2024年10月13日日曜日

大杉栄とその時代年表(282) 1900(明治33)年3月28日~31日 長塚節が子規を訪問 衆議院議員選挙法改正 スウェン・ヘディン、楼蘭の遺跡を発見

 

長塚 節

大杉栄とその時代年表(281) 1900(明治33)年3月10日~27日 治安警察法公布 毓賢が山西巡撫に、袁世凱が山東巡撫となる 馬山浦事件 江南道観察御史高熙喆の上奏 「百姓の積年の恨みはいまや積もりに積もっているから、必ずや蜂起して洋人を襲い、戦端が開かれることになろう」 より続く

1900(明治33)年

3月28日

外相青木周蔵、駐韓国公使林権助にロシアの馬山浦付近土地租借要求に対抗し巨済島の一部借入を韓国政府に要求するよう訓令。ロシアの譲歩で解決。

3月28日

日本・スペイン、特別通商条約調印。1901年4月8日公布。

3月28日

長塚節が子規を訪問


「その前日にも、節は子規の家を下見している。数年来、節は病院通いのためにたびたび上京し、不忍池ほとりの旧知の人の家の世話になっていた。東京市中を歩きまわった末に子規の家を見つけたのだが、ためらいを払うのに多少の時間を必要とした。

(略)

三月二十八日は別の来客に先んじられぬよう、午前中に出掛けた。勇をふるって玄関に立ち、半紙を切った名刺を母親にさし出した。子規の咳音が聞こえた。

通された六畳の病間で、子規は蒲団の上に置いた名刺をじっと見ていた。子規は節に、渡たまま「失敬」といい、俳句の方でお目にかかったことがあったですか、歌の方でお目にかかりましたか、とつづけた。

節は、自分は歌について教えを受けたいのです、といった。

しばしの沈黙のあと、子規はいった。

いくらでもつくるがいいのです。

また沈黙があった。

つくっているうちに悪い方へ向かっていると、それがいつかイヤになってくるのです。

節はもっと多弁な人を想像していた。意外であった。昨日もきてみたが、来客があったようなので帰った、と節がいうと、子規は、それは惜しいことをした、歌の人が二、三人きていたのです、と答えた。

入門を許されたと思った節は、前日むなしく持参した短冊を出し、揮毫をもとめた。短冊は二十枚もある。人を気づかう節には、そんなところもあった。

短冊を手にした子規は、おぼつかぬことではあるが、と微笑しながら、一首ずつ自作を書いてくれた。節は子規の手元を、嬉しさにたえぬ表情で見つめた。そこへ、勝手知ったる他人の家という感じで、背の低い目のくりっとした男が入ってきて、節の隣にどっかと腰をおろした。フランネルの手縫らしい粗末なシャツを着て、足袋の先の破れ目から親指が見えた。その男は子規に、俳聖の書は蕪村のようだな、といった。

長塚節は、この闊達な男に見覚えがあった。

明治二十九年の草津温泉であった。神経症としつこい不眠で苦しんでいた節が、湯治先で見かけた画工その人である。当時はたしか、くたびれきった布カバンに、煮しめたような羽織姿であった。まさに奇遇というべきであろう。節は子規に紹介された中村不折という名前を記憶した。

主人と不折が話しこむうち、節は辞した。午後になると明るかった空がにわかにかき曇り、雹まで降ってきたが、年来の宿願を果たした節の気持は高揚していた。」(関川夏央、前掲書)

■長塚節


「長塚節の茨城県岡田郡の実家は田畑二十七町余、山林四十町歩という地主であった。幕末まで農地一町二反を持つありふれた本百姓にすぎなかった長塚の家をそこまでにしたのは、高瀬舟五艘で鬼怒川水運をにない、その利益で質屋を営んだ祖父であった。しかし貸した金のカタに入質した土地をとるというやりかたは摩擦を生み、明治十年頃には、長塚家と村の勢力を二分した有力者、それに元の小作人たちから集団訴訟されていた。節の父源次郎は、その訴訟対策のために長塚家に入った婿であった。

訴訟好きの源次郎は政治好きでもあった。明治十三年、二十三歳で茨城県西部で活発化した民権運動に身を投じ、明治十七年、富松正安、館野芳之助らが起こした加波山事件には直接参加しなかったものの、一時官憲に追われる身となった。

明治二十年、県議会議員選挙に立候補、第一位当選して三十歳の最年少議員となったが、この頃から長塚家の家産は傾いた。源次郎が、家業の柱であった質屋を「恥」として廃業したのみならず、政治資金に蕩尽したためである。また田畑二十七町歩余とはいえ、鬼怒川に近いごく一部を除けば、大半は水に恵まれぬ起伏の多い痩せ地にすぎなかった。

国生尋常小学校を修了した節は、八キロほど離れた下妻の親戚の家に寄稿して、高等小学校へ通った。茨城県尋常中学に首席で入ったのは明治二十六年、十四歳のときである。当時はまだ土浦にも下館にも中学はなく、のちに水戸中学となる茨城県尋常中学が県内唯一の中等教育学校であった。

雄大な体格であった父親に似ず小柄で華奢な節だが、頭脳のみならず運動神経も良好であった。長塚家の子供たちはみな優秀で、上の弟は水戸中から一高へ、下の弟は陸軍士官学校へ進んだ。しかし節は中学三年生のとき神経症を病んだ。それは当時の知識青年の流行病であった。塩原温泉に転地療養したもののはかばかしくなく、ついに明治二十九年、四年生で中学を退学した。同年、上京して入院、あわせて塩原、草津に湯治した。漱石『草枕』の画工のような中村不折を見たのはこのときである。

中学入学の年、祖父が東京で俳譜の宗匠をしていたという友から、古俳句八万句を八万遍読んだという大学生の話を聞いたことがあった。しかし子規の名前はまだ知らずにいた。「日本」は岡田郡の実家でも購読していたのだが、文芸系新聞としては「読売」「国民」に遠くおよばぬと節は断じて、見向きもしなかった。はじめて読んだのは明治二十九年、塩原温泉に二カ月滞在した十七歳のときである。同宿の青年が「日本」をとっていたからであった。

やがて「日本」の子規が「八万句八万遍」の大学生と同一人物であり、なんでも記録してなんでも保存する性癖から自らをカワウソにたとえ、獺祭書屋主人と自称する人だと知った。だが、すでに桂国風の和歌を折にふれてつくるようになっていた節にとって、俳句は遠いものでありつづけた。

だが明治三十一年二月、「日本」紙上に子規の「歌よみに与ふる書」があらわれて事情は一転した。

ことに、「歌は平等無差別なり、歌の上に老少も貴賎も無之候。歌よまんとする少年あらば老人抔にかまはず勝手に歌を詠むが善かるべく」(「十たび歌よみに与ふる書」)とある部分は、闇にとざされた前途を照らす光明と思われた。節の子規に対する思いは一挙にふくれあがった。心中に「師」という語が浮かびさえした。

「自分はいかにも愉快でたまらな」かった、と長塚節は、子規没後の回想にしるした。


(「日本」の記事を)丁寧に切り抜いておいて頻りに人にも見せびらかした。偶々これに異議を挟むものでもあれば、其人がいかにも悪(にく)らしくつて溜らぬ位であった。(長塚節「竹の里人」、「馬酔木」第九号、明治三十七年二月)


しかし当の「歌よみ」たちは、子規の画期的な歌論に横極的には反応しなかった。みな逃げ腰と思われた。そんな「弱虫」のなかにあってひとり「先生に張合って居た春園」が、のちに年長の盟友となる伊藤左千夫だとは、節には知る由もなかった。

その春園を含め、全国から質疑の手紙を寄せてきた青年らに向けて書かれた子規の稿「人々に答ふ」は、ことに刺激的であった。節はそれを、つぎのように要約した。


人を感動せしめた歌が決して名歌でない。都々逸は下品なものであるが女郎雲助を感動せしむるのは都々逸でなければならない。維新の志士と称するものの詩は、詩でなけれども書生の気を鼓舞するのはこの志士の詩に限って居る。真の名歌と称すべきものは、趣味を覚(さとつ)た文学者の頭で判断したものでなければならない。(同前)


歌論だけでは将があかない、作例を示そうと、ひきつづき明治三十一年二月二十七日から三月十日まで、連日のように「日本」に掲載された「百中十首」は、鳴雪、虚子、紺梧桐ら俳句の高弟と竹柏園主人こと佐佐木信綱が選歌した子規作品という体裁であった。

作歌は試みても、歌集など、古今集をはじめ見る前から嫌気がさすという節の記憶に、「百中十首」のなかの、たとえばつぎのような歌は深く刻みこまれた。さりげないのに忘れがたいのである。それは「写生」であった。


野分して塀倒れたる裏の家に若き女の朝餉する見ゆ


そんな節が、まる二年間子規庵訪問をためらっていたのは、子規の住まいがわからなかったからである。自分を無知だと断じきって、子規に会うことをおそれたからでもある。」(関川夏央、前掲書)

3月29日

衆議院議員選挙法改正。

有権者資格拡大。選挙人資格は直接国税(15円⇒)10円以上の納入者に引き下げ(被選挙人の納税資格撤廃)、1府県1選挙区の群部大選挙区と人口3万人以上の市を独立選挙区とする大選挙区制に。投票は単記無記名投票に。定員は300⇒369人となる。都市商工業者の政治的要求重視。

都市商工業者団体は、第13議会~第14議会、市の独立選挙区化を政府・議会に強く働きかける。1899年1月組織された衆議院議員選挙法改正期成同盟会は、「本会は我商工業者の権利を拡張し、参政権を完成せしむる為め、衆議院議員選挙法改正の決行を期するを以て目的とす」とうたい、会長渋沢栄一、幹事大倉喜八郎・安田善次郎らをすえる(渋沢以下は地租増徴期成同盟会と重なっており、地租増徴推進運動は、同時に選挙法改正推進運動でもある)。

第14議会に入ると、全国の商業会議所が運動をおこし、衆議院議員選挙法改正全国商業会議所連合委員会を結成し政府はじめ各方面に働きかける。同じ頃全国各市の市長・助役・市参事会員・市会議員らも運動をおこし、全国51市の総代から成る選挙法改正期成全国各市連合会を発足させる。こうした都市商工業者の運動に対し、憲政党星亨らは、憲政党が都市商工業者の支持を獲得する絶好の機会とみて、地租増徴推進と同じ論理から、市部独立選挙区化に奔走。

3月30日

スウェーデン探検家スウェン・ヘディンの第2回中央アジア探検隊(1899~1902年)、楼蘭の遺跡を発見。水が不足していたため発掘を後廻しにして、翌1901年3月初旬に再度楼蘭遺跡を訪れ、本格的な発掘を行い、多くの古文書や仏像を発掘。

3月30日

長塚節、二度目の子規庵訪問。

3月31日

ロシア、海軍大尉広瀬武夫、ペテルブルクより英独仏への視察旅行。~6月16日迄。

3月31日

ロシア・韓国、2つの秘密協定に調印。韓国は馬山浦湾に貯炭所と海軍病院の設置認可。露および他のいかなる列強にも韓国内の他の地域で同様の権益を認めないことに。

3月

漱石、熊本市北千反畑町78の旧文学精舎跡に転居。熊本で世帯を持ってから6度目の家。藤崎八幡宮の参道北側で、相撲の吉田司家の角屋敷から北三軒目にあたる。階下は、十畳、六畳、三畳の三間。階上は、八畳、四畳。八畳を書斎にする。(推定)「鶯も柳も青き住居かな」「菜の花の隣ありけり竹の垣」と詠む。


つづく


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