観覧車「グランド・ルー・ド・パリ」
大杉栄とその時代年表(284) 1900(明治33)年4月1日~11日 鉄幹「明星」創刊 長塚節と伊藤左千夫が初めて会う 毛利柴庵ら「牟婁新報」創刊 「義和団党天津北京ニ侵入セリ」(第1報) より続く
1900(明治33)年
4月12日
英艦2隻・独仏米各1隻、大沽に集結、上陸。英は新式大砲を天津租界に持込む。
4月12日
西太后、上諭。村民・教民の争いには、ただ是非だけを論じ、公平に処理すべき。偏りはあってはならない。
4月12日
プエルトリコ民政府設立。プエルトリコに対する米の軍事占領終了。民政に移行。
4月13日
寒川鼠骨が子規を訪問。子規の口ききで京都の新聞社から「日本」に移った鼠骨は、総理大臣山県有朋をはげしく攻撃した記事により、署名人として官吏侮辱罪に問われ3月27日から15日間市ヶ谷監獄に入獄し、2日前に出獄していた。
4月14日
パリ万国博覧会(5回目)開催。11月12日の閉幕迄に4,800万人以上入場。
会場としてグラン・パレとプティ・パレが建てられ、ロシア皇帝ニコライ2世の寄付によりセーヌ川両岸を結ぶアレクサンドル3世橋が架けられた。当時世界最大となる高さ100メートルの観覧車「グランド・ルー・ド・パリ」が博覧会に合わせて一般公開となり、動く歩道や1889年の第4回パリ万博に合わせて建設されたエッフェル塔にエスカレーターが設置された。
装飾美術ではサミュエル・ビングが出展した店(パビリオン)が一躍注目を集め、店名の「アール・ヌーヴォー」は今回の万博を象徴する表現となり、さらにはこの時代を象徴するフランスの装飾美術様式そのものを指す名称ともなっている。
サラ・ベルナールはサラ・ベルナール劇場で『レグロン』を演じ、大好評となり、ロイ・フラーも自身の劇場で披露したサーペンタインダンスも好評を受けた。
海外ツアー中でロンドン公演を終えたばかりの川上音二郎一座はロイ・フラーによってパリに招かれ、貞奴はフラーの劇場に「マダム貞奴」として出演し大人気となった。
アメリカの旅行作家バートン・ホームズは、フランスの演劇批評家らがこぞって川上一座を称賛していること、ある高名な演劇評論家は「サラ・ベルナールがフランスの女優で、エレオノーラ・ドゥーゼがイタリアの女優なら、貞奴は世界の女優だ」とまで評したと伝え、その他の催し物がつまらなく見えてしまうほど日本の役者たちは1900年の万博で成功した、と書き綴っている。
4月15日
子規、 第1回万葉集輪講会。
4月16日
ハンガリー、「再建社会民主党」結成。ヴァールコニの運動壊滅後ジャーナリスト、メゼーフィ・ヴィルモシュ指導、農業運動支援目指すがのち地主・ブルジョアに接近。
4月17日
清朝、上諭。各省の郷民が団を設けて自衛し身家をを保護するのは、古人の「守望相助」の考えに基くものである。分に安んじ法を守る限り自由にして良い。
4月18日
福井市で大火事。1,500戸焼失。
4月18日
インドの連合州、ヒンディー語を公用語に加える。
4月19日
袁世凱、山東駐在の営勇を武衛右軍先鋒隊とし、武衛右軍を拡充する
4月20日
子規のもとに洋行中の浅井忠が知り合いの銀行家に頼んであった人の背ほどある大鳥籠が届く。ヒワのつがいなど7羽を入れ、子規は窓外の生のざわめきを楽しむ。
4月22日
この月初め、河北省淶水県の北部汝河村で義和拳道場が開かれ、中旬、下荘・高洛村にも道場が開かれる。高洛村では、前年教民との争いで拘留された閻洛福の子閻肇修が義和拳導入に積極的に動く。この日、知県祝芾は閻肇修を呼出し拘留、のち釈放。30日、閻肇修、大廟に道場開設。
4月22日
ラービフ帝国(中部アフリカ、チャド湖周辺)、フランスの侵略により崩壊。
4月23日
福田友作(36)、没。
4月24日
東京株式市場大暴落。以後、各地で金融恐慌起こる。
4月24日
子規、牡丹を見にきたらいかがと誘われていた、本所・亀戸の竪川(たてかわ)沿いにある左千夫の家を訪ねる。赤木格堂を先行させ、香取秀真をともなう。
4月24日
カナダ総督、英領コロンビア議会の日本人排斥諸法を認可せず。
4月26日
カナダで大火事。36時間燃え続けてオタワ北岸ハル市全焼、オタワ市も大きな被害。家を失った人1万5千。
4月27日
内務省の社寺局を神社局と宗教局に分割。神社行政をその他の宗教行政から分離。
4月28日
2月11日に発表された皇太子(大正天皇)の婚約の記念切手発売。使用開始は5/10の結婚式以降とされる。
4月28日
川上一座、NY発
4月29日
北京西城に義和団掲帖、神拳が散布
4月29日
「二六新報」、三井財閥攻撃キャペーン開始。
4月30日
ハワイ(1898年8月12日にアメリカに譲渡)、米の準州に。
つづく
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