東京 江戸城東御苑 二の丸雑木林(2011-11-30)
*弘仁14年(823)
この年
・藤原冬嗣(北家)の子良房に、嵯峨天皇の皇女源潔姫(みなもとのきよひめ)を迎える。
*
・唐、科挙出身の牛僧孺が宰相となり、門閥出身の李徳裕らとの抗争激化する(牛李の党争)。
*
1月
・嵯峨天皇、空海に東寺(教王護国寺)を与える。金剛峯寺とともに真言宗の中心的寺院になる。
東寺は、桓武天皇が建立し、この頃も造営を続けている平安京内の官寺。
嵯峨は、先に空海のライバル最澄の死に際して大乗戒壇設立を許可し天台法華宗の自立を保証しており、これとのバランス見合いで空海に対しても手厚い恩寵を与えたと思われる。
空海は、東寺を平安京における密教宣揚の最大の機関にしようと考え、真言の徒の指針として『三学録』を起草。
東寺には僧50人をおくが、空海の要請により、他宗の者の雑住は禁止される。
空海は、唐に留学中に、青竜寺の唐の朝廷ないし長安城に対する関係を十分に観察していて、東寺と朝廷ないし平安京に対する密教の根本道場としての位置と役割を付与しようとした。
空海は、弟子と共に寺院内部の密教化に着手する。
空海は、唐において、著名の画家李真(りしん)に依嘱して、その師恵果そのほか真言五祖の画像五幅を描かせて持ち帰っていた。
他にも幾種かの曼荼羅、密教関係の諸仏の図像、彫刻仏などを請来していたと考えられる。
それらは、密教弘布のために大きな効用性を持ち、また仏教美術の世界に新様式を導入し、清新な技法への道を拓いた。
*
2月21日
・小野岑守(みねもり)の奏上により、大宰府管内の公営田(くえいでん)制が始まる。
公営田
大宰府管内の口分田6万5,677町から5,894町、乗田(じようでん、口分田などを班給して残った公田)1万910町から6,201町の、合計1万2,095町の良田を割き取り、そこを官が直接経営するもの。
公営田の耕作は徭丁(ようちよう、徭として徴発する農民)6万257人に行わせる。
これらの徭丁は5人で1町を受け持つ。
村里から有力農民を選び、それを正長として、これに1町以上を割り当て、公営田に関する事は全て委任する。
種稲などは官が用意し、徭丁には民間の慣行に準じて功(労賃)と食料を給す。
国府は、その全収穫によって徭丁の租・調・庸のほか、功・食料を清算し、溝池官舎修理料を支出した。そしてその残額を国府の収入とする。
中央政府は公営田について4年間の試行ということにしたが、成績を収めたため、その期限が大幅に延長される。
弘仁年間、特に大宰府管内では飢饉によって、大量の死亡者口分田が発生した。
公営田はこの事態をうけて臨時に4年間だけ試行的に実施されたという見解が最近では有力。
小野岑守:
弘仁13年、参議となる。征夷副将軍永見の三男。
畿内観察使の判官(じよう)、東宮(高岳親王)の亮、陸奥・阿波・近江国守を歴任し、参議となってから大宰大弐を兼任。
大宰府管下の行政を担っていた期間、行旅人(役民を含む)のために続命院という救助の施設を設置。彼の建策による公営田は、太政官の議を経て管下の9国で実施された。
岑守は、課役の民が貧窮に陥り、調庸を収める力をなくし逃亡するという状況を見て、公営田の方式を案出した。
目的は、調・庸・土地税の確保。
*
3月
・加賀国を置く。
*
4月
・延暦寺で初めて授戒。
*
4月16日
・嵯峨天皇(38歳)譲位。皇太子大伴(嵯峨の異母弟)が践祚。
嵯峨は晩年、退位の際の心境を追想。
「無位無号にして山水に詣でて逍遥し、無事無為にして琴書(きんしよ)を翫(もてあそ)びて以て澹泊(たんぱく)ならんと思欲(ほつ)す。‥…・」と述べる。
嵯峨の内面に根ざす文雅へのやみがたい志向である。
退位後、かれは風流自適のうちにすごす。
上皇としての初期には第三の勅撰集を企てる。
嵯峨は離宮・冷然院に移り、右大臣藤原冬嗣に退位を伝える。
冬嗣は、いま世上は連年の不作に苦しんでいる、一天皇二上皇の負担に堪えがたいということもある、として反対する。
嵯峨はその諌言にもかかわらず、皇太弟に皇位を譲る。
*
4月27日
・淳和天皇、即位。
淳和は、無事に皇位につけてもらったのと交換に、あらかじめ18日には正良(まさよし)親王(後の仁明天皇)を皇太子に立てる。
藤原帯子を贈太皇太后、橘嘉智子を皇太后とする。
淳和の生母の藤原旅子(たびこ)に皇太后を贈る。
淳和自身も桓武天皇の嫡妻の子であることを表明した。
さらに、高志(こし)内親王に、皇后を追贈。
高志は、平城・嵯峨両天皇と同じく桓武と藤原乙牟漏との間に生まれ、若い頃の大伴親王に嫁し、延暦24年(805)に恒世(つねよ)親王を生み、大同4年(809)、21歳で没した。
このことは、恒世親王に対して、天皇と皇后との間に生まれたという正統性を付与することになる。
皇太子正良親王も天皇と皇后との間に生まれているので、両方が正統性という意味で桔抗することになる。
淳和は、即位にあたり恒世親王の立太子を望んだが、恒世はこれを辞退し、正良親王の立太子が決まる。
辞退したことは、淳和が嵯峨に対し恭順の意を表したことではあるが、高志内親王への皇后追贈は、この時点で淳和が、自分が正良に譲位した後の皇太子として、恒世が立てられるよう環境を整えたとみることもできる。
しかし、その恒世親王は、天長3年、22歳で没する。
その前年、淳和は正子内親王との間に恒貞(つねさだ)親王を儲けており、淳和はこの恒貞に期待をかける。
母は、嵯峨の娘正子内親王で申し分はない。生年が天長2年なので年齢での問題があり、のちに恒貞の人生に暗い影を落とすことになる。
しかし、淳和は、正子を皇后につけ、恒貞の地位を確立しようとした。
*
4月27日
・譲位した嵯峨は、「万機の務、賢嗣に伝え、八柄の権、復た知る所にあらず」(『類聚国史』巻25弘仁14年4月27日条)として、冷然院に移り、後には嵯峨院(京都市右京区大覚寺付近)を住処とし、政務には関与しない立場を鮮明にした。
奈良時代の上皇は内裏の中に宮室を設け、天皇との関係が曖昧になりがちであるという状態を払拭しようとした。
従って、平城上皇が「二所の朝廷」といわれるような弟嵯峨天皇と対立したのに対し、嵯峨上皇と淳和天皇との関係は協調的であった。
嵯峨天皇の時に整備された太上天皇制は、次の弟の淳和天皇にも引き継がれる。
その後は、仁明・文徳と現役の没し、清和・陽成が太上天皇となる。
*
5月5日
・甲斐に移配蝦夷の賊首、吉弥侯部井出麿ら13人、伊豆国に配流。反乱のためか?
*
*
0 件のコメント:
コメントを投稿