2024年10月29日火曜日

大杉栄とその時代年表(298) 1900(明治33)年9月9日~14日 子規庵で初めての「山会」 漱石、長崎に上陸、入浴と昼食 漱石と芳賀、上海に上陸、一泊する 「京都京極通りの趣あり・・・提灯の大さ吉原遊郭の古図を見るが如し」(芳賀)

 


大杉栄とその時代年表(297) 1900(明治33)年9月1日~9日 坪内逍遥「(小学校用)国語読本」 英、ボーア戦争勝利(トランスヴァール併合)宣言 但し、以降もゲリラ戦として戦争は続く 漱石、英国留学のため横浜より離日 藤代禎輔・芳賀矢一同行 より続く

1900(明治33)年

9月9日

子規庵で句会例会。初めての文章練磨の会「山会」を開いて写生文を唱える。松瀬青々・河東碧梧桐・坂本四方太・寒川鼠骨・岡麗ら集る。第2回「山会」は、9月30日に開く。


「九月九日は日曜日、定例の句会であった。参加者は子規を含めて十九人、隆盛である。子規は門人たちで混雑する座をたのしみつつ、同時にうっとうしくも思った。


鶏頭の十四五本もありぬべし  子規


この句を詠んだ座の終了後、ひきつづき文章会を持った。少しのち「山会」となる散文批評の会、その第一回であった。それはやがて「ホトトギス」の編集会議に発展する。」(関川夏央、前掲書)

9月9日

ハリケーン、テキサス沿岸直撃。ガルベストンの町が高潮に飲まれ、死者4千人超。

9月10日

西太后ら、太原城着。山西巡撫毓賢が出迎え。巡撫官庁を行宮とする。

10月1日、太原発。26日、西安着。10ヶ月滞在。

9月10日

漱石、関門海峡通過。


「九月十日(月)、体弱り苦しむ。午前十一時、喫煙室で奏楽を聞きながら、中根重一宛て手紙に、留守中の区役所その他の用事は、湯浅廉孫か土屋忠治に頼んで欲しいと伝える。午後三時頃、関門海峡を通過する。(船中では、朝起きると、紅茶(推定)、午前八時頃朝食、十二時に昼食、午後三時に紅茶(推定)、六時に夕食、九時頃紅茶(推定)である。ドイツ船ではあったが、コーヒーは出なかったらしい。)」(荒正人、前掲書)

9月11日

漱石、長崎着。上陸を許され、筑後町の迎陽亭で入浴と昼食


「九月十一日(火)、快晴。午前四時、夜の明けぬうちに長崎に着く。午前八時、朝食の席に就く。(推定)食事をおえて、小汽艇で大波止場に行き、一行と共に人力車で二百二、三十メートル行き(推定)、長崎県庁に馬淵鋭太郎(参事官)を訪ねる。鈴木兼太郎(参事官)も出て来る。三十分ほど話す。迎陽亭(長崎市上筑後町十八番地、現・玉園町、現在はない)に、人力車で約二キロ行く。入浴し、昼食をとる。しっぼく料理である。(推定)午後三時、人力車を列ねて、大波止場に向う。馬淵鋭太郎・鈴木兼太郎・池田賢太郎(技師)(推定)と共に、長崎県庁の小汽艇に乗り、 Preussen 号に赴く。四時三十分乗船する。五時出帆の筈であったが、水先案内人来ないので、九時に漸く出帆する。西洋人の女性多く乗り込む。熊本市で一度会った Mrs.Nott (ノット夫人)乗船する。長崎埠頭から出航する際、上海から入港してきた Hamburg (ハンブルク)号(三千二百七十八トン)で、「君が代」を奏したので、Die Wachtam Rhein (「ラインの護り」、ドイツ国歌)を奏する。「夜月色頗ル可ナリ」(日記)(満月は九日(日)である)」(荒正人、前掲書)

9月11日

上野駅と新橋駅の構内、公衆の自動電話が初めて設置。

9月11日

米・ペンシルバニア、炭鉱労働者15万人がストライキ開始。

9月12日

「明星」第6号発行。新聞型から雑誌型に変わり、表紙は一条成美(なるみ)の絵。この号より発行兼編集人鉄幹となる。与謝野鉄幹「子規子に与ふ」。子規に論戦を挑む。

16日、子規は、誤解によるものであろう、として、「ご面会の機を得て申上度候」と書簡を鉄幹に送る。両者が話し合い、歌の本筋でないところの対立の融和を図る。子規没後、新詩社対アララギの対立が鮮明になる。

9月12日

漱石、東シナ海を上海に向って進む。


「九月十二日(水)、晴。「夢覺メテ既に故郷ノ山ヲ見ズ」(日記)束支那海(東海)を上海港に向って進む。鞄に『几董集』と『召波集』を入れてきたけれど、周囲は西洋人なので読む気にならぬ。芳賀矢一のほか、一行船酔に苦しむ。そのなかで最もひどい。日本人だと思われる乗客がいたので話しかけると、香港生れのポルトガル人である。(神戸からも日本人女性が乗ったと思ったら中国人で、その夫と思われる人物はイギリス人である)」(荒正人、前掲書)


この日の漱石日記。


「横浜ヲ出帆シテ見ルト、右モ左モ我々同行者ヲ除クノ外ハ、皆異人バカリデアル。其中ニ一人日本人ガ居タカラ、是ハ面白イト思ツテ話ヲシカケテ見タラ驚イタ。香港生ノ葡萄牙人デアッタ。神戸カラモ一人日本人ガ乗タト思ツテ喜ンデ居ツタラ、是モ豈計ランヤ組デ、支那ノ女ニ英(イ)ギリスノ男ガツガツテ出来夕相(アヒ)ノコデアツタ。是カラ先モ気ヲツケナイト、妙ナ間違ヲシテシクジルヿ(コト)ガアル。注意々々」

9月13日

上海。この日、呉淞に着き小蒸気船で2時間ほどの上海へ向かう。

「九月十三日(木)、午前五時前に、呉淞に入港する。(長崎から約八百三十キロ)午前九時前、小蒸汽船 Bremen (ブレーメン)で、黄浦江を二時間潮り、上海に上陸する。(五キロ余り)揚子江(長江)に注ぐ黄浦江の河口で、日本軍艦「厳島」、少し溯ると「豊橋」、「摩耶」、「八重山」停泊する。「八重山」には、将旗掲げている。歩いて江北海関の税関で立花政樹(英文科の第一回卒業生)を訪ね、大いに喜ぶ。車をやとって長崎人某経営の日本旅館東和洋行(北蘇州路四十二号、金玉均の殺された場所である)に投じ昼食をする。四時三十分、立花政樹来る。一行と共に立花政樹の寄宿先旭館(日本旅館)で夕食に招かれる。芳賀矢一、食前酒にウィスキーとラムネを飲みながら、立花政樹たちと話す。階下で水夫たちの宴会あり、三弦の音響く。九時、公家花園(Public Gardenn)に行き、椅子に腰かけて、一、三曲聴く。南京路(大馬路)を通り、左折し九江路(四馬路)・漢口路(三馬路)を遊歩する。芳賀矢一、書店に寄り、「梨園叢書」の有無を聞いたところ、売っていないと答える。十一時、東和洋行に帰る。立花政樹、再び来てラムネを飲んで帰る。狩野亨吉宛葉書を出す。」(荒正人、前掲書)


「夢ニ入ル者ハ故郷ノ人、故郷ノ家。醒ムレパ西洋人ヲ見、蒼海ヲ見ル。境遇夢卜調和セザルヿ(コト)多シ」(13日付け日記)

立花政樹;帝国大学文科大学英文学科第一期生、漱石の帝大英文学科唯一の先輩。立花が3年の時、漱石がただ1人入学して英文学科は2人になった。


漱石と芳賀は13日呉淞に停泊上海に上陸して、清国上海税務司になっていた立花政樹を江海北関(芳賀は江北海関と誤る)に訪問したが、家屋宏大にて容易に分らず困却、東和洋行(長崎人経営の日本旅館)を教えられて午餐をとっていると立花が来た。立花の家(旭館。日本旅館)に行き夕餐を共にし大いに歓談した。午後9時、3人で公家花園(パブリック・ガーデン)に行き音楽隊の奏楽を聞いた。それより南京路・四馬路の遊技場・寄席・酒楼・書店を見た。漱石は「頗ル稀有ナリ」と書き、芳賀は「京都京極通りの趣あり・・・提灯の大さ吉原遊郭の古図を見るが如し」と記した

11時東和洋行に帰り、立花も来てラムネを飲んで別れた。

翌14日午前中は張園と愚園を観覧、東和洋行に帰り立花も来て午餐を共にする。食卓の上は常にパンカ(天井から吊るし綱で引いてあおぐ大うちわ)を動かして涼をとるので、立花に聞くと、税関でパンカを動かす人を雇う一日の賃金15銭という安さだった。午後3時小蒸気で本船に帰り、ロンドンに向かった。

9月13日

憲政党、伊藤博文の新党参加のため、解党決議。総務委員星亨より「自由党史」編纂提案。残務委員5名(末松謙澄・星亨・林有造・松田正久・片岡健吉)に委ねられる。

翌年、星が暗殺され、編纂は旧盟主板垣に委ねられ、監修者板垣の史観が色濃く投影。直接執筆者は宇田友猪・和田三郎。

9月14日

津田梅子は、麹町区5番町(現・千代田区5番町)に女子英学塾(後の津田英学塾)を設立し、開校式を行う。塾長津田梅子、顧問山川捨松、教師アリス・ベーコン。

9月14日

上海にいる漱石


「九月十四日(金)、朝、物売りの呼び声が高い。売り手も買い手も秤を使う。車は一輪車が多い。両側に人間や荷物を乗せて押して行く。人力車は、「東洋車」と云い、車夫はみんな浅黄の衣服を着ている。午前九時、一行は車を連ねて、南京路を西に二キロほど行くと左側に張園がある。園は頗る広い。蓮池や芝生もある。草木など日本と変りないが、松はない。広壮な西洋料理店や喫茶台もある。張園を出て約二キロ行くと、愚園に至る。入場料十銭。高楼が錯綜し、中国の古画を見る感じである。高楼の中間に小さい池があり、橋が架せられている。小さい建物のなかに入ると、名人の書画などを掲げ、喫茶台や喫煙台がある。紫檀の机である。演劇の舞台のある亭もある。亭長はしきりに茶を勧める。阿片を喫して眠る客もいる。廊下や壁間に飾ってある絵は、浅草の奥山のものに似ている。人工の巌石が多い。その傍らには、芭蕉が高く聳えている。(実際の芭蕉かどうかは分らぬ)愚園を一覧して、帰途につく。(芳賀矢一「留學日誌」)「愚園張園ヲ見ル愚園頗ル愚ナリ、」(日記)帰途、街路に柳や槐が植えてあり、日光を遮り、清涼の感を抱く。樹上に弱い蝉の声がする。東和洋行に戻り、立花政樹も共に昼食をする。パンタで扇いでくれるので涼しい。食後、中国人来て筆墨を勧める。芳賀矢一も購う。掛け値が甚しい。午後三時、一行は波止場に行き、小汽船 Bremen (ブレーメン)号に乗り、黄浦江を下って Preussen (プロイセン)号の停泊している呉淞まで行く。沿岸で漁夫が四つ手網で漁をしている。新しい旅客が乗り込んで来て、談話室や食堂は賑う。七時頃、見送り人たちは接吻をして立ち去る。夜、風が強くなる。」(荒正人、前掲書)


9月14日

仏、労働総同盟(CGT)、原則的にゼネスト戦術採択。


つづく

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