2011年12月4日日曜日

弘仁10年(819)~弘仁12年(821) 最澄、『顕戒論』を起草。 空海、讃岐国満濃池を修築

東京 江戸城東御苑 二の丸雑木林(2011-11-30)
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弘仁10年(819)
・この年に、嵯峨天皇は詔書を下して積極的に唐風化を進め、菅原清公(きよきみ)はその画策に参与した。
この制法によって、天下の儀式、男女の衣服はみな唐法によることになり、五位以上の位記も唐様に改められた。
また、諸宮殿・院堂・門閣には唐風の新額が掲げられた。
7世紀以来の唐風の模倣は、律令の諸制度・宗教と学問から、こういう末端にまで及ぶ。
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・この年、嵯峨天皇は、藤原冬嗣・緒嗣らに「日本後紀」選修を命じる。
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・空海(46)、高野山の伽藍建立に着手し、始めに明神社を建立。
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5月
・この月、最澄は6条からなる天台法華宗年分学生式(がくしようしき)を作り、彼らの山上での修道について規定した。
東大寺戒壇から彼らを自由にして天台の徒たらしめるには、比叡山寺に大乗円頓戒壇を開立しなくてはならない。
最澄は、朝廷に表を差し出し許可を求めた。

嵯峨天皇はこの問題について僧綱の意見を徴した。
諸大寺の僧たちは、僧綱らと共にそれぞれ上表して最澄の企図に反対した。
最澄はそれらに反駁を加え、天台の主張を一層明らかにするために、『顕戒論(けんかいろん)』を起草して、弘仁11年(820)2月、これを朝廷に提出。
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6月16日
・唐の越州の周光翰、新羅船に乗って来着。
唐の消息を尋ね最新の唐情報を得る(『日本紀略』弘仁10年6月16日条)。
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弘仁11年(820)
・この年、嵯峨天皇の信任を背景に、藤原北家の冬嗣(内麻呂の次男)が台閣の首班となる。
翌年冬嗣は、藤原氏の子弟のために勧学院を創設して、自らのイニシアチブのもと、新しい氏結合の論理と場を模索し始める。
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・この年、空海は東国に布教。
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・この年、唐の憲宗、宦官に毒殺される。
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2月
・最澄、『顕戒論(けんかいろん)』を起草して朝廷に提出。
最澄は健康をそこなっていたため、弟子光定(こうじよう)は、大乗戒壇の実現のために、右人臣藤原冬嗣・中納言良岑安世(よしみねのやすよ)・参議藤原三守(みもり)・大伴国道(くにみち)らを説いてまわる。
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・遠江・駿河の新羅人700人が反乱。
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2月2日
・即位式や朝賀での天皇の服装が、中国風のきらびやかな礼服(らいふく)・礼冠(らいかん)に身を包むことが定められる。
また、「大小の諸神事、および季冬の諸陵への奉幣には、すなわち帛衣を用う」と、神事など特定の場合にのみ伝統的な(はくい)と言われる白一色の装束を着けることとされる(『日本紀略」同年2月2日条)。

これは、翌年に編纂された『内裏式』の元正受群臣朝賀式に盛り込まれ、それ以後の定制となる。

即位式や朝賀での天皇の服装は、もともと帛衣だったが、聖武朝の天平4年(732)元日の朝賀あたりから変わり始めていた。

対外的な儀式の際は、天皇から皇帝に転成した一方、神事の際には、ヤマト王権以来の神、もしくは神を祀る司祭者「オオキミ」として、存在し続けた。
唐風化を指向しつつも旧来の古い体質も保存していた。
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4月
・「弘仁格」を施行。
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6月11日
・因幡に移配の俘囚、吉弥侯部欠奈閇ら6人、百姓の牛馬を盗んだことにより土佐に配流。
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10月20日
・空海(47)、伝燈大法師位を授けられる。
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弘仁12年(821)
・藤原冬嗣(北家の内麻呂の次男)が勧学院(藤原氏の教育機関)を創建
目的は、官人として仕えるための教育を受けさせること、そして氏人のうち、身よりのない者を救うことにあった。
承和3(836)年には、藤原氏の議政官全員が、経済的に困窮した勧学院を支援するようになり、以後、大臣以上に昇進した人物は、経済的な支援を行うことが慣例化した。
このことは、勧学院が藤原北家・南家・式家・京家などに分裂していた藤原氏を結束させる機能を持っていたことを明確に示している。

このような施設は、大学別曹(べつそう)と呼ばれ、他にも和気氏の弘文院、橘氏の学館院、在原氏の奨学院などもつくられた。

冬嗣は、嵯峨らの信任をえて弘仁12年(821)~天長2年(825)右大臣、翌年の没まで左大臣として台閣の首班であった。
彼は、嵯峨の大御所的なゆきかたにならい、氏族としての藤原氏を纏めることに心をくだいたようである。
施薬院・勧学院の設立、氏寺の興福寺内への南円堂の建立も、一族の昌栄をねがうところに発していた。

後嗣良房のために嵯峨の皇女潔姫(源朝臣)をもらいうけ、冬嗣は閨閥的な関係で、嵯峨の大家父長的グループにくい入っていた。
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・この年、空海は、政府と郷党の人々の要請に応じて、讃岐国満濃(まんのう)池の修築のために活動。これらの行業(こうぎよう)によって、かれの声望はとみにたかまる。
一方、最澄による大乗戒壇創設の問題はまだ未決のままで、比叡山寺の老師と弟子らは、憂悶に閉ざされている。
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1月
・嵯峨天皇の命により、藤原冬嗣ら「内裏式」3巻を撰上。
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5月27日
・讃岐国の国司より朝廷に満濃池修築の別当に「百姓の恋慕する父母の如き」空海をあてるよう上申。
弘仁9年(818)に決壊し復旧がままならなかった満濃池の修築をわずか3ヶ月ほどで終える。
修築が短期間で成功したのは、工事に参加した民衆から慕われる空海の人望(宗教者として有名になった当地の郡司の子でもある)、空海本人の土木工事の知識、あるいは渡来系技術者集団との交流があって高度な技術と知識を存分に利用できる立場にあった、ことなどが理由としてあげられている。

7月23日
朝廷より空海に新銭2万を与えられる。満濃池修築に対するものであったかは不明。
この7月、勅命により中務省に勤務。
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