2024年10月24日木曜日

大杉栄とその時代年表(293) 1900(明治33)年7月11日~31日 8ヶ国連合軍、天津占領 アシャンティの蜂起(西アフリカ) ブラゴウェシチェンスクの大虐殺 漱石、留学準備のため帰京 3年ぶりに子規と面会 ロシア、歩兵5個師団の極東増派決定 伊藤新党の党名を立憲政友会とする    

 

ヤァ・アサンテワァの像

大杉栄とその時代年表(292) 1900(明治33)年7月1日~10日 キリスト教雑誌『新人』創刊 三井財閥、「二六新報」の軍門に下る 天津城攻撃作戦決定 堺利彦、天津に到着 第5師団(混成1個師団)派遣を閣議決定 より続く

1900(明治33)年

7月11日

シャム国王寄贈の仏骨の奉迎使、長崎に帰着。 

明治37年11月、名古屋の日泰寺に納骨。

7月12日

大杉栄(15)。三重県一志郡香良洲(からす)浦での遊泳演習に参加。

25日、遊泳演習終了。新発田の尾上町の家に帰省。

7月14日

8ヶ国連合軍、天津占領

8ヶ国連合軍の最初の正念場は大沽砲台・天津攻略戦。租界を攻撃していた清朝の正規軍、聶士成(じょうしせい)の武衛前軍や馬玉崑(ばぎょくこん)率いる武衛左軍と衝突したが、戦闘は連合軍が清朝側を圧倒。聶士成は戦死。7月14日に天津を占領。 直隷総督裕禄(ゆうろく)は敗戦の責を取って自殺。天津城南門上には、約4,000名の義和団・清朝兵の遺体があったという。

7月14日

英臨時代理公使、日本がさらに2万人の軍隊を清国に増派すれば、百万ポンドの財政援助をすると通告。

7月14日

津田梅子、女子英学塾(のちの津田塾大学)創立。

7月15日

永野重雄、誕生。

7月15日

ガーナのアシャンティ族から、クマシのイギリス守備隊救出(アシャンティの蜂起)。

英領ゴールド・コースト(西アフリカ地域)のイギリス帝国政府とアシャンティ王国との最後の戦い。

この戦争の結果、アシャンティ王国はイギリスの植民地アシャンティ保護国となる。しかし、アシャンティの独立は事実上維持され、イギリスの強力な植民地支配をほとんど受けることなく自主的な秩序構築がなされた。その後、英領ゴールドコースト植民地の独立時にアシャンティ地方も併合され、1957年に新たな独立国家となったガーナ共和国の領土として組み込まれる。

この頃、アシャンティ王国の自治州であった西アフリカ地域には地域の自治権を持つイギリス人とそれに従属する部族が混在しており、緊張した状態となっていた。

アシャンティがイギリスの統治に対して反抗を始めた際、イギリスは騒擾鎮圧を試みた。ゴールドコースト総督フレデリック・ミッチェル・ホジソンは、アシャンティ王国に対し黄金の床几(アシャンティ王国における王位と統治の象徴となるもの)の引き渡しを要求した。

1900年3月25日、フレデリック・ミッチェル・ホジソンは少数のイギリス兵と地元の徴収兵を率いてクマシに到着。ホジソンは集まったアシャンティの諸王と族長たちに向けて、黄金の床几をヴィクトリア女王が受け取るべきだと演説した、これは、アシャンティ王国の体現であり、アシャンティ王国民の象徴である床几に、外国人が触れ、汚そうとしていることであり、彼らにとってとても容認できるものではなかった。アシャンティ連合王国内の一国エジス王国の王母ヤァ・アサンテワァは「民族統合の象徴」と考えられていた黄金の床几がイギリスに接収されそうになったことに怒り、国内の男たちを集めた。王国民は怒り、多くの兵が志願した。ホジソンの代理として、セシル・ハミルトン・アーミテッジ大尉は床几を探し始めたが、待ち伏せする敵兵に包囲され、生き残ったイギリス兵はクマシのイギリス軍拠点へ撤退した。アシャンティ側は、イギリス軍の強固な要塞への突撃を回避して長期包囲戦を採用した。アシャンティ軍は敵兵を狙撃し、電信線を切断し、食料の供給を防いだ上で敵の救援軍を攻撃しようとした。

6月、救援隊700人が拠点に到着。ホジソンとその妻らは、数百人のハウサ族と共に、アシャンティ軍の包囲網から脱出し、救援隊と合流して逃走。アシャンティ軍主力12,000人が逃走阻止に招集されていたため、彼らの攻撃を避けながら逃走であった。

ホジソンがコーストに到着した頃、様々なイギリス軍・憲兵隊から引き抜かれた1,000人の援軍が西アフリカに集結し、ジェームス・ウィルコックス大佐の指揮下でアクラ(現在のガーナの首都)を出発していた。ウィルコックスの部隊はアシャンティと同盟を組んだいくつかの要塞から攻撃され、大きな被害を受けるながらも、7月初旬、ベクワイに到着し、クマシでの最終決戦に対する準備を進めた。

1900年7月14日、植民地軍に属するヨルバ人(ナイジェリアに住む民族)戦士を率い、ウィルコックスは四重に張られた防御柵の中に攻め込み、7月15日午後には、アシャンティ軍を要塞から駆逐した。

9月、ウィルコックスは反乱を支持したとされる近隣地域に分遣隊を派遣。9月30日、オバッサでの小競り合いでアシャンティ軍を倒し、ナイジェリアの先住民を使いながら以前自分たちが撃退されたココフの要塞や町を破壊し続けた。戦いは結局、アシャンティ軍の敗北で終わった。

クマシはイギリス帝国に併合されたが、アシャンティはおおよその自治権を認められた。彼らは植民地支配の権力にほとんど服従しなかった。アシャンティの人々は戦いの末、黄金の床几を守り抜いた。

しかし、その後、イギリスは王母ヤァ・アサンテワァはじめ多くの族長を逮捕し、セーシェルへと25年間追放した。その間、ヤァ・アサンテワァら多くが命を落とした。

クマシには今もこの戦いに対する記念碑や植民地支配に抵抗した際の名残が残っている。アシャンティと黄金海岸地域は、やがて独立国ガーナの一部となった。


7月16日

ブラゴウェシチェンスクの大虐殺(アムール河畔の惨劇)

満洲では、義和団事件を契機に満洲侵略を目論むロシア軍と清国軍が衝突していた。 アムール河(黒龍江) を哈爾浜(ハルビン) に向って航行中の軍需品を満載したロシア船舶が愛暉の河岸近くで清国兵に銃撃されたことに対してロシア軍の報復が始まり、1900年7月16日、ロシア領内にいた3千の清国人を老若男女を問わず虐殺してアムール河に投げ込んだ。 潜入中の陸軍大尉石光真清はこのときの惨状を 「惨殺死体が筏(いかだ) のように黒竜江(アムール) の濁流に流されれた」 と表現している。 この惨劇は、「ブラゴヴェヒチェンスクの大虐殺」、「アムール河の流血」 事件、「黒龍江上の悲劇」 として語り継がれている。 その後の露満国境でのロシア軍による清国軍掃討によって、その数1万とも2万5千とも言われる避難民が虐殺された。 

これを機に石光真清はハバロフスクへ去っている。

7月16日

唐才常ら、中国議会組織(上海)。

7月18日

足袋の丸福、福助人形のマークを商標登録する。

7月18日

または19日(不確かな推定) 漱石、留学準備のため帰京。中根宅へ。


「牛込矢来町の中根家の様子も一変していた。四月には矢来町の家を隠居所にしていた鏡子の祖父が亡くなり、父の重一も貴族院書記官長を辞して虎ノ門の官舎から引き移っていたからである。・・・・・浪人になった中根重一は、内証で相場に手を出し、すでにかなりの穴をあげていた。

そんな事情を知らずにいた金之助たちは、ひとまず以前祖父のいた中根家の離れに旅装を解いた。・・・・・年額三百円の留守宅手当は月割りにすると二十五円にしかならず、さらにそこから一割の建艦費二円五十銭を差っ引かれると手取りは二十二円五十銭にとどまった。これに加えて年額三円の所得税があるので、実際の月収は二十二円二十五銭にすぎぬこととなる。夫婦は、金之肋留学中の不足分を中根の父の補助に仰ごうとしたが、相場をしくじってあせっていた中根ははかばかしい返事をあたえなかった。このとき以来、金之助の留学費と鏡子の受ける休職給は、動かしがたい枠をはめられた。

この年、中根家の人々は金之助ら親子三人に留守を託して大磯に避暑に出かけだが、八月中旬にいたって末娘の豊子が赤痢のために急逝した。それにつづいて鏡子の母も赤痢にかかり、一時は重態になって中根家は憂色につつまれた。」(江藤淳『漱石とその時代2』)

7月19日

福島県吾妻山が噴火、硫黄製錬所の従業員ら50人が死亡。

7月21日

ロシア陸相クロパトキン、シベリア全管区に戒厳令。既に、ブラゴウェシチェンスク、ハバロフスク、ウラジオストクには布告済み。

7月23日

午後4時頃、漱石、子規庵を訪れる。子規は漱石の好きな西洋料理を馳走し9時ころまで話す。面会は3年前の9月4日の子規庵句会以来。

7月23日

パン・アフリカ会議開催(−7.25 ロンドン)。

7月24日

ロシア、歩兵5個師団の極東増派決定。極東総督アレキセーエフ中将を「北清派遣陸海軍司令官」に任命。ロシアの「満州討伐」開始。

7月24日

ニューオーリーンズで人種暴動.黒人街が焼き打ち.

7月25日

日本人特派員として始めて北京入りした「万朝報」堺枯川、第1報で戦争の悲惨さを伝える。

7月25日

中央西線、名古屋-多治見(岐阜県)間開通。

7月27日

独皇帝ヴィルヘルム2世、ブレーマーハーフェンでの演説で、清国派遣の独軍に義和団の乱を容赦なく鎮圧するよう檄をとばす。

7月27日

チューリッヒ連邦工科大学試験官管会議。アインシュタインの評点は理論物理、実験物理、天文学が5、函数論が5.5、卒業論文が、4.5である(最高点は6)。秋、ETHの助手職を得るため努力したが失敗。

7月28日

反義和団派・列強との協調を説く2大臣、処刑。

8月11日にも3大臣処刑。

7月28日

伊藤博文、伊藤巳代治に対し、新党結成問題(党名を立憲政友会とする、発起人の確定など)を憲政党星亨と打ち合わせるよう指示。

8月5日、伊東より返書。党名は合意。発起人は、伊藤派から西園寺公望・渡辺国武・金子堅太郎、憲政党から星亨・林有造・松田正久・末松謙澄、その他から長谷場純孝をあげる。伊東巳代治自身は入らず。当初、山県や憲政党との調整を伊東が差配してきたが、渡辺が割って入り、この伊藤派内の確執が原因。渡辺は仮創立委員長になる。

7月28日

オデッサでユダヤ教徒へのポグロム

7月28日

フィリピン、パテルノらにより「特赦祭」。

7月29日

伊、ウンベルト1世(1878−)、アナーキストにより暗殺。自由主義的なビットーリオ・エマヌエーレ3世即位(在位−1946)。

7月30日

英、清国合同の開平鉱務有限公司設立。

7月31日

ロシア軍リネウィッチ中将を総指揮官とする北京進攻のための軍議。ロシア側の要求で行動開始が延期(満州占領を睨んだロシアの画策)。

この頃、英国の要請もあり第5師団(山口素臣中将)が出動、師団主力は7月下旬にかけて天津に続々到着。

7月31日

戦艦朝日、竣工。

7月31日

西オーストラリア国民投票、条件付き連邦憲章改正草案承認。


つづく



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