2024年10月14日月曜日

寛弘8年(1011) 藤原為時(紫式部の父)は越後守に任官。藤原惟規(紫式部の弟)、越後で急逝。一条天皇(32歳)病歿。 三条天皇(36歳)即位。敦成親王が立太子。

東京 江戸城(皇居)東御苑
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寛弘8年(1011)
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1月5日
藤原惟規(紫式部の弟)、従五位下に叙位され、貴族の仲間入りを果たす。
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2月1日
藤原為時(紫式部の父)は越後守に任官した。越後国は遠方ではあったが「上国」にランクされる国であり、海上交通の要衝として栄えていた。そのせいか歴代の越後守には坂上田村麻呂、藤原成親、木曾義仲、新田義貞など歴史上の大物の名が並んでいる。
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春頃
藤原惟規(紫式部の弟)、父為時の任地の越後で急逝、満37歳。
彼の辞世の歌 「みやこには恋しき人の多かれば なほこのたびはいかむとぞ思ふ」 は秀歌として評価され、後拾遺和歌集に収録された。
また、惟規の玄孫・藤原邦綱は平清盛の側近として活躍、その娘・輔子は清盛の五男・平重衡の妻となっている。
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5月下旬
・一条天皇(32歳)発病
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6月13日
・一条天皇(32歳)が譲位し出家。
居貞(いやさだ)親王(36歳、三条天皇)が受禅、敦成親王が立太子する

皇太子に彰子が生んだ一条天皇の第二皇子敦成親王が立ったというは、敦成の外祖父にあたる道長にとって、即位の折には摂政となることが確定したことを示す。
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6月21日
・一条天皇の病は既に絶望の状態。
2日前、重体のために天皇は剃髪を済ませる。
この日夜10時頃、侍臣や僧侶が粛然と見守るなか、中宮彰子が見舞に参上。凡帳の下に寄ったのを知った天皇は、しばらく起きなおり、遺詠を口ずさむ。

露の身の草のやどりに君をおきて 塵をいでぬる事ぞかなしき (『御堂関白記』)

翌22日午前8時、殆ど臨終と思われるに至るが、その後一旦持ち直すかに見えたが、正午頃歿する。

一条天皇と道長
道長が天皇の手習いの反故紙などが入っていた手箱を開けると、その反故の中に、
「叢蘭欲茂秋風吹破、王事欲章讒臣乱国」(叢蘭(そうらん)茂らんと欲して秋風吹き破り、王事章(あき)らかならんと欲して讒臣(ざんしん)国を乱(みだ)る」
と書いたものがあった。
これは、『帝範(ていはん)』にある文章に少し変更を加えたもので、せっかく蘭が美しく茂ろうという時に、秋風が吹いてこれをめちゃめちゃにしてしまうように、国王が正しい政治をしようとすると、よこしまな臣が邪魔してぶち壊す、という意味。
『帝範』は、唐の太宗の作った、帝王にたいする訓戒を記した本で、平安時代初めから、帝王学の教科書として用いられていた。

道長は、「讒臣」は自分のことと思い、その紙を破り棄てたという。
この話は、道長の威勢に抑えられて、手も足も出せなかった一条天皇が、手習いのおりに心中の不満を帝範の文句に託して書いたもので、一条天皇の世に、道長の勢力の強大さを示す話としてよく使われる。

道長の勢力は大きく、一条天皇も勝手な振る舞いはできなかったが、この話だけから、一条天皇と道長との関係を捉えられない。
道長は一条天皇の時、15年間、左大臣であったが、その間、天皇は道長を第一の臣として尊重していたが、決してロボットではなかった。
道長も威勢を示しながらも天皇の外叔父としてよく後見し、天皇の意向を尊重した。
天皇と道長とは、けっして不穏な関係にはなかった。

関白になれなかった道長
一条天皇は英明の主といわれ、詩歌管絃にも長じ、笛の名手であったという。
思いやり深く、情におぼれて無茶に陥ることもなく、節度を守り、ほどのよさを心得た天皇であった。学問にも関心は深く、道長や行成との間にも、和漢の書籍や仏典のやりとりがあったと記録に見える。
この天皇は、政治的にも延喜・天暦の世にならう気持があったと思われ、第一の臣下で外叔父である道長を関白とせず、終始左大臣として遇したこともそのあらわれと考えられる。

長徳元年(995)、関白道兼の没後、天皇は後任を決するのを渋った。
この時、既に天皇は関白を置きたくない気持があったと思われる。
結局、生母東三条院詮子の勧めがあって、道長に内覧の宣旨が下ったが、関白ではなかった。
当時一般には関白の宣旨が下ると考えられていたことが実資の日記にも見えるが、ついに関白は置かれなかった。
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8月
・道長、内覧となる

三条天皇と藤原道長
三条天皇の治世となり、道長は引き続いて内覧の左大臣であった。
一条天皇の時代と比べて大きな変動はないように見えるが、実際は、以後4年半は、天皇にとっても道長にとっても、極めて不愉快な時期だった。

三条天皇は冷泉天皇の皇子で、母は道長の姉超子。
一条天皇も母はやはり道長の姉の詮子。
従って、道長は両天皇の外叔父にあたり、血縁では差はないけれども、実際には道長は一条天皇とはうまくいっても、三条天皇とは初めから駄目だったらしい。
また、三条の母超子は若いうちに(天元5年(982))没し、一条の場合の詮子のように道長と三条との間の調整役にはなれなかった。

三条天皇は既に36歳(一条天皇より4歳年長)であり、道長に対抗する振る舞い多かった。
一方の道長は、孫の一条皇子の敦成(あつひら)親王を新東宮として、早く後一条天皇即位を望んだこともあり、両者の間には軋轢が多かった。

8月23日、三条天皇から蔵人頭を通じて関白に任じたいと言ってきたが、道長は「前々この仰せ有り、しかるに不能の由を申す」と答えた。
また、天皇と対面の後、度々関白の仰せがあったが今年は重く慎むべきであるので辞退したと『御堂関白記』に記している。
その結果、「上下の文書触れ示すの後奏聞すべき宣旨」(内覧宣旨)が下った。

つまり、後に不仲になる三条天皇が、道長に関白就任を求め、道長は自らの意思でこれを断っている。

この20日ほど前、一条院追悼の念仏の座で、道長と内大臣公季と実資とで、貞信公忠平が太政大臣についたのは、醍醐天皇が臨終の直後だったか朱雀天皇の後だったかで、「清談(せいだん)」していて、左府(左大臣=道長)の気色は「太(はなは)だ温和で、和して不快なし」だった、と実資が記している。

内覧と関白
内覧は、「太政官申す所の文書」をまず道長に触れよという宣旨と「宮中の雑事」を行なえという宣旨からなる。
太政官内の雑事の掌握と太政官から奏上する文書の内覧からなり、文書と機構を把握して太政官政務を掌握したのである。
このことは関白の主要機能であり、これに拒否権が加わるのが関白だといわれており、この点では関白と差はない。
内覧すべき文書の範囲は、「奏聞を経るの文を以て内覧を経べし」とのべられていて、太政官から天皇に奏上すべき文書すべてを対象としたようだが、蔵人所から奏上する文書については制度上は対象とならないらしい(ただし道長など一上は蔵人所別当を多く兼ねていた)。
内覧も関白も摂政も、太政官の統轄が中心となる権能だった。

関白にならない違いは・・・
それは左大臣にとどまり政務を行なったこと、左大臣を筆頭の上卿の意で一上と呼ぶが、一上の事(一上の政務)を手放さなかったことにあったと思われる。

一上は、太政官の諸公事を執行する職能であり、通例筆頭公卿の左大臣である(欠であれば右大臣以下になる)。
ただし当日、一上が都合が悪く欠席すれば、右大臣以下の出席公卿の上首が臨時に行なうので、一上道長のもとでも右大臣顕光や内大臣公李がさまざまな公事を主催した。
しかし左大臣が関白になると、右大臣が一上となり、関白は一上の職能を行なわないようになる。つまり関白は陣定など公卿議定には加わらないのが慣行となっていき、兼家が大臣を辞して摂関を独立の官としてからは、それが明確になった。また太政大臣も一上の事を行なわない。

それに対し、道長は、寛弘2年の諸国申請雑事定や長和の元号定にみえたように、みずから一上左大臣として陣定を主催、出席し、大臣以下の公卿を統轄した。

結局、藤原道長は、内覧となった長徳元年(995)から長和五年(1016)までの21年間、筆頭の右大臣、そして左大臣の地位にあり一上の地位にあった。
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8月
・この月、三条天皇大嘗会の悠紀(ゆき)・主基(すき)にあたる近江・丹波国から、大嘗会役を神寺王臣家庄を論ぜずに賦課したいという申請がみえる。
一国平均役の申請の早い事例。
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10月
・居貞親王(三条天皇)が即位。
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10月24日
・冷泉上皇、没。
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11月
・この月、上東門大路南、陽明門大路北、帯刀町(油小路)東、洞院西大路南(「洞院東大路西」の誤りか)で火事が起こり、「七百余家」が焼失した(『日本紀略』)。
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12月
・8日、9日の両夜、道長邸から膳所の銀の提戸(ひさげ)や衣裳が盗まれた。
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