2011年12月5日月曜日

弘仁13年(822) 最澄(56歳)没 最澄宿願の大乗戒壇設立許可

東京 江戸城東御苑 二の丸雑木林(2011-11-24)
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弘仁13年(822)
・この頃、外記政が始まる。
議政官が日常的に内裏に伺候するようになると、弁官は、太政官曹司庁よりもさらに内裏に近い太政官候庁(外記庁ともいい、もともとは外記の詰め所)で、諸司・諸国からの上申事案を受け付け、議政官に取り次ぐようになった。
これを外記政という。
公卿聴政の略儀として、この年に成立したとする見解もあり、さらに遡らせる見解もある。

外記は、太政官の一員として文書行政に携わる傍ら、職務として日記(『外記日記』)を付け、文書を保管したから、先例が重視されるようになると、先例を調べるのに外記庁が便利になったために、官政の略儀として、政務の場がここに移ったと考えられる。
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・この頃、『日本霊異記』成立。
下巻39話に「この天皇は、弘仁の年号を出して世に伝え、殺すべき人を流罪となし、その命を活かし、もちて人を治む」とあるように、嵯峨天皇の時代に死刑が廃止されたという伝説がある。
薬子の変の際に仲成が射殺された以外は最高刑でも流罪で処理されている。

しかし、嵯峨朝以前にも、天皇に対する反逆罪以外の犯罪者を、律令の規定する裁判を行った上で天皇が命じて死刑に処した例はない。
既に獄舎に囚われている人間について、死刑の判決文が奏上されたら、天皇は死一等を減じて流刑にするのが普通であった。

律令制の施行当初から、天皇には死刑執行命令という凶事に直接手を染めさせないように配慮したのではないかとも考えられる。
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2月21日
・この日付け太政官符により、空海(49)は、南都でただ一つ戒壇を抱える東大寺に灌頂(かんじよう)道場(東大寺真言院)を設立することに成功。
官符には「国家のために灌頂道場を建立し、夏中および三長斎月に息災、増益の法を修し、もって国家を鎮ましむべし」とある。

ここに真言宗は、南都の教学と表裏の関係で国家護持を図る立場を確立した。
また南都自体も密教を取り込むことによって、護国の効験をたかめ、同時に独自の戒壇設立を要求する天台宗との対立にあって、真言宗との同盟関係を結ぶことができた。
翌年には、空海は嵯峨天皇から東寺(教王護国寺)を下賜され、これを真言宗の専用の道場とする。
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4月
・病床の最澄、弟子たちにに遺言を与える。
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6月4日
最澄(56歳)、没
没後7日目(6月11日)、嵯峨天皇は最澄宿願の大乗戒壇設立を許可
翌弘仁14年(823)、比叡山寺は寺号を延暦寺と改め、その勅額を受ける。

この陰には、弘仁4年(813)に興福寺で行われた法論を見守って以来、最澄の運動に理解を示していた藤原冬嗣の尽力があったが、さらにその背景には、弘仁年間の災害・飢饉の頻発という世相があった。
山林での厳格な修行を得度後12年課し、そうして得た法力のみが、現世の汚辱を救い、仏国土を招来できるという、まさに鎮護国家の論理を前面に押し立てて、大乗戒壇の設立はようやく実現した。
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12月
・国司が選んだ候補者を3年間にわたって試用する擬任(ぎにん)郡司制が定められる。

郡司の任命方法のこうした変化は、より広い氏族から郡司を採用することを可能にし、国司の意見が郡司の任命に強く反映されるようになったことを意味する。
国司の郡司に対する支配権は強まり、逆にそれまで伝続的に郡司を輩出していた氏族は、弱体化した。

こうして受領国司は、郡司の伝統的権威を必要とせず、直接在地に対して力を及ぼすことが可能となった。
反面、郡司は共同体の族長的側面を捨てざるを得なくなり、それまでの地域社会での伝統的権力をしだいに失うことになる。
その結果、郡司は、受領のもとで文書を作成したり、徴税を行うといった、国司の手足へと変化していった。
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