コムラサキ 北の丸公園 2014-09-05
*私はもし誰かにあなたの好きな作家はと問われれば、躊躇することなく永井荷風とこたえるだろうし、荷風のなかで好きな作品はとかさねてたずねられれば、恐らく三つのうちの一つとして『すみだ川』を挙げるだろう。
最初に私が荷風作品に接したのは、春陽堂から刊行された一冊一円の文学全集 - 当時の言葉でいえば円本のひとつである「明治大正文学全集」の第二回配本として入手した第三十一巻の『永井荷風』篇で、いほその奥附をみると昭和二年七月の出版だから、中学四年生の夏ということになる。そして、その一冊には『腕くらペ』、『ふらんす物語』、『冷笑』、『日和下駄』、『すみだ川』、『紅茶の後』、『聯瑚集』がおさめられているが、そのうちの何篇を読んだものか、もはや記憶にはない。が、いずれにしろ少年の日の私の心をとらえたのは『すみだ川』と『日和下駄』の二篇で、『すみだ川』には、文学的感銘のほかにもきわめて私的な理由で惹かれるものがあった。
「わたくしの言はむと欲する所は、隅田川の水流は既に溝瀆の汚水に等しきものとなったが、それにも係らず旧時代の芸術あるがために今も猶一部の人には時として幾分の興趣を催させる事である。」(小品文『向嶋』昭和二年六月)。
この江戸粋人の流れをくむ衰残の老詩人ともいうべき余計者の典型である蘿月は、荷風ごのみの存在で、『新橋夜話』中の一篇である『松葉巴』の多町の隠居、『うぐひす』の小林、『腕くらペ』の倉山南巣と講釈師の楚雲軒呉山などにも再現三現される。そして、『つゆのあとさき』の老漢学者・清岡熙や『ひかげの花』の元電気工場主・塚山のような人物をも造型させているが、『すみだ川』は蘿月が小梅の自宅を出て対岸の今戸に住む妹のお豊をたずねて行くところからはじまる。
大正四年十一月、籾山書店から出版された『日和下駄』の序文に、《見ずや木造の今戸橋は蚤(はや)くも変じて鉄の釣橋となり、》といまいましげに書いている。
『すみだ川』が執筆されたのは五年弱に及ぶ在外生活から帰朝後の明治四十二年ながら、荷風は三十六年九月に渡米しているので、昭和十年十一月に出版された小山書店版『すみだ川』に附された序文では、「小説すみだ川に描写せられた人物及び市街の光景は明治三十五六年の時代である。」とことわられている。」
自然主義文学が日露戦争の戦後文学であることをおもえば、荷風が特に「明治三十五六年の時代」をえがいたといっていることにも日本自然主義への対立意識がうかがわれて、軽く読みながすわけにはいかぬものがある。
《外国から帰って来た其当座一二年の間は猶かの国の習慣が抜けないために、毎日の午後といへば必ず愛読の書をふところにして散歩に出掛けるのを常とした。然しわが生れたる東京の市街は既に詩をよろこぶ遊民の散歩場ではなくて行く処としてこれ戦乱後新興の時代の修羅場たらざるはない。其中にも猶わづかにわが曲りし杖を留め、疲れたる歩みを休めさせた処は矢張いにしへの唄に残った隅田川の両岸であった。(略)既に全く廃滅に帰せんとしてゐる昔の名所の名残ほど自分の情緒に対して一致調和を示すものはない。自分はわが目に映じたる荒廃の風景とわが心を傷むる感激の情とを把ってこゝに何物かを創作せんと企てた。これが小説すみだ川である。さればこの小説一篇は隅田川といふ荒廃の風景が作者の視覚を動したる象形的幻想を主として構成せられた写実的外面の芸術であると共に又この一篇は絶えず荒廃の美を追究せんとする作者の止みがたき主観的傾向が、隅田川なる風景によって其の抒情詩的本能を外発さすべき象徴を捜(モト)めた理想的内面の芸術とも云ひ得やう。さればこの小説中に現はされた幾多の叙景は篇中の人物と同じく、否時としては人物より以上に重要なる分子として取扱はれてゐる。それと共に篇中の人物は実在のモデルによって活ける人間を描写したのではなくて、丁度アンリィ、ド、レニヱエがかの「賢き一青年の休暇」に現したる人物と斉(ヒト)しく、隅田川の風景によって偶然にもわが記憶の中に蘇り来った遠い過去の人物の正に消え失せんとする其面影を捉へたに過ぎない。》
これは大正二年三月、籾山書店から出版した『すみだ川』第五版の序文で、私が自然主義文学への対立意識といった意味もこめられているかと思うが、単に『すみだ川』一作の成立事情が理解されるばかりではなく、ここから荷風文学全般の発想の過程がうかがわれるために、あえて長文をもいとわず引用した。
が、十三歳で岡不崩について絵画を学んだ彼の浮世絵に対する造詣には、その深さにおいて常識の水準をはるかに抜くものがある。数多くの散策記を挙げるまでもなく、彼が創作にあたって背景の選択にどれほど心をくだいているか、何はともあれ現地を自身の眼でみるという姿勢を終始持続したことにおもいをかよわせれば、生物的人間像としてはともかく、やはり視覚型の作家とみるべきではないのだろうか。
右の引用にもどっていえば、絵画的表現によって視覚に訴えることを重視した荷風は、方法論上の問題として、登場人物の心理ないし心境をも風景に仮託することを辞さぬ態度をこのころすでに確立しているわけだが、風景観察に彼がいかに重点をおいていたかは、『すみだ川』の叙景が《時としては人物より以上に重要なる分子として取扱はれてゐる。》とのペ、さらに《篇中の人物》が《風景によって偶然にもわが記憶の中に蘇り来つた》といっていることによって明らかである。
『日和下駄』の第四章『地図』のなかでも彼はいっている。
《実際現在の東京中には何処に行くとも心より恍惚として去るに忍びざる程美麗な若しくは荘厳な風景建築に出遇はぬかぎり、いろいろと無理な方法を取り此によって纔(ワズカ)に幾分の興味を作出さねばならぬ。然らざれば如何に無聊なる閑人の身にも現今の東京は全く散歩に堪へざる都会ではないか。》
これほどまで、風景に拘泥している。ここに彼が「われは生れて町に住み」とうたって、晩年に至るまで好んで市中を散策したことの原動力と、作品創造の詩人的発想の秘密を解く重要な手がかりが蔵されている。
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