1900(明治33)年
5月20日
11ヶ国外交団、第1回会議。6項目(拳会弾圧)を総署に要求(5日以内の回答要求)。
①路上で拳技の練習をしたり、外国人に脅威を与える伝単・掲帖を撒いたり掲げたりする結社員の逮捕。
②拳民の集まる寺・廟の所有者・管理者の拳民並の処罰。
③動揺の拡大を放置し、反乱者を黙認した官吏の処罰。
④殺人者・放火者・拳民指導者・支持者の処罰。
⑤拳民指導者・援助者の死刑。
⑥以上を北京・直隷・華北諸省に発表。
5月20日
高平小五郎、外務総務長官兼官房長に任命。
5月20日
子規庵で万葉集輪講会。
「・・・・・六名が子規庵につどった。左千夫もいた。ついでに臨時歌会を催すことにした。
その日夕方からは蕪村句集輪講会の予定であったから、虚子、碧梧桐、鳴雪がやってきた。用が済んだはずの歌人たちもほとんど帰らない。大人数の輪講となった。夜更けて雨になったので、家の遠い左千夫、格堂など四人が泊った。子規は彼らと歌について語って夜を徹した。八重や律は、さぞ眠りがたかったことだろう。
こんなときの子規の体力はなんなのか。あるいは気力なのか。翌早朝からは四人のほか、訪ねてきた岡麓を加えて、また小歌会という運びになった。その翌日には佐藤紅緑が友人を連れてやってきたので、三人で句作した。」(関川夏央、前掲書)
5月22日
淶水事件。河北省淶水県、直隷練軍(京師一帯守備)記名総兵副将楊福同率いる騎兵30・歩兵40、義和団2~3千に包囲。副将ら3人戦死。義和団が正規軍を破り、都市(涿州城)占領、鉄道破壊、清朝高官と対等に交渉した最初の事例。
23日、直隷総督裕禄は、中心人物の逮捕、解散命令に背く者の逮捕・殺害を指令。
鉄道破壊;鉄道工事には教民が携わっていて、その教民に対して襲撃が始まり、教民が逃げ去ると、暴徒たちは線路を破壊して撤去するという行動が頻発する。多くの農民は、鉄道が敷設されたことによって自分たちの生活が貧しくなったと鬱憤を抱えており、それが義和団の乱で爆発したものだという。日頃から教民や洋人に恨みを持っていた者たちが暴徒化し、それら暴徒は義和団に吸収されるようにして大きなうねりとなり、官軍が正規軍を出そうにも駅が放火されてしまう事態になる。義和団による鉄道破壊は100kmに及び、北京郊外の瑠璃河駅と涿州鉄橋は焼き討ちにされた。
5月22日
米に対し、サンフランシスコ港における検疫問題について、日本人の差別待遇を抗議。
5月24日
総署、義和団弾圧の措置は講じたので間もなく治まると、11ヶ国外交団に回答。
5月24日
李鴻章、広東・広西の両広総督に。
5月24日
内務省、浴場での12歳以上の男女混浴を禁止(罰金25円)。18歳未満のものが娼妓になることを禁止(16歳であったのを2歳引上げ、但しザル法)。
5月24日
大杉栄(15)、皇太子嘉仁夫妻が伊勢参りに行く途上の通過停車場構内で、出迎えの行事に参加(結婚奉告のための関西巡啓)
5月24日
イギリス、オレンジ自由国の併合を宣言。
5月25日
武衛前軍左路頭領の楊慕時が歩兵3営を率い高碑店に駐兵するが手出しできず。
5月25日
黒田清輝(33)、横浜港からフランス船サラジー号で出航、美術に関する制度取り調べ等のため1年間のフランス留学に向かう。翌年5月中旬に帰国。
5月25日
佐々木更三、誕生。
5月26日
義和団(新城、定興、涿州、易州などの村民)、盧保線の馬家堡~高碑店の100km鉄道破壊。
5月26日
第2回11ヶ国外交団会議、再度「共同通牒」を出す。
27日、総署は、上諭・警察章程を添え、義和団禁止方針及び具体的方針を示す。
5月27日
義和団、北京・天津間の鉄道破壊開始。北京郊外の瑠璃河駅と琢州鉄橋破壊。盧保線は不通。この日、義和団3万が全く抵抗なく琢州城占領。
5月26日頃には義和団は2~3千人であったが、翌27日には約3万人に膨れ上がり、殆んど抵抗を受けることもなく涿州城に入場する。そして、涿州城占拠後、
「涿州城は兵力も装備も貧弱である。いまや洋兵がまさに来たらんとしている。われわれが代わって守ろう」
と声明を出す。
涿州城付近には城の内外に3万人の義和団が居座り続け、刀や矛が並べたてられた。
5月27日
ベルギー総選挙で、比例代表制が初めて導入。
5月28日
義和団、瑠璃河~盧溝橋迄の鉄道破壊。豊台駅・長辛店駅・盧溝橋駅を焼払う。
5月28日
夜、11ヶ国外交団会議、満場一致で公使館護衛隊招致の要請を決議。総署に伝える。
29日朝、総署はこの決定の再考慮・兵派遣延期を要請。外交団はこれを無視。
5月28日
メキシコ・ポルトガル・スペイン・アルジェリアなどで、皆既日食が観測。
5月29日
第1次派兵。午前7時、警備艦「愛宕」から日本陸戦隊24名と将校1名、天津上陸。
5月30日
軍機大臣趙じょう(舎と予)翹と都察院左副都御史何乃瑩の上奏文。教民が農民を食い物にし、地方官が教会に加担し、農民・拳民の不満は鬱積。
5月30日
軍艦笠置、天津に向けて出発。
5月31日
北京駐在11ヵ国公使館、義和団鎮圧を要求する。列国第一次出兵。
露英米仏伊5ヶ国、大沽の艦隊から海兵341名・将校14名を上陸させ、午後4時30分、天津より北京に向う。夜、北京到着。
5月31日
憲政党(旧自由党)幹部星亨ら、山県首相に入閣を要求するが拒否される。憲政党、山県内閣との提携打ち切りを宣言。翌日、憲政党、伊藤博文に党首就任要請。7月8日、伊藤はこれを拒否。伊藤新党への参加歓迎と回答。憲政党、新党参加を決定。
5月末
北京の西北180kmの宣化府に義和団出現。教民は孔化営の教会の600人が立て篭もる。
つづく
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