1900(明治33)年
8月
仏、義和団の乱への干渉のため、マルセイユから軍隊派遣
8月
横田永之助、仏パテー映画と契約。
8月
「鉄幹子規不可併称論議」起きる。
鉄幹・子規は江戸時代からの伝統的歌(和歌、短歌、漢詩など)の世界から脱皮すべく、鉄幹は新詩社・明星に、子規は根岸短歌会・日本により、違った立脚点から己の道を開拓。佐々木信綱発行の「心の華」5月号に、毎号の選者として、与謝野鉄幹、正岡子規、渡辺光風、金子薫園などの「新派若武者」を依頼してはどうか、との記事が載り、子規の弟子・伊藤左千夫が、子規と鉄幹を同列に置くのはけしからんとする発言、論議が起こる。
8月
堺利彦「風俗改良案」(『萬朝報』8月~10月連載)。
そのなかで「手紙の事」として手紙文を改良することを提唱し、「断然言文一致体を勧告せざるを得ず」と述べる。
また、「細君の内職」「女子の職業」「家庭の組織」「家庭に於ける細君」「家庭の機関」「吾人の理想の大概」など、「家庭」におけるさまざまな改良案提案。記事を読んだ女性たちから何通もの投書があり、多くは堺の意見に共鳴するものだった。(翌年の)『家庭の新風味』に結びつく)。
「家庭」の語自体は古くから中国にはあったが、「家の内」という意味だった。一方、「家族の共同体」=ホームという概念は、日本の近代に生まれたものだとされている。明治期の英和辞典でhomeの訳語として「家庭」が使われ始めるのは、明治20年代に入ってからで、それ以後、一種のブームのように広まっていく。
8月
島村抱月「詩界雑感」(明星)
8月
門司市の石炭仲仕4千人、賃上げを要求してストライキ。
8月
ボーア人、多数がコンセントレーション・キャンプに収容される。
8月
米、日本と移民自主規制に関する第1次「紳士協定」。
8月
インドで飢餓悪化。豪雨のため大洪水。
8月2日
青木周蔵外相、米で日本人移民排撃運動が盛んになったため、北米への移民を当分の間禁止する通達を出す。
8月2日
京都、都ホテル開業。
8月2日
鉄幹、新詩社・明星の宣伝・拡大のため大阪・堺・神戸・岡山・京都へ赴く。講演会・歌会が開かれ、明星への投稿者山川登美子・鳳晶子と鉄幹が初めて顔を合わせる。3人で大阪の住吉、堺の高師の浜に遊ぶ。8月4日~15日、晶子・登美子は鉄幹と5~6回行動を共にし、両者とも鉄幹への思慕を深める。
3日、大阪市東区北浜3丁目の平井旅館に投宿。
4日午前、山川登美子が、午後は乳母うたを伴い晶子が平井旅館を訪れる。
5日、大阪で鉄幹の文学講演会(「新派和歌に対する所見」)、その後の歌会に晶子は出席。
6日朝8時、平井旅館に中山梟庵、高須梅渓、登美子が訪れ、大槻月啼も加わり、鉄幹は堺へ赴き、浜寺の寿命館で河野鉄南、宅雁月、晶子が加わり、8人で歌会。宿の扇8本に各自揮毒し、名字を自署し、午後8時30分散会。
7日、鉄幹は神戸の山手倶楽部で講演(「新派和歌について」)、終了後歌会。晶子は欠席。
8日、鉄幹らは須磨で解散。
9日、鉄幹、登美子と共に3人で大阪の住吉に遊ぶ。住吉神社の蓮の葉に歌を書く。鉄幹の歌「神もなは知らじとおもふなさけをは蓮のうき葉のうらに書くかな(「明星」明治33年10月号)。この夜、鉄幹は大阪の宿で晶子に対し告白に似た手紙を出す。
10日、鉄幹は岡山の新詩社支部へ行く。
11日、鉄幹は岡山で講演。鉄幹は徳山へ赴き、滝野の実家を訪ねる。実家側は、婿養子として入籍する約束も守らず、金だけ持ち出し、家庭をないがしろにするような男は信用できない、場合によっては離婚も辞せずという態度。話し合いは進まぬまま、15日、再び大阪に戻る。
15日、鉄幹、晶子・登美子と共に堺の高師の浜に遊ぶ。晶子の歌「松かげにまたも相見る君とわれゑにしの神をにくしとおぼすな」(「明星」10月号)。
19日、鉄幹は大阪を離れる。晶子は家を出られず、登美子が見送る。
浜寺・高師の浜の頃。4~15日、晶子は登美子と共に5回(又は6回)鉄幹に会い、急激に鉄幹に傾斜してゆく。「明星」10月号の晶子の歌「今ここにかへりみすれば我なさけ闇を怖れぬめしひと云はむ」。
9月30日、鉄南宛に「何も申すまじ高師の松かげにひとのさゝやきうけしよりのわれはたゞ夢のごとつミの子になり申候さとりひらき給ひし御目にはをかしとおぼすべしむかしの兄様さらば君まさきくいませあまりこころよき水の如き御こころに」と送り別れを告げようとする。
8月4日
8ヶ国連合軍第3次出兵。露シベリア第1軍団長リネウィチ中将司令官、兵4万7千人・砲140門、天津出発。6日、楊村解放。12日通州解放。14日、北京解放。
〈闘いの概況〉
進軍を開始したものの、その速度は緩慢であった。
清朝軍・義和団は、連合軍と比べ圧倒的な兵数を有していたものの、装備という点で全く劣っていたため、連合軍にとって戦闘での苦戦はなかった。例外的に、大沽砲台や聶士成の武衛前軍、馬玉崑率いる武衛左軍は近代化部隊であったが、兵器の扱いに不慣れな兵士が多かったために、効果的な運用ができなかった。中には「所々ニ於ケル自己ノ弾薬ノ破裂ハ、遂ニ抵抗シ得サルニ至ラシメタリ。敵(清朝兵)ノ死屍七八百ハ砲台内ニ横タワレリト云フ」(大沽砲台の攻防についての日本軍の批評)とあるように、訓練不足のため近代兵器を活用できず、暴発などで自滅した例も有った。義和団に至ってはその装備していた武器は剣槍がほとんどで、銃器を持った者など僅かしかいなかった。
また軍隊組織としてみた場合、義和団は言うに及ばず、清朝軍すら全体を統括指揮する能力に欠けており、その点も前近代的であると日本軍からは評されている。しかし日本軍も彼らを決して侮っていたわけではなく、「彼等ノ携帯兵器多クハ清国在来ノ刀・槍・剣、若クハ前装銃ニシテ、皆取ルニ足ラサルモノナリシモ、能ク頑強ノ抵抗ヲ為シ、我兵ヲ苦メタル勇気ハ称スルニ余リ有リ」という声もあるように、士気はすこぶる高かった。
8月5日
壷井栄、誕生。
8月5日
救世軍、吉原の廃娼運動を起こす。
8月5日
ロシア、各地で反ユダヤ暴動。
8月6日
直隷総督裕禄、楊村での敗戦の責任をとり、この日楊村で自殺。
8月7日
李鴻章、中国の全権大臣となり講和にのぞむ。
8月7日
幸徳秋水「非戦争主義」(「万潮報」)。人道主義の立場から軍人遺族の悲哀をつたえる。これより非戦論を書き続ける。
近い将来、戦争禁止・軍備撤廃は不可能としても、人間の理想・社会の幸福は平和にあり、平和論者・非戦争論者は、「戦争の時代」たる今日、「多数兵士の苦境」「軍人遺族の悲惨」「戦死人民の不幸」「一般社会の損害」を声を大にして説くべきと主張。
8月7日
伊藤博文、新党の組織を示唆。
8月7日
浅井忠、パリ万博見学し、出展の日本の洋画を「瀕死の老翁」と評す(「時事新報」同日付け)。
8月7日
ロシア、広瀬大尉、海軍大尉加藤寛治とともにバルト海沿岸視察。加藤大尉は新設のリバウの「皇帝アレクサンドル3世軍港」に関する報告書を日本に送る。~8月20日迄。9月25日、広瀬大尉、少佐に進級。
8月9日
唐才常の自立軍、安徽で挙兵(~11日)。
8月10日
西太后、第3次出兵軍が北京に迫る報に「西巡(西方脱出)」の意向漏らし、車両準備命令。
8月10日
ブラゴウェシチェンスクの石光真清大尉、ウラジオストクの参謀本部派遣の武藤信義大尉より「スグコイ」電報受ける。
16日、ウラジオストク着。武藤大尉より現役復帰・ハルビン潜行指令を受ける。
20日、「菊地庄三」の変名でニコリスクからボグラニチヤナへ越境し、ハバロフスク到着。国境地帯の鉄道施設状況調査。
ハルビンへの船便は軍事輸送に制限され、しばらく逗留。10月半ば、ハルビン到着。
8月10日
子規、大量喀血。
「喀血はさらに二日つづき、八月十三日の喀血量は、明治二十八年春、日清戦争従軍からの帰途以来の多さであった。」(関川夏央、前掲書)
8月10日
マサチューセッツ州ブルックラインで開催された第1回デビス・カップ・テニス・トーナメント、米のドワイト・F・デビスとホルコウム・ウォード優勝。
つづく
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