東京 江戸城(皇居)東御苑
*寛弘8年(1011)
*
1月5日
藤原惟規(紫式部の弟)、従五位下に叙位され、貴族の仲間入りを果たす。
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2月1日
藤原為時(紫式部の父)は越後守に任官した。越後国は遠方ではあったが「上国」にランクされる国であり、海上交通の要衝として栄えていた。そのせいか歴代の越後守には坂上田村麻呂、藤原成親、木曾義仲、新田義貞など歴史上の大物の名が並んでいる。
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春頃
藤原惟規(紫式部の弟)、父為時の任地の越後で急逝、満37歳。
彼の辞世の歌
「みやこには恋しき人の多かれば なほこのたびはいかむとぞ思ふ」
は秀歌として評価され、後拾遺和歌集に収録された。
また、惟規の玄孫・藤原邦綱は平清盛の側近として活躍、その娘・輔子は清盛の五男・平重衡の妻となっている。
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5月22日
「殿上間(てんじょうのま)に伺候(しこう)していたけれども、(一条)天皇は中宮(藤原彰子)の御在所に渡御されているということであったので、退出した。」(『権記』寛弘8年(1011)5月22日条)
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5月下旬
・一条天皇(32歳)発病
・一条天皇(32歳)発病
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5月23日
「主上(一条天皇)は、この何日か、尋常ではいらっしゃらなかった。今、頗(すこぶ)る重く病みなされた。そこで内裏(だいり)に参上した。」(『御堂関白記』寛弘8年(1011)5月23日条)
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5月25日
5月22日に一条帝が病に倒れたのを受けて、同月25日、道長は赤染衛門の夫・大江匡衡に命じて譲位についての易筮(算木による易占い)をさせたところ「帝の崩御」という卦が出た。卦の内容と道長が自身の譲位の準備にかかっている事を知った一条帝は、ショックを受け病状が悪化してしまったという。
「内裏(だいり)から退出した。土御門第の法華三十講の結願であった。講が終わって、また内裏に参った。女方(にょうぼう/源倫子)も同行した。(大江)匡衡朝臣(あそん)を召して、易占(えきせん)を奉仕させた。」(『御堂関白記』寛弘8年(1011)5月25日条)
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5月27日
「(一条)天皇は、私を遣わして、東宮(居貞親王)と御対面なされるということをお伝えになられた。これは御譲位に関する事であろうか。東宮が内裏(だいり)に参られる際の御室礼(しつらい)について、すぐに承って奉仕させた。」(『御堂関白記』寛弘8年(1011)5月27日条)
一条帝としては、最も信任厚き側近である行成が敦康親王の立太子を進言してくれる事を期待していたが、行成にその事を反対された挙句徹底的な理詰めで敦成親王の立太子を進言され、気骨も意地も砕けてしまった。この日以降、一条帝の容態は急速に悪化していった
「(一条)天皇から召しが有った。御前に伺候した。おっしゃって云(い)ったことには、「譲位するということは、決定がすでに行われた。一親王(いちのみこ/敦康親王)については、如何(いかが)すべきであろうか」と。」
「すぐに奏上して云ったことには、「この皇子(敦康親王)の事について、思い嘆かれるところは、もっとも当然のことです。そもそも忠仁公(ちゅうじんこう/藤原良房)は、寛大の長者でした。」
「昔、水尾天皇(みずのおてんのう/清和天皇)は文徳天皇の第四皇子でした。文徳天皇は、愛姫(あいき)紀氏(紀静子)の産んだ第一皇子(惟喬親王)を、その母への愛情によって、また優寵(ゆうちょう)されていました。」
「帝(文徳天皇)は正嫡であるというので、惟喬親王に皇統を嗣がせようという志が有りました。ところが第四皇子(惟仁親王)は、外祖父の忠仁公(藤原良房)が朝家の重臣であるという理由で、遂に皇太子となることができたのです。」
「今、左大臣(藤原道長)はまた、現在の重臣外戚、その人であります。外孫である第二皇子(敦成親王)を定めて儲宮(もうけのみや)としようと思われるのは、最も当然のことです。」
「今、聖上(一条天皇)は、正嫡であることによって第一皇子(敦康親王)を儲宮としようと思われたとしても、丞相(藤原道長)は未だ必ずしもすぐには承引しません。現に御病悩されたならば、時代はたちまち変事がもしかしたら嗷々とするでしょう。」
「このような大事は、ただ宗廟社稷の神に任せて、あえて人力の及ぶところではないものです。・・・今、皇子(敦康親王)の為に怖れるところがないわけではありません。能く伊勢大神宮に祈り謝られるべきです。」
「それでもなお愛憐(あいれん)の御意向がお有りになるのでしたら、年官・年爵および年給の受領(ずりょう)の吏を賜い、一、二人の宮臣(きゅうしん)に恪勤(かくご)の便宜を得させれば、これが上策でしょう」ということだ。」
「すぐに(一条)天皇が重ねて勅して云(い)われたことには、「汝(なれ/藤原行成)は、このことを左大臣(藤原道長)に伝えるか、如何か」と。」
「すぐに奏上して云(い)ったことには、「あれこれ、仰せに随(したが)います。ただし、このような事は、御意向の趣旨を直接、仰せ事として賜るべきでしょうか」と。そこで天許(てんきょ)が有った。」
「(大江)匡衡朝臣(あそん)が易筮(えきぜい)に云(い)ったことには、「豊の明夷(めいい)、豊卦(ほうけ)は不快である」と云うことだ。」
「占った者が伝えて云ったことには、「この卦(け)は、延喜(醍醐天皇)と天暦(村上天皇)が、御病脳が終わった際(崩御)に、共に遇(あ)ったものです。それのみならず、今年は移変(いへん)の年に当たります。・・・」
「・・・特に慎まれなければならないということを、去年の春、奏上したところです」と云うことだ。「これらの結果を左大臣(藤原道長)は覚悟して、二間において権僧正(慶円)と占文を見、共に涕泣してしまった。・・・」
「・・・その時、上(一条天皇)は夜大殿(よるのおとど)の内にいらっしゃり、御几帳の帷の継ぎ目からこの事を御覧になって、疑い思われる事が有った<『御病悩が重くなって、崩御が有るだろう』という趣旨である>。・・・」
「・・・それで御病悩は、ますます重くなってしまわれた。その時に、この譲位の議が起こった」と云(い)うことだ。」
「後に聞いたところによると、「后宮(きさいのみや/藤原彰子)は、丞相(藤原道長)を怨(うら)み奉(たてまつ)られた」と云(い)うことだ。」
(『権記』寛弘8年(1011)5月27日条)
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6月2日
「一条天皇と東宮(居貞親王)の御対面が有った。これは御譲位についてである。巳剋(午前9時~午前11時ごろ)に、東宮が渡御された。御対面の儀の際は、清涼殿南廂の御東障子の許に御茵一枚を敷いて、東宮がお座りになられた。」
「(一条)天皇が出御なされ直ちに譲位を仰せになられた。「私の次には東宮(居貞親王)がおられるでしょう」と仰せになられたということだ。私は天皇の御前に参った。次に天皇がおっしゃって云われるには「東宮はお聞き入れになった」と。」
「また(一条天皇が)おっしゃって云われたことには、「敦康親王の処遇について、あの宮(居貞親王)から申し出て欲しい欲しいと思っておったのであるが、東宮が早く退出されたので聞くことができなかったのである。・・・」と。」
(『御堂関白記』寛弘8年(1011)6月2日条)
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6月13日
・一条天皇(32歳)が譲位し出家。
居貞(いやさだ)親王(36歳、三条天皇)が受禅、敦成親王が立太子する
皇太子に彰子が生んだ一条天皇の第二皇子敦成親王が立ったというは、敦成の外祖父にあたる道長にとって、即位の折には摂政となることが確定したことを示す。
6月13日
・一条天皇(32歳)が譲位し出家。
居貞(いやさだ)親王(36歳、三条天皇)が受禅、敦成親王が立太子する
皇太子に彰子が生んだ一条天皇の第二皇子敦成親王が立ったというは、敦成の外祖父にあたる道長にとって、即位の折には摂政となることが確定したことを示す。
「この日、旧主(一条天皇)は、御病悩が極めて重かった。そこで旧主は、譲位の儀に際しての様々な事を行うことができなかった。私は、旧主の御前に伺候していた。戌剋の頃は、旧主の御病悩は頗る宜しくいらっしゃった。」
「東宮(敦成親王)の御在所に参って、慶賀を啓上した。拝礼(はいらい)が有った。皆、靴を着していた。」
(『御堂関白記』寛弘8年(1011)6月13日条)
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6月21日
・一条天皇の病は既に絶望の状態。
2日前、重体のために天皇は剃髪を済ませる。
この日夜10時頃、侍臣や僧侶が粛然と見守るなか、中宮彰子が見舞に参上。凡帳の下に寄ったのを知った天皇は、しばらく起きなおり、遺詠を口ずさむ。
露の身の草のやどりに君をおきて 塵をいでぬる事ぞかなしき (『御堂関白記』)
翌22日午前8時、殆ど臨終と思われるに至るが、その後一旦持ち直すかに見えたが、正午頃歿する。
一条天皇と道長
道長が天皇の手習いの反故紙などが入っていた手箱を開けると、その反故の中に、
「叢蘭欲茂秋風吹破、王事欲章讒臣乱国」(叢蘭(そうらん)茂らんと欲して秋風吹き破り、王事章(あき)らかならんと欲して讒臣(ざんしん)国を乱(みだ)る」
と書いたものがあった。
これは、『帝範(ていはん)』にある文章に少し変更を加えたもので、せっかく蘭が美しく茂ろうという時に、秋風が吹いてこれをめちゃめちゃにしてしまうように、国王が正しい政治をしようとすると、よこしまな臣が邪魔してぶち壊す、という意味。
『帝範』は、唐の太宗の作った、帝王にたいする訓戒を記した本で、平安時代初めから、帝王学の教科書として用いられていた。
道長は、「讒臣」は自分のことと思い、その紙を破り棄てたという。
この話は、道長の威勢に抑えられて、手も足も出せなかった一条天皇が、手習いのおりに心中の不満を帝範の文句に託して書いたもので、一条天皇の世に、道長の勢力の強大さを示す話としてよく使われる。
道長の勢力は大きく、一条天皇も勝手な振る舞いはできなかったが、この話だけから、一条天皇と道長との関係を捉えられない。
道長は一条天皇の時、15年間、左大臣であったが、その間、天皇は道長を第一の臣として尊重していたが、決してロボットではなかった。
道長も威勢を示しながらも天皇の外叔父としてよく後見し、天皇の意向を尊重した。
天皇と道長とは、けっして不穏な関係にはなかった。
関白になれなかった道長
一条天皇は英明の主といわれ、詩歌管絃にも長じ、笛の名手であったという。
思いやり深く、情におぼれて無茶に陥ることもなく、節度を守り、ほどのよさを心得た天皇であった。学問にも関心は深く、道長や行成との間にも、和漢の書籍や仏典のやりとりがあったと記録に見える。
この天皇は、政治的にも延喜・天暦の世にならう気持があったと思われ、第一の臣下で外叔父である道長を関白とせず、終始左大臣として遇したこともそのあらわれと考えられる。
長徳元年(995)、関白道兼の没後、天皇は後任を決するのを渋った。
この時、既に天皇は関白を置きたくない気持があったと思われる。
結局、生母東三条院詮子の勧めがあって、道長に内覧の宣旨が下ったが、関白ではなかった。
当時一般には関白の宣旨が下ると考えられていたことが実資の日記にも見えるが、ついに関白は置かれなかった。
6月21日
・一条天皇の病は既に絶望の状態。
2日前、重体のために天皇は剃髪を済ませる。
この日夜10時頃、侍臣や僧侶が粛然と見守るなか、中宮彰子が見舞に参上。凡帳の下に寄ったのを知った天皇は、しばらく起きなおり、遺詠を口ずさむ。
露の身の草のやどりに君をおきて 塵をいでぬる事ぞかなしき (『御堂関白記』)
翌22日午前8時、殆ど臨終と思われるに至るが、その後一旦持ち直すかに見えたが、正午頃歿する。
一条天皇と道長
道長が天皇の手習いの反故紙などが入っていた手箱を開けると、その反故の中に、
「叢蘭欲茂秋風吹破、王事欲章讒臣乱国」(叢蘭(そうらん)茂らんと欲して秋風吹き破り、王事章(あき)らかならんと欲して讒臣(ざんしん)国を乱(みだ)る」
と書いたものがあった。
これは、『帝範(ていはん)』にある文章に少し変更を加えたもので、せっかく蘭が美しく茂ろうという時に、秋風が吹いてこれをめちゃめちゃにしてしまうように、国王が正しい政治をしようとすると、よこしまな臣が邪魔してぶち壊す、という意味。
『帝範』は、唐の太宗の作った、帝王にたいする訓戒を記した本で、平安時代初めから、帝王学の教科書として用いられていた。
道長は、「讒臣」は自分のことと思い、その紙を破り棄てたという。
この話は、道長の威勢に抑えられて、手も足も出せなかった一条天皇が、手習いのおりに心中の不満を帝範の文句に託して書いたもので、一条天皇の世に、道長の勢力の強大さを示す話としてよく使われる。
道長の勢力は大きく、一条天皇も勝手な振る舞いはできなかったが、この話だけから、一条天皇と道長との関係を捉えられない。
道長は一条天皇の時、15年間、左大臣であったが、その間、天皇は道長を第一の臣として尊重していたが、決してロボットではなかった。
道長も威勢を示しながらも天皇の外叔父としてよく後見し、天皇の意向を尊重した。
天皇と道長とは、けっして不穏な関係にはなかった。
関白になれなかった道長
一条天皇は英明の主といわれ、詩歌管絃にも長じ、笛の名手であったという。
思いやり深く、情におぼれて無茶に陥ることもなく、節度を守り、ほどのよさを心得た天皇であった。学問にも関心は深く、道長や行成との間にも、和漢の書籍や仏典のやりとりがあったと記録に見える。
この天皇は、政治的にも延喜・天暦の世にならう気持があったと思われ、第一の臣下で外叔父である道長を関白とせず、終始左大臣として遇したこともそのあらわれと考えられる。
長徳元年(995)、関白道兼の没後、天皇は後任を決するのを渋った。
この時、既に天皇は関白を置きたくない気持があったと思われる。
結局、生母東三条院詮子の勧めがあって、道長に内覧の宣旨が下ったが、関白ではなかった。
当時一般には関白の宣旨が下ると考えられていたことが実資の日記にも見えるが、ついに関白は置かれなかった。
この歌にある「君」は中宮彰子の事と考えられるが、亡き皇后定子であるとする説もあり、帝の真意は定かでない。
「中宮(藤原彰子)が御几帳(みきちょう)の下におられたので、一条院が仰せられたことには、
露の身の 草の宿りに 君を置きて
塵を出でぬる 事をこそ思へ」(『御堂関白記』寛弘8年(1011)6月21日条)
「亥剋(いのこく/午後9時~午後11時)の頃、法皇(一条院)はしばらく起き上がり歌を詠んで云われたことには、
「露の身の 草の宿りに 君を置きて
塵を出でぬる 事をこそ思へ」」
「ただし、はっきりとその意味を知ることは難しい。その時、近侍していた公卿(くぎょう)や侍臣(じしん)、男女の道俗(どうぞく)でこれを聞いた者は、この為に涙を流さない者はなかった。」
(『権記』寛弘8年(1011)6月21日条)
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6月22日
「巳剋(みのこく/午前9時~午前11時ごろ)に、一条院は崩じなされた。私は、伺候していた人々に、座を立つことを命じた。伺候すべき人々を定めて、お側に侍(じ)させた。」
「「一条院のお側に伺候したいと思います」と申した者が多かったのではあるが、朝廷の行事が有る。そこで伺候させなかったのである。」
(『御堂関白記』寛弘8年(1011)6月22日条)
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6月29日
「右大弁(源道方)を遣わして、(三条)天皇の内裏への遷幸について奏上させた。先日は来月11日に行うということを申した。ところが、故一条院の御葬儀は来月8日である。・・・甚だ近い。・・・陰陽師たちを召して、また事情を聴取した。」(『御堂関白記』寛弘8年(1011)6月29日条)
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7月1日
「右大弁(源道方)が来て、三条天皇の仰せを伝えて云(い)ったことには、「内裏への遷幸の事を定め申しなさい」と。」
「内々に(安倍)吉平を召して問うたところ、申して云(い)ったことには、「8月11日が、まず(賀茂)光栄朝臣とも意見が一致して、宜しい日でしょう」と。・・・然るべき御祈祷を行うならば、その日に遷幸を行うのは吉日であると申していた。」
(『御堂関白記』寛弘8年(1011)7月1日条)
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7月3日
「(源)道方朝臣(あそん)を介して、8月11日が遷幸に吉(よ)いということを、(安倍)吉平と(賀茂)光栄が申していることを(三条)天皇に奏上させた。内々の事である。」(『御堂関白記』寛弘8年(1011)7月3日条)
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7月11日
「民部大輔(藤原)為任が、月に乗じてやって来た。多くの事を談じた。新主(三条天皇)の御事である。「聴されることになるであろう内外の卿相は、左大臣(藤原道長)・大納言(藤原)道綱・中納言(藤原)隆家・三位中将(藤原)教通」と云うことだ。」(『小右記』寛弘8年(1011)7月11日条)
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7月26日
「近日、上下の者が云(い)ったことには、「(藤原)斉信・(源)俊賢両人は、左相府(藤原道長)の直廬(じきろ)に於いて、毎日、尊卑(そんぴ)を讒言(ざんげん)している。特に俊賢は、狂ったようである」と。」
「或いは云ったことには、「(源)俊賢は、先主(一条天皇)の代のように、顧問の臣となるということを、書状で女房(三条天皇の御乳母。謂うところの本宮宣旨)の許に送った。すぐに奏聞を経たところ、天皇の機嫌は不快になった」と云うことだ。」
(『小右記』寛弘8年(1011)7月26日条)
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8月11日
「この日が、故一条院の七七日の御正日である。・・・この日、新帝(三条天皇)は内裏に参内なされた。・・・未剋(午後1時~午後3時ごろ)に天皇は私を御前に召され、蔵人・殿上人・蔵人所雑色を定められた。その儀は、常と同じであった。」(『御堂関白記』寛弘8年(1011)8月11日条)
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8月23日
「女御宣旨が下った。(藤原)妍子と(藤原)娍子であった。参入していた公卿や殿上人が、慶賀を奏上した。(藤原)能信を遣わして、女御とするという(三条)天皇の御書状を、尚侍(藤原妍子)の許に届けさせた。」
「私の関白の事については、(三条)天皇が故一条院と御対面なされた後、度々仰せが有った。ところが、今年は重く慎むべきであったので、辞退し申したものである。」
(『御堂関白記』寛弘8年(1011)8月23日条)
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8月
・道長、内覧となる
三条天皇と藤原道長
三条天皇の治世となり、道長は引き続いて内覧の左大臣であった。
一条天皇の時代と比べて大きな変動はないように見えるが、実際は、以後4年半は、天皇にとっても道長にとっても、極めて不愉快な時期だった。
三条天皇は冷泉天皇の皇子で、母は道長の姉超子。
一条天皇も母はやはり道長の姉の詮子。
従って、道長は両天皇の外叔父にあたり、血縁では差はないけれども、実際には道長は一条天皇とはうまくいっても、三条天皇とは初めから駄目だったらしい。
また、三条の母超子は若いうちに(天元5年(982))没し、一条の場合の詮子のように道長と三条との間の調整役にはなれなかった。
三条天皇は既に36歳(一条天皇より4歳年長)であり、道長に対抗する振る舞い多かった。
一方の道長は、孫の一条皇子の敦成(あつひら)親王を新東宮として、早く後一条天皇即位を望んだこともあり、両者の間には軋轢が多かった。
8月23日、三条天皇から蔵人頭を通じて関白に任じたいと言ってきたが、道長は「前々この仰せ有り、しかるに不能の由を申す」と答えた。
また、天皇と対面の後、度々関白の仰せがあったが今年は重く慎むべきであるので辞退したと『御堂関白記』に記している。
その結果、「上下の文書触れ示すの後奏聞すべき宣旨」(内覧宣旨)が下った。
つまり、後に不仲になる三条天皇が、道長に関白就任を求め、道長は自らの意思でこれを断っている。
この20日ほど前、一条院追悼の念仏の座で、道長と内大臣公季と実資とで、貞信公忠平が太政大臣についたのは、醍醐天皇が臨終の直後だったか朱雀天皇の後だったかで、「清談(せいだん)」していて、左府(左大臣=道長)の気色は「太(はなは)だ温和で、和して不快なし」だった、と実資が記している。
内覧と関白
内覧は、「太政官申す所の文書」をまず道長に触れよという宣旨と「宮中の雑事」を行なえという宣旨からなる。
太政官内の雑事の掌握と太政官から奏上する文書の内覧からなり、文書と機構を把握して太政官政務を掌握したのである。
このことは関白の主要機能であり、これに拒否権が加わるのが関白だといわれており、この点では関白と差はない。
内覧すべき文書の範囲は、「奏聞を経るの文を以て内覧を経べし」とのべられていて、太政官から天皇に奏上すべき文書すべてを対象としたようだが、蔵人所から奏上する文書については制度上は対象とならないらしい(ただし道長など一上は蔵人所別当を多く兼ねていた)。
内覧も関白も摂政も、太政官の統轄が中心となる権能だった。
関白にならない違いは・・・
それは左大臣にとどまり政務を行なったこと、左大臣を筆頭の上卿の意で一上と呼ぶが、一上の事(一上の政務)を手放さなかったことにあったと思われる。
一上は、太政官の諸公事を執行する職能であり、通例筆頭公卿の左大臣である(欠であれば右大臣以下になる)。
ただし当日、一上が都合が悪く欠席すれば、右大臣以下の出席公卿の上首が臨時に行なうので、一上道長のもとでも右大臣顕光や内大臣公李がさまざまな公事を主催した。
しかし左大臣が関白になると、右大臣が一上となり、関白は一上の職能を行なわないようになる。つまり関白は陣定など公卿議定には加わらないのが慣行となっていき、兼家が大臣を辞して摂関を独立の官としてからは、それが明確になった。また太政大臣も一上の事を行なわない。
それに対し、道長は、寛弘2年の諸国申請雑事定や長和の元号定にみえたように、みずから一上左大臣として陣定を主催、出席し、大臣以下の公卿を統轄した。
結局、藤原道長は、内覧となった長徳元年(995)から長和五年(1016)までの21年間、筆頭の右大臣、そして左大臣の地位にあり一上の地位にあった。
*
8月
・この月、三条天皇大嘗会の悠紀(ゆき)・主基(すき)にあたる近江・丹波国から、大嘗会役を神寺王臣家庄を論ぜずに賦課したいという申請がみえる。
一国平均役の申請の早い事例。
*
8月
・道長、内覧となる
三条天皇と藤原道長
三条天皇の治世となり、道長は引き続いて内覧の左大臣であった。
一条天皇の時代と比べて大きな変動はないように見えるが、実際は、以後4年半は、天皇にとっても道長にとっても、極めて不愉快な時期だった。
三条天皇は冷泉天皇の皇子で、母は道長の姉超子。
一条天皇も母はやはり道長の姉の詮子。
従って、道長は両天皇の外叔父にあたり、血縁では差はないけれども、実際には道長は一条天皇とはうまくいっても、三条天皇とは初めから駄目だったらしい。
また、三条の母超子は若いうちに(天元5年(982))没し、一条の場合の詮子のように道長と三条との間の調整役にはなれなかった。
三条天皇は既に36歳(一条天皇より4歳年長)であり、道長に対抗する振る舞い多かった。
一方の道長は、孫の一条皇子の敦成(あつひら)親王を新東宮として、早く後一条天皇即位を望んだこともあり、両者の間には軋轢が多かった。
8月23日、三条天皇から蔵人頭を通じて関白に任じたいと言ってきたが、道長は「前々この仰せ有り、しかるに不能の由を申す」と答えた。
また、天皇と対面の後、度々関白の仰せがあったが今年は重く慎むべきであるので辞退したと『御堂関白記』に記している。
その結果、「上下の文書触れ示すの後奏聞すべき宣旨」(内覧宣旨)が下った。
つまり、後に不仲になる三条天皇が、道長に関白就任を求め、道長は自らの意思でこれを断っている。
この20日ほど前、一条院追悼の念仏の座で、道長と内大臣公季と実資とで、貞信公忠平が太政大臣についたのは、醍醐天皇が臨終の直後だったか朱雀天皇の後だったかで、「清談(せいだん)」していて、左府(左大臣=道長)の気色は「太(はなは)だ温和で、和して不快なし」だった、と実資が記している。
内覧と関白
内覧は、「太政官申す所の文書」をまず道長に触れよという宣旨と「宮中の雑事」を行なえという宣旨からなる。
太政官内の雑事の掌握と太政官から奏上する文書の内覧からなり、文書と機構を把握して太政官政務を掌握したのである。
このことは関白の主要機能であり、これに拒否権が加わるのが関白だといわれており、この点では関白と差はない。
内覧すべき文書の範囲は、「奏聞を経るの文を以て内覧を経べし」とのべられていて、太政官から天皇に奏上すべき文書すべてを対象としたようだが、蔵人所から奏上する文書については制度上は対象とならないらしい(ただし道長など一上は蔵人所別当を多く兼ねていた)。
内覧も関白も摂政も、太政官の統轄が中心となる権能だった。
関白にならない違いは・・・
それは左大臣にとどまり政務を行なったこと、左大臣を筆頭の上卿の意で一上と呼ぶが、一上の事(一上の政務)を手放さなかったことにあったと思われる。
一上は、太政官の諸公事を執行する職能であり、通例筆頭公卿の左大臣である(欠であれば右大臣以下になる)。
ただし当日、一上が都合が悪く欠席すれば、右大臣以下の出席公卿の上首が臨時に行なうので、一上道長のもとでも右大臣顕光や内大臣公李がさまざまな公事を主催した。
しかし左大臣が関白になると、右大臣が一上となり、関白は一上の職能を行なわないようになる。つまり関白は陣定など公卿議定には加わらないのが慣行となっていき、兼家が大臣を辞して摂関を独立の官としてからは、それが明確になった。また太政大臣も一上の事を行なわない。
それに対し、道長は、寛弘2年の諸国申請雑事定や長和の元号定にみえたように、みずから一上左大臣として陣定を主催、出席し、大臣以下の公卿を統轄した。
結局、藤原道長は、内覧となった長徳元年(995)から長和五年(1016)までの21年間、筆頭の右大臣、そして左大臣の地位にあり一上の地位にあった。
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8月
・この月、三条天皇大嘗会の悠紀(ゆき)・主基(すき)にあたる近江・丹波国から、大嘗会役を神寺王臣家庄を論ぜずに賦課したいという申請がみえる。
一国平均役の申請の早い事例。
*
10月5日
「亥剋(いのこく/午後9時~午後11時ごろ)に、尚侍(藤原妍子)が内裏に参入した。飛香舎を御在所とした。輦車(てぐるま)宣旨が下った。・・・輦車が内裏に入った後、饗宴が有った。」(『御堂関白記』寛弘8年(1011)10月5日条)
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10月16日
「(三条)天皇の御即位式が行われた。卯剋(午前5時~午前7時ごろ)に、大極殿に行幸があった。内弁の大臣(藤原顕光)が幄に就くのが遅かった。・・・辰剋(午前7時~午前9時ごろ)に、天皇は高御座に着しなされた。」
「亥剋(いのこく/午後9時~午後11時ごろ)に、東宮(敦成親王)が凝華舎に御入された。子剋(ねのこく/午後11時~午前1時ごろ)に、中宮(藤原彰子)は枇杷殿に移られた。」
(『御堂関白記』寛弘8年(1011)10月16日条)
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10月
・居貞親王(三条天皇)が即位。
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10月24日
・冷泉上皇、没。
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11月
・この月、上東門大路南、陽明門大路北、帯刀町(油小路)東、洞院西大路南(「洞院東大路西」の誤りか)で火事が起こり、「七百余家」が焼失した(『日本紀略』)。
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12月
・8日、9日の両夜、道長邸から膳所の銀の提戸(ひさげ)や衣裳が盗まれた。
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10月
・居貞親王(三条天皇)が即位。
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10月24日
・冷泉上皇、没。
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11月
・この月、上東門大路南、陽明門大路北、帯刀町(油小路)東、洞院西大路南(「洞院東大路西」の誤りか)で火事が起こり、「七百余家」が焼失した(『日本紀略』)。
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12月
・8日、9日の両夜、道長邸から膳所の銀の提戸(ひさげ)や衣裳が盗まれた。
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12月18日
「修理大夫(藤原)通任が参議を兼任した<蔵人頭(くろうどのとう)の上臈である右大弁(源)道方は、左大弁に(藤原)説孝がいたので、任じることはできない。説孝は、大弁を経ること6年の功労をすでに積んでいる。・・・」
「・・・ところが主上(三条天皇)は、旧意が許さず、任じなかった。また、大弁が蔵人頭である時は、他官の頭が超越(ちょうおつ)する例はない。「ところが朝恩がすでに深かったので、任じたものである」と云(い)うことだ>。」
(『権記』寛弘8年(1011)12月18日条)
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12月19日
「丞相(藤原道長)が密々におっしゃって云(い)ったことには、「(藤原)顕信を蔵人頭とするということについて、頻(しき)りに(三条)天皇の仰せの事が有る。・・・」
「・・・ところが衆人の非難を避ける為に固辞する<『不覚の者(藤原通任)の替わりに、不足の職の者(藤原顕信)を補される。きっと云(い)われるところが有るであろう』と云うことだ>」と。」
(『権記』寛弘8年(1011)12月19日条)
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ちなみに
— 大河ドラマ「光る君へ」(2024年) (@nhk_hikarukimie) October 27, 2024
『御堂関白記』には…
寛弘8年(1011)8月23日条
◆◇◆◇◆
私の関白の事については、(三条)天皇が故一条院と御対面なされた後、度々仰せが有った。ところが、今年は重く慎むべきであったので、辞退し申したものである。#光る君へ pic.twitter.com/oAqVTY9BTW
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