2013年6月14日金曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(75) 「第8章 危機こそ絶好のチャンス-パッケージ化されるショック療法-」(その3)

江戸城(皇居)二の丸庭園 2013-06-11
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設立理念とはかけ離れた、正統派シカゴ・ボーイズからなるIMF・世銀の危機機会主義
 フリードマンは思想的にはIMFや世銀に反対だったかもしれないが、現実には彼の危機理論を実行に移すのに、これ以上適した機関はなかった。
80年代に多くの国が危機スパイラルに陥ったとき、頼れるのは世銀とIMFしかなかった。
だが実際に助けを求めたとき、これらの国々は正統派シカゴ・ボーイズの壁にぶち当たる。
彼らは経済的破局を解決すべき問題としてではなく、新たな自由市場経済のフロンティアを確保するために活用すべき貴重な「チャンス」とみなすよう、教育を受けていた。
こうした「危機機会主義」は、今や、世界で最も強力な経済機関の基本理念となっていた。
それは、これらの経済機関の設立理念に対する根本的な裏切りでもあった。

IMF・世銀の設立理念
 国連と同様、世界銀行とIMFは第二次世界大戦に対する直接的な反省から設立された。
1944年、ヨーロッパにファシズム台頭を許した過ちを二度とくり返すまいという決意のもと、連合国が新しい世界経済体制について協議するためにニューハンプシャー州ブレトンウッズに集まったときのことである。
IMFと世銀は、当初の加入国43ヶ国の資金によって運営され、ワイマール体制下のドイツ経済を大きく揺るがした経済的ショックや恐慌を二度と起こさないようにするという、明確な任務を負うことになった。
世銀は発展途上国を貧困から脱却させるために長期投資を行ない、IMFは金融投機や市場の不安定性を抑制する経済政策を促進することで、世界経済のショックアブソーバーのような役割を果たす。
経済危機に陥りそうな国があれば、IMFは経済安定化のための補助金や融資を提供し、危機を未然に防ぐ。
両機関はワシントンDCの同じ通りに向かい合って立ち、互いに連携を取りながら問題に対処する、ということになった。

イギリス代表団ケインズの確信
 イギリス代表団のリーダーとしてブレトンウッズ会議に参加したジョン・メイナード・ケインズは、市場の自己調整能力に任せることに伴う政治的危険について、世界はようやく認識したと確信した。
ケインズは会議の最後のスピーチで「そんなことが可能だと考えていた人はほとんどいない」と指摘し、もしこの両機関が設立理念に忠実であり続ければ、「人類愛は単なる言葉以上のものになるにちがいありません」と述べた。

コーポラティズム改革運動推進の主要手段となったIMFと世銀
 だがIMFと世界銀行が、その普遍的な理念通りに行動することはなかった。
設立当初から、この二つの機関の投票権の配分は国連総会のような一国一票制ではなく、個々の国の経済規模によって決められた。
その結果、アメリカはあらゆる主要な決定について事実上の拒否権を有し、ヨーロッパと日本はそれ以外の決定の殆どを左右する力を与えられた。
従って、80年代にレーガンとサッチャーが政権の座に就いたとき、きわめてイデオロギー的な二つの政権は基本的に自らの目的のために両機関を利用することが可能になった。
その結果、IMFと世銀は急速にその権力を増大させ、コーポラティズム改革運動を推進するための主要な手段となっていった。

ジョン・ウィリアムソン「ワシントン・コンセンサス」(1989)
 シカゴ学派による世銀とIMFの植民地化は暗黙のうちに進められたが、それを公にしたのは、1989年、ジョン・ウィリアムソンが発表した「ワシントン・コンセンサス」だった。
ウィリアムソンによれば、10項目から成る経済政策は、両機関が経済的健全さにとって必要な最低限の条件とみなすもの(「まともな経済学者であれば誰もが持っている共通の見識の中核をなすもの」)である。
専門的で議論の余地もないかのように装ってはいるが、ここには「国営企業は民営化されるべき」とか「海外企業の参入を妨げる障害は撤廃するべき」などといった大胆なイデオロギー的主張も含まれている。
リスト全体を見渡せば、これは民営化、規制撤廃・自由貿易、財政支出の大幅削減というフリードマンの新自由主義三原則以外の何ものでもない。
ウィリアムソンは、これらの政策こそ「ワシントンの権力者たちがラテンアメリカに受け入れを強く求めたもの」だという。
世銀の元チーフエコノミストで、新自由主義経済に反対する最後の砦たるジョセフ・スティグリッツはこう書く。
「自分の子どもがどうなったかをもしケインズが知ったら、草葉の陰でさぞ嘆くことだろう」

世銀とIMFの政策提言:急進的な自由市場経済導入の要求
 世銀とIMFは設立以来、融資を行なう際には必ず融資先の国に政策提言を行なってきた。
だが80年代初め、発展途上国の経済が危機的状況に陥るなか、こうした提言は急進的な自由市場経済導入の要求へと様変わりしていった。
危機に瀕して債務救済や緊急融資を求めてくる何に対し、IMFはシカゴ・ボーイズがピノチェトのために起草した経済プログラム”レンガ”や、ボリビアのゴニの自宅の居間で短期間のうちに作られた220の法律から成る政令にも匹敵する容赦ないショック療法プログラムをもって応じた。

IMFの「構造調整」プログラム
 1983年、IMFは本格的な「構造調整」プログラムを発表。
以後20年間、IMFは大規模融資を求めてきた全ての国に対し、経済の徹底した改造が必要だと言い続けてきた。
80年代を通じてラテンアメリカ、アフリカ諸国に向けた構造調整プログラムを作成してきたIMFの上級エコノミスト、デイヴィソン・ブドゥーはのちにこうふり返っている。
「一九八三年以降われわれがやったことは、何がなんでも南を「民営化」させるという新たな使命に基づいていた。この目的のため、われわれは一九八三~八八年にかけて、ラテンアメリカとアフリカに経済的混乱を引き起こすという恥ずべきことをやってきたのです」"

フリードマン流ショック・ドクトリンの容赦ない実施
 この過激な(かつ収益のきわめて高い)新しい使命を携えながら、IMFと世銀は常に、自分たちのやっていることはすべて安定化のためだと主張してきた。
IMFの公式の使命は依然として危機の防止(社会工学でも思想改造でもなく)であった以上、表向きには安定化を旗印に掲げる必要があった。
だが実際には、いずれの国においても、対外債務危機はシカゴ学派の政策を推進するために組織的に利用された。
そしてフリードマン流のショック・ドクトリンの容赦ない実施が伴った。

「構造調整」という概念そのものが独創的な市場戦略である
 著名なハーバード大学の経済学者で世銀にも大きく貢献したダニ・ロドリックは、「構造調整」という概念そのものが独創的な市場戦略であると指摘している。
「「構造調整」という概念を考案し、売り込みに成功した世銀は称賛に値する」と、ロドリックは1994年に書いている。
「この概念はミクロ経済改革とマクロ経済改革をワンセットにパッケージ化したものである。構造調整は、危機に陥った経済を救済するためにその国が実施する必要のあるプロセスとして売り込まれた。このパッケージを取り入れた政府にとっては、対外均衡と安定した価格を維持する健全なマクロ経済政策と、(自由貿易のような)開放性を決定する政策との区別は曖昧化される」

急進的な自由貿易政策は、深刻な経済危機以外の状況で行なわれたケースはない
 原理は単純だ。
危機に陥った国は、通貨を安定させるために、喉から手が出るほど緊急支援を欲しがっている。
民営化と自由貿易政策が経済的救済とワンセットになって提示されれば、それを受け入れる以外に選択の余地はない。
エコノミスト自身、自由貿易は危機の抑制となんの関係もないことを知っているのに、その部分はみごとに「曖昧化」されている。
ロドリックには自分の主張を裏づけるデータがあった。
彼は80年代に急進的な自由貿易政策を採用した全ての国を調査し、「一九八〇年代に発展途上国で行なわれた貿易改革のうち、深刻な経済危機以外の状況で行なわれたケースはひとつとしてない」ことを突きとめていた。

構造調整のウソ
 世銀とIMFは、ワシントン・コンセンサスに謳われた政策だけが経済の安定化、ひいては民主主義をもたらすことを世界中の同の政府がようやく理解したと公然と主張していた。
ところがワシントンの権力層の内部から、発展途上国が彼らの指示に従うのは、虚偽の主張と露骨な恐喝(「国を救いたければ、安価で売るしかないぞ」という)が行なわれているからにすぎない、と指摘する声が上がった。
しかも、民営化と自由貿易という構造調整パッケージの二つの柱が経済の安定化とは直接関係がなく、それがあるかのように主張するのは、「悪しき経済学」だという。

アルゼンチンの例:ペロン党のカルロス・メネムへの期待と彼の変節
 この時期のIMFの”優等生”だったアルゼンチンは、新秩序のメカニズムを知るうえでも格好の例を提供してくれる。
ハイパーインフレによってアルフォンシン大統領が辞任に追い込まれたあと、政権の座に就いたのはペロン党の州知事カルロス・メネムだった。
革のジャンパーにもみあげを生やしたメネムは、いまだに暗い影となって同国にのしかかる軍と債権者に立ち向かうタフさを持ち合わせているように見えた。
長年、ペロン党と組合運動を排除するために暴力的な策謀がくり返されてきたアルゼンチンに、今や組合を支持し、フアン・ペロンが推進した民族主義に基づく経済政策の復活を公約する大統領が誕生したのだ。
国民の熱狂は、かつてボリビアでパス・エステンソロ政権が誕坐したときを彷彿とさせるものだった。

 だがその後メネムがたどった変節も、パス・エステンソロを思わせた。
就任から一年後、lMFからの強力な圧力に屈したメネムは大胆にも”ブードゥー政治”へと舵を切った。
独裁政権に反対してきた政党のシンボルとして大統領に選出されたメネムは、ドミンゴ・カバージョを経済相に任命する。
カバージョは軍政下で企業部門の債務を救済し、文民政権への置き土産を残した責任者にほかならない。
彼を任命したことは、新政権が軍政下で開始されたコーポラティズム実験を再開し、継続することを示す明白な「合図」だった。
ブエノスアイレスの株式市場はこれを大歓迎し、この人事が発表された日に株価は30%も急騰した。

 カバージョ経済相はただちにイデオロギー的補強に乗り出し、かつてのミルトン・フリードマンやアーノルド・ハーバーガーの教え子を次々に政府の要職に起用した。
経済関係のトップポストは事実上、すべてシカゴ・ボーイズで占められた。
中央銀行総裁にはIMFと世銀の両方で働いた経験のあるロケ・フェルナンデス。
中央銀行副総裁には独裁政権で重要ポストに就いていたシカゴ・ボーイズの一人、ペドロ・ポウ。
中央銀行首席顧問にはそれまでIMFで元シカゴ大学教授マイケル・ムッサのもとで働いていたパプロ・グイドツティ、という具合である。
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