、政府はきちんと調べてこなかった。
だから何も知らないのです。」
「内部被曝はもうゼロにはできない。
あとは自分で健康を守る努力をすることだ。
僕たちはそうやって放射線に勝ってきた」
たばこをやめ、早寝早起きし、ご飯をよくかむ------。
そんな例を挙げながら、心構えを説く。
そして、7年前の大阪地裁での肥田の証言の結び。
「人類がこれからどうするのか議論をするときは、被爆者を大事にし、自分の理解を深める努力をすることが一番大事です。
裁判官の皆さんも、いいか悪いかとを裁くという狭い視野ではなく、大きな立場から、被爆者を見て判断願いたい」
「原爆では、米国が内部被曝をなかったことにしました。
福島が同じ軌道をたどることは絶対にあってはならないのです」
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以上が「プロメテウスの罠」に書かれている肥田さんの講演内容と発言だが、
ブログ「みんな楽しくHappyがいい♪」さんが、
「肥田舜太郎氏「放射線に負けないで生きていく方法」12月7日世界被ばく者展(動画・肥田氏の講演部分全て書き出し)」(コチラ)
を出されており、以上の文中にある肥田さんの「ナマ話」を聞くことができる。
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その他、興味あるエピソードがあるので、ついでにご紹介。
(1)東大大学院教授の小佐古敏荘
国が決めた年間20ミリシーベルトの被曝基準を「私のヒューマニズムから受け入れがたい」と涙ながらに批判し、内閣官房参与を辞めた、あの人。
この方、7年前の大阪地裁では、国側の証人であり、この証言後、
「原爆放射線による人体への影響の主なものは、初期放射線による外部被曝であり、内部被曝によるものはほとんどない」とする報告書をまとめているそうだ。
(2)東北大学大学院教授の石井慶造(福島市の放射線アドバイザー)
11月13日、飯野町での講演会。
石井は、県の測定結果などを示しながら、
「水道水も野菜も果物も、放射線量はほとんどゼロ。だから、内部被曝なんてものはないのです」。
自身の研究では、セシウムが土壌の粘土に吸着されたことから、「粘土が福島を救った」という。
そして、低線量の放射線はむしろ体に良いのだというデータを示し、「内部被曝も外部被曝も大丈夫だよということを、もっと広めて風評被害をなくし、東北に人が来るようにする必要があります」と結んだ。
(3)政府の「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」
研究者が11月から話し合いを初め、年内に報告書をまとめる予定だが、日本弁護士連合会は11月25日、そんなワーキンググループの即時中止を求める声明を出した。
低線量被曝の健康影響に否定的な見解の研究者が多すぎる、という。
(*)このワーキンググループは、
(共同主査=長瀧重信・長崎大名誉教授、前川和彦・東大名誉教授)ということで、どの山脈に連なる人々かがわかる。
(日弁連会長声明はコチラ)
京都の弁護士、尾藤廣喜は「いったい何を土台に議論しているのか」と首をひねる。
尾藤は厚生省のキャリア官僚だった。水俣病では、国が原因企業であるチッソを擁護し、患者を切り崩した。それに失望して弁護士に転身した経歴を持つ。肥田舜太郎が証言した7年前の大阪地裁の裁判で、被爆者側の弁護士だった。
「まずは被害の実態を把握しなければ始まらないでしょう。
被害者側や行政側に被害の線引きを絶対にさせてはいけない。
水俣病や薬害、原爆症の再現になる」
(4)事故当時の官房長官枝野幸男
「ただちに人体に影響はありません」を繰り返したが、11月8日、衆議院予算委員会の質疑で、その言葉について釈明。
「39回の記者会見のうち、そういったのは7回で、うち5回は食べ物、飲み物の話です」
「一般論でいったのではなく、一度か二度摂取してもただちに問題とはならないと申し上げたのです」
有馬(記事に出てくる主婦、39歳)はネットの動画サイトでこの答弁を聞いて耳を疑った。
「食べ物の話なんかじゃなかった。まったく違う」
政府は事実を過小評価する一方で「安全」を強調している。
有馬はそう考える。
それが国民の疑心と分断をつくりだしているのだ。
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