2024年10月21日月曜日

大杉栄とその時代年表(290) 1900(明治33)年6月17日~20日 連合陸戦隊が大沽砲台占領 西太后へ4ヶ状 光緒帝による宣戦布告 ドイツ公使ケッテラー殺害 「北京籠城」(「北京の55日」6月20日~8月14日) 

 

天津の戦い

大杉栄とその時代年表(289) 1900(明治33)年6月12日~16日 漱石、2年間のイギリス留学を命じられる 8ヶ国連合軍、北京で義和団と戦闘 子規、漱石に自筆の「あづま菊」の絵を送る より続く

1900(明治33)年

6月17日

大沽砲台の大小177門が列国軍艦を砲撃。列国軍艦は応戦、4時間後に砲台は沈黙。同時に、英・独・露・日の連合陸戦隊850が砲台に進撃、国名ABC順に右から展開し攻撃態勢に入る。

日本海軍陸戦隊328(服部雄吉中佐)は白石葭江大尉指揮のもとに西北砲台を占領。その後他の3砲台も占領、交戦で4砲台を完全占領。

午後 天津の拳民3万・清国兵18,600が各国居留地に砲撃開始。この時の天津の連合軍は3千。

6月17日

午後4時、第2回午前会議。西太后は、後に偽物と判明する「照会」4ヶ状を示し熱弁。「…国家の滅亡は目前にある。…(譲歩して)…等しく滅びるなら、一戦して亡びるほうが、なお優らずや?」清朝は一気に不退転の主戦論となり、「真夏の狂気」と呼ばれる列強諸国に対しての宣戦布告へと突っ走ることになる。

4ヶ条の「照会」(打診、脅迫)は、

①皇帝をある地へ移す

②各省の銭糧を代収する(租税徴収権の移管)

③天下の兵権を代掌する(軍事権の移管)

④太后の隠退

であった。

これは、要するに、清朝の統治権全てを渡せと、いう脅迫だった。

西太后はこれを読み上げたあと、

「われ死しても列祖にまみゆる面目なし。等しく滅びるなら、一戦して滅びるほうが、なお優しからずや?」

と続けると、群臣らは一致して、

「願わくば死力を尽くさん」

と言い出して泣き出してしまったという。

この日、朝廷は、京師防衛のため各省督撫に馬歩隊を急派せよと呼び掛け。一方、夜9時、開戦回避派の聯元、立山、徐用儀らは米公使コンガーと会見。コンガーは、もし米人が傷害されるようなら増援隊到着後、北京を焦土にすると恫喝。8月1日、3人は端郡王により処刑

6月18日

シーモアの第2次援軍(2300名とも1876名とも)、廊坊での義和団の激しい襲撃に遭い、死者6名、負傷者48名の被害。食糧も不足したので、天津へ引き返す。このシーモア軍は、死者62名、負傷者228名を計上した。

6月18日

午後4時、第3回午前会議。不戦派・開戦派の対立。

6月18日

イタリア総選挙。左翼勢力の進出のため、ルイージ・ペルー首相が辞職。

6月19日

午後2時、第4回午前会議。総理衙門(許景澄)が、各国公使に24時間以内退去を通告することになる。

6月19日

ロシア政府、4,000人北京派兵通告。

6月20日

清朝・光緒帝による宣戦布告

「遠来の人が我が国、我が人民、我が財閥を蹂躙し、平民を欺厚し、神聖を侮辱した。これ義勇の人が教堂を焼き、教民を屠殺した理由である。朝廷は、これに対し、わが人民を傷つけるのを恐れて、洋人を保護し礼を失することはなかったが、洋人は逆に兵堅利器を恃んで、自らこのような決裂を招いてしまった。」と前置きした上で、

「彼は詐謀を尊び、我は天理を恃む。彼は悍力に憑り、我は人心を恃む。わが国の忠信をもて甲冑とし、礼儀もて干櫓(かんろ/たての意)とする者を論ずるなく人々敢えて死せんとす。すなわち土地の広さ二十余省、人民多く四〇〇余兆にいたる、何ぞ彼の凶炎を剪(た)ち、国威を張ること難しからん。」


「宣戦布告」に至る理由

⓵大沽砲台問題

大沽砲台は海河河口に備えられており、北京や天津へと遡航する艦船への防御の要となる砲台。それが5月20日の時点で列強への引渡しを求められ、なおかつ清朝側が拒否後攻め落とされた。交戦状態でもない、また義和団に占拠されていたのでもない、にもかかわらず、列強がこの挙に出たことが、西太后の決心を促した。加えて、従前の仇教事件のような列強の司法への介入、山東巡撫の更迭要求等のいくつもの列強の圧力、信頼できない臣家の証言、「累朝の積憤」(積もり積もった怒り。剛毅の言)が次第に西太后を「宣戦布告」へと追いやった。

②「照会」問題

西太后はこれを見て激昂し宣戦を決めたという。しかし実はこの「照会」は偽物であった。清朝主戦派の誰か(端郡王載漪(さいい)一派と目されている)が捏造したものと考えられたが、事実に符合しない点が多く当人による偽造説は否定されている。

③清朝内の権力争い

清廷内には戊戌変法を支持した光緒帝を廃位しようとする計画が進められていた。その障害となったのが、列強と李鴻章や一部の親王であり、それらを排除するために義和団を利用したという。つまり列強に対しては義和団を充てる一方で、列強に妥協的だという理由で李鴻章らを媚外として批判した。


6月20日

ドイツ公使ケッテラー殺害

「この日の朝、中国軍軍曹がドイツ公使フォン・ケッチラー氏を射殺し、また官軍の多くの部隊がその後拳民と一緒になって外国公使館を襲撃したのは、やはり、一三日以降一週間内における公使館衛兵たちの所業、つまり彼らが防衛の美名の下に犯した数々の不祥事によるものと思われる。」(スタイガー)。

火器を持たない拳民に対しての護衛の名目での無差別射撃。

6月20日

「北京籠城」。義和団と清国官兵が各国公館を包囲、攻撃開始。~8月14日。

「北京の55日」

合計473人の外国人民間人、8カ国からの409人の兵士、約3000人の中国人キリスト教徒は公使館区画に避難した。

イギリス大使クロード・マクドナルド、北京公使館付武官柴五郎(陸軍砲兵中佐)の指揮で、公使館の職員と警備員は小型の武器と、中国人キリスト教徒によって地中から発掘されて連合軍に渡された一つの古い前装砲で敷地内を防衛した。この前装砲は砲身はイギリス製、砲架はイタリア製、砲弾はロシア製、砲手はアメリカ軍だったため国際砲とあだ名された。

また、北京では北大聖堂とカトリック教会の西什庫教堂も包囲されていた。西什庫教堂は43人のフランスとイタリアの兵士、33人の外国人神父と修道女、そして約3,200人の中国人キリスト教徒によって防衛されていた。彼らは食糧不足に悩まされ、また中国側が敷地下までトンネルを掘って地雷を爆発させたため多くの犠牲者を出した.

6月20日

夕方、北洋大臣直隷総督裕禄より大沽攻防緒戦勝利の報入る(17日払暁の砲台占領は隠される。21日宣戦布告後、陥落の報入る)。


つづく


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