東京 北の丸公園(2011-12-13)
*天長3年(826)
この年
・東寺の講堂が落成し、寺号を教王護国寺と改める。
東寺は、嵯峨天皇に始まる親政三代の貴顕・官人あるいは地方の帰依者たち(土豪・有力農民層)の世界観のあいだに、その影響をひろげつつあった。
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5月1日
・淳和天皇皇子恒世親王(22)、没。母は、桓武天皇皇女高志内親王
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5月8日
・渤海使が入京。鴻臚館に入る。
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5月25日
・この日付けの官符により、諸司・諸家は調庸の納入を受ける都度、綱領郡司(こうりようぐんじ)に受領証を出し、納入の督促は主計寮がまとめて行うことになる。
従来も、調庸を指定された納入先に持参した綱領郡司たちは、受領証を受け取っていたが、指定量全てを納入して初めてそれを受け取れるものであった。
綱領郡司側の要望にもとづき、この日及び承和10年(843)3月15日に官符が出される(『類聚三代格』巻18)。
これにより、諸司・諸家は、直接督促することができなくなる。
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7月24日
・左大臣藤原冬嗣(52)、没。
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9月
・上総・常陸・上野の3国を親王任国とする。
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12月3日
・最後に残されていた西海道の軍団兵士制が廃止され、律令軍団制が全廃。
この時の官符に、「兵士を一人点ずれば、一戸が滅びる」と記される。
この頃の西海道は、飢饉・疫病が続き、兵士徴発は困難を極めた。
大宰府は代わりに衛卒200人を置き、対外的な緊急事態に備え、他に主として大宰府や国府の警備に当たらせるための統領・選士を、「富饒遊手の児」(富豪の子弟)の中から選んで充て、給与も支払う事になる(『類聚三代格』巻18)。
大宰府では、選士400人を統領8人が率い、西海道の諸国島では、総計2,320人の選士を34人の統領が率いることになる。
これは全て四交代制なので、実際人数は少ない。
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天長4年(827)
・藤原高房の地方行政での功績
高房は参議藤原藤嗣(北家)の三男。
この年、美濃介として現地に赴く。
部内の安八郡の治水状況が悪く、農業用水を貯えることができず、高房は決壊した渠の堤防を修築しようとした。
土地の人々は渠の神の崇りを唱えたが、高房はその妖言を退け、「いやしくも民に利があれば、たとえ崇りのために命をおとしても恨むところはない」と言い、農民を駆使して堤を築き、水を走らせることに成功する。
また、部内の蓆田(むしろだ)郡に人心を惑乱させる巫女どもがいて、官人はそれを怖れてその土地に近づかなかった。
高房は単騎で乗り込み、その一味を捕えて厳しい刑罰をくわえ、禍根を絶つ。
彼はその後も、備後、肥後、越前の諸国の長官となって治績をあげる。
藤原氏北家につらなる参議の子でも、地方行政の場でこれだけの働きをした者がいる。
また、藤原氏の諸流の参議の子でも、高房の様に、国守を歴任してそれで終わるものが多い。
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5月2日
・延暦寺に戒壇院の設立を認める。
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5月20日
・第3の勅撰集『経国集』撰上される。
編成の命をうけたのは、嵯峨上皇の異母弟である中納言兼右近衛大将春宮(仁明)大夫良岑安世(よしみねのやすよ)。
安世は、参議式部大輔南淵弘貞・東宮学士安野文継(やすののふみつぐ)・同滋野由主(しげののさだぬし)・中務大輔安倍吉人(あべのよしひと)らを編集のスタッフとした。
大学頭(かみ)兼文章博士菅原清公もこれに関わる。
慶雲4年(707)~天長4年(827)の作品を集める。
内容は、賦(ふ、漢文の一形式。多くは対をなし、句末に韻をふむ美文)17首・詩917首・序51首・対策(官人登用試験の答案)38首が収載され、作者は178人に及ぶ。
3勅撰集全てが嵯峨の発議により、彼をとりまく文筆をよくする官僚の手で編成される。
前の2詩集は全内容が伝わっているが、『経国集』は、全20巻のうち、巻1の賦と巻10・11・13の楽府・雑泳と巻20の対策の5巻だけが現存、3/4は散逸。
『経国集』の異彩、有智子(うちこ)内親王(嵯峨上皇の第9皇女):
嵯峨には50人余の子どもがあり、常(ときわ)・弘(ひろむ)、融(とおる)など才ある者が多く、有智子(うちこ)もその一人。
生母は帰化した百済王系の女王。
弘仁元年(810)、初代の斎院(さいいん、賀茂神社に奉仕する未婚の皇女または女王)に指名され、賀茂神に奉仕する身となる。
はやくから「史漢」(「史記」「漢書」)に親しみ文章にも秀でていた。
弘仁14年(823)2月、有智子17歳のとき、2ヶ月後に退位する嵯峨が斎院を訪ね、花(桜)の宴を催した際、嵯峨は文人たちに、春日山庄という詩題を出してその才を競わせた。
有智子はただちに筆をとって、仙輿(天皇の御車)がひっそりとした山庄(斎院)を訪れるや、にわかにあたりの風物がよみがえるさまを描いて、父嵯峨天皇を迎えるよろこびを表現した。
嵯峨はこの一篇を嘆賞し、三品(親王の爵位の第三位)を授けるとともに封100戸を給し、七絶の詩を与えた。
その後、有智子は、天長8年(831)に斎院をやめ、嵯峨西庄での閑雅な生活に入り、承和14年(847)41歳で没する。
『文華秀麗集』にも宮廷の女人の作が収められており、これらの女性は、その後11世紀の紫式部、清少納言らの先駆者である。
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7月12日
・大地震。以後8月3日まで余震が続く。
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8月
・皇太子正良と妃藤原順子(じゆんし、冬嗣の女。五条の后)との間に、道康(みちやす)親王(後の文徳天皇)が誕生。
淳和天皇は、これに対応するかのように、この年、恒貞親王の母正子内親王(正子内親王は嵯峨天皇と橘嘉智子との間に生まれた娘)を皇后に立てる。
恒世親王を失った淳和天皇が、自分の子孫を皇位につけるべく、皇太子正良と並ぶだけの正統性を恒貞親王に与えるためと考えられる。
嵯峨上皇・皇太子正良と淳和天皇との間の神経戦。
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10月
・この月に催された紫宸殿における酒宴の様子。
群臣は酔舞し、淳和天皇は得意の琴を弾じて歌う。
そのあと、人々は花葉の簪(かんざし)をおくられて頭にかざして即興の歌を詠む。
夕方、右近衛の舎人が楽を奏し、宴の終わりに天皇は群臣に衣服を与える。
酒宴は年中行事だけでなく、臨時に機会あるごとにたびたび開かれる。
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