東京 江戸城東御苑(2011-12-13)
*昭和16年(1941)
12月1日
十二月初一。晴れて曖なれば牛後惣菜買ひに淺草に徃く。 興亜日の事とて人の出盛ること夥し。 灯ともし頃にかへる。 谷崎君余がために北京の人金禹民にたのみて断腸亭の三字を刻せしめたりとて玉の印顆を 贈らる。 手紙の未に先生には當今種々筆紙に悉し難き御感慨も可有之、私も何かと聞いて頂き慶事 も有之、是非そのうち拝眉云々とあり。 是日熱海氏木製の硯を郵送るせらる。 * 12月2日 十二月初二。本月より電燈メートル六割節減の由。 街上の灯も薄暗く家の内の燈火も力なげなり。 此日晴れて風なし。 〔欄外朱書〕家庭電燈節減 * 12月3日 十二月初三。晴れて曖なり。 わが生れし日なれど祝盃を挙る所もなく語るべき人も尋ね來らざれば平日の如く飯を炊き庭 を掃き土州橋に行きて薬を求め灯ともし頃に歸る。 詩も發句も歌もなし。 * 12月4日 |
十二月初四。晴。午後杵屋五叟來話。毎週木曜日は稽古休みとなせる由なり。 燈刻食事をなさむとて共に芝口に至る。 牛肉屋今朝に入るに十一月未より肉類なしとて蛤鍋を出すと云ふ。 去つて金兵衛に入る。魚類少ければ鰻の蒲焼を兼業となす由。鰹節海盬先月來品切となれ りと云。 余砂糖なくで困難の由を告げしにおかみさん蓄へ置きたる砂糖二斥(ママ)程を恵贈せられた り。謝するに言葉なし。 * 12月5日 |
・十二月初五。晴。 十二月初六。晴。正午銀座食堂に飰す。定食弐圓五拾銭に付税二割五拾銭。 晩餐参圓に付税三割九拾銭にて請取証に客の署名を請ふ。 食後日本橋に至る。 鰹節屋にては朝九時より十時頃まで鰹節を賣ると云ふ。 海苔屋葉茶屋乾物屋の店先にはいづこも買手行列をなせり。 * 12月7日 |
十二月初七。この冬は瓦斯暖爐も使用すること能はずなりたれば、火鉢あんか置火燵など 一ツつゝ物置の奥より取出され四畳半の一間にむかしめきし冬仕度漸くとゞのひ來りぬ。 此等の器具は二十餘年前或時は築地或時は新橋妓家の二階、またある時は柳橋代地の 河岸にて用ひしもの。今日偶然これを座右に見る。感慨淺からざるなり。 ながらへてまた見る火桶二十年 |
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12月8日 |
十二月八日。褥中小説浮沈第一回起草。晡下士州橋に至る。 日米開戦の号外出ず。 歸途銀座食堂にて食事中燈火管制となる。 街頭商店の灯は追々に消え行きしが電車自動車は灯は消さず、省線は如何にや。余が乗 りたる電車乗客雑沓せるが中に黄いろい聲を張上げて演舌をなすものあり。 * 12月9日 |
十二月九日。くもりて午後より雨。 開戦の号外出でゝより近鄰物静になり来訪者もなければ半日心やすく午睡することを得たり。 夜小説執筆。雨聲瀟々たり。 * 12月10日 |
十二月十日。雨歇み午後に至って空霽る。 * 12月11日 十二月十一日。晴。後に陰。 日米開戦以来世の中火の滑えたるやうに物静なり。 淺草邊の様子いかゞならむと午後に徃きて見る。六区の人出平日と變りなくオペラ館藝人 踊子の雑談亦平日の如く、不平もなく感激もなく無事平安なり。 余が如き不平家の眼より見れば淺草の人達は堯舜の民の如し。 仲店にて食料品をあがなひ昏暮れに歸る。 |
* 12月12日 |
・十二月十二日。開戦布告と共に街上電車其他到處に掲示せられし廣告文を見るに、屠れ 英米我等の敵だ進め一億火の玉だとあり。 或人戲にこれをもじりむかし米英我等の師困る億兆火の車とかきて路傍の共同便處に貼り しと云ふ。 現代人のつくる廣告文には鐡だ力だ國力だ何だかだとダの字にて調子を取るくせあり。寔 (まこと)に是駄句駄字と謂ふ可し。 晡下向嶋より玉の井を歩む。 両處とも客足平日に異らずといふ。金兵衛に飰して初更に歸る。 * 12月13日 |
十二月十三日。晴。南風吹きて暖り。昏暮土州橋に至る。夜小説執筆。 * 12月14日 十二月十四日。晴。家に在り。深更風雨 日曜日 * 12月15日 十二月十五日。雨やまず寒気漸く巌なり。昏暮金兵衛に徃きて夕飯を喫す。 * 12月16日 十二月十六日。晴。晡下散歩。淺草に至る。牛肉屋松喜にて食事をなさむとするに其後引 つゞき牛肉��肉共に品切なり。十八九日頃には��肉ぐらゐは配給せらるぺしと下足番 のはなしなり。 * 12月17日 十二月十七日。快晴の空暮れてより風烈し。 今年は淺草年の市も燈火思ふやうにならねば景気もいかゞにや。江戸時代の風習もいよい よ絶滅すべき時とはなりぬ。燈下小説執筆。 * * * 「日米開戦」の12月8日、荷風は淡々としたものである。 翌日の9日などは、来客もなく静かなので昼寝にちょうどいいという。 * 参考までに、この日、重慶の蒋介石の周囲は歓喜に溢れたという。 「軍事委員会は歓喜に溢れ、蒋もわくわくして古いオペラに旋律を歌い、その日は一日中ア ヴェ・マリアのレコードをかけ通しだった。 ・・・ それは勝利に等しかった。 日米開戦は彼等の待望していたことだった。 遂にアメリカは日本と戦端を開いたのだ。」 (ハン・スーイン「無鳥の夏」) * 「真崎甚三郎日記」12月8日は、 「大学学生ノ大集団靖国神社ニ向カッテ行進スルニ会ス。 一々熟視セシニ意気軒昂タルモノヲ殆ド認メズ。 市民ニ於テモ然リ」 * * |
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