2015年1月29日木曜日

明治38年(1905)3月6日~11日 「万朝報」「毎日新聞」、塩専売など4悪法廃止を主張。 奉天占領(死傷:日本7万、ロシア6万) 漱石の明治大学での講演「倫敦のアミューズメント」

マンサク 2015-01-29 北の丸公園
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明治38年(1905)
3月6日
・午前8時過ぎ、ロシア南下部隊(「レーシ隊」)、大転湾橋を攻撃。
第3軍第1師団第27連隊(竹迫弥彦中佐)が守備する柳家寯棚は混乱。第2大隊(宇宿格輔少佐)が援軍に向うが、途中で攻撃されて目標地点に到着出来ず。
正午頃、第9師団は大石橋に到着。
午後1時、柳家寯棚に第2大隊第8中隊の3個小隊がようやく到着。ついで、第7師団第28連隊第2大隊第5・8中隊が来援。
午後4時30分、第28連隊第7中隊、第25連隊第1大隊も来援。
午後5時、「レーシ隊」は退却。
損害:「レーシ隊」1,700、第27連隊541(うち戦死202)。
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3月6日
・「万朝報」、「毎日新聞」と共に塩専売・米籾輸入税・織物消費税・市内通行税の4悪法廃止を主張し、国庫による百三十銀行救済、特に北海道上川兵営建築費不当支出を取上げ、政府の無責任を追及。

 「政府の横暴放恣斯くの如くにして已まずんば、一旦、外難去りて常時に復するの瞬間、我が国民は彼等を以て露軍に次ぐの仇敵なりと為し、多年の鬱憤積怨忽ち彼等の頭上に爆発」するであろうとを予告。
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3月7日
・第2軍第3師団大島義昌中将、干洪屯攻略決意。
午前5時、第5旅団(南部辰丙少将)第6・33連隊、前進。
天明の頃、第6連隊は三軒屋を、第33連隊(吉岡友愛中佐)は干洪屯を攻略。ロシア軍の猛反撃。
午前9時20分過ぎ、来援のロシア軍が干洪屯に移った第6連隊を包囲、侵入。第6連隊の死傷者増える。
午前10時、第33連隊第3大隊長早川新太郎少佐負傷。
午前11時、第6連隊第1大隊長国弘栄一少佐が来援したとき、第2大隊長大越謙吉少佐・第3大隊長北川為吉少佐は負傷、国弘少佐が全体指揮をとる。三軒屋の第33連隊将校は殆ど死傷。援軍も銃弾をうけ到着は僅か、李官堡への伝令も帰還せず。
午後1時30分、三軒屋へロシア軍の攻撃。第33連隊長吉岡中佐が迎撃指揮。
午後2時20分、吉岡中佐が戦死し、三軒屋守備隊は一部が李官堡へ、大部が干洪屯へ退却。
午後3時、干洪屯の生存者400に減少、第6連隊長竹内少佐負傷。
午後8時頃、第18連隊第9中隊が来援。暗夜を迎えてロシア軍の攻撃減少。
午後9時、第33連隊の残兵266と第6連隊第8中隊60が干洪屯に増派。第3師団長大島中将は干洪屯放棄を決意(もし夜襲を受ければ、第3師団の半数が消失する可能性あり)。
ロシア側死傷5,484。日本側3,899(第6連隊1918・77%、第33連隊・83%)。

第3軍、進撃(北から、第1、第9、第7師団の順)。
午前9時前、第9師団(大島中将)第18旅団(平佐良蔵少将)第19連隊(山田良水中佐)は造化屯西北の蒲河畔に到着。この時、造化屯よりロシア軍の猛攻。これにより、第9師団左翼隊は前進を停止、これが右翼隊や第7師団の行動も制止させる。
午後1時30分、第1師団は奉天~法庫門街道の三台子北方の董家台に到着するが、第9師団の停止を知り停止。造化屯の第19連隊へ第36連隊第3大隊が派遣、第19連隊と並んだときには、兵力は1/3が失われている状況。
午後4時過ぎ、第9師団右翼隊・第6旅団長一戸兵衛少将は、ロシア軍の反応に変化を読み取り、午後4時30分、ロシア兵の退路を絶つため、第7連隊(野溝甚四郎中佐)に転湾橋と造化屯に向わせる。野溝中佐は途中負傷。砲撃で造化屯に火災が発生、これを機に第19連隊が突進。第9師団に右接する第7師団(大迫尚敏中将)も進撃。左翼隊・第13旅団第25・26連隊は第9師団第7連隊と直結して転湾橋に進む。
日没直前、転湾橋に火災、ロシア兵が退却し、第25・26連隊が転湾橋を占領。
午後7時頃、第19連隊と第7連隊第2大隊が造化屯に突撃するも、敵前50mで挫折。

第1師団の東清鉄道破壊活動。2グループが線路など破壊。
文官屯南方の鉄道爆破は、直ちに修復されたものの、文官屯では日本軍来襲の情報がロシア軍を恐慌状態にさせる。撤退のための放火の炎が奉天からも望見でき、不安が増加する。

第4軍第10師団の正面のロシア軍、朝から退却準備が観測される。
第4軍の東側の第1軍でも第12師団正面でも退却する兵が望見される。
近衛師団右翼には、赤十字旗を掲げた兵士が現れ、死傷者収容を要請、休戦を提議。
夜、第1・4軍には、敵陣の静寂化・火災発生の情報が相次ぐ。
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3月8日
・午前11時、ロシア軍退却に関する第1軍(黒木大将)の情報に基づき、全軍に攻撃下命。
この日の戦闘は第3軍戦線(第9・7師団主流)のみ。
第7師団(大迫尚敏中将)右翼隊・後備第15旅団(松居吉統大佐)は夜明け前に程三家子を出発するが、後丁香屯手前でロシア軍警戒線にかかる。
午前9時頃、後丁香屯北側墓地の戦い。
後備第15旅団戦死522・戦傷524・捕虜10の大敗、退却。左翼隊・第13旅団(吉田清一少将)は八家子が攻略されたものと信じて小韓村に進撃。途中、八家子のロシア軍から攻撃される。第26連隊第3大隊(山内正生少佐)が応戦するが死傷者続出。
午前10時過ぎ、第9師団(大島久直中将)第6旅団(一戸兵衛少将)第35・7連隊が八家子に進出。八家子手前でロシア軍に攻撃され、第1線の第35連隊に死傷者続出。後続の第7連隊の一部が増派され、午後0時40分、第9師団第6旅団第35連隊第2大隊と第7師団第26連隊第3大隊が突撃。ロシア軍砲撃により攻撃停滞。この時、八家子守備隊長ザボリスキー大佐が戦死、ロシア兵は大韓屯へ退却開始。第9師団第18旅団(平佐少将)第36連隊は大韓屯を攻撃。隣接の第7師団第13旅団は小韓屯をめざす。

午前8時、第3軍第1師団(飯田俊助中将)第1旅団第15連隊(戸枝中佐)は四台子を発ち三台子へ、同第2旅団第2連隊は田義屯から文官屯をめざす。第15連隊は三台子の北のはずれを確保するが、ロシア兵の反撃激しく三台子には至らず。飯田中将は第15連隊の現状維持、第2連隊の攻撃中止を命じる。
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3月8日
・居留民団法公布。鉱業法公布。鉱業条例廃止。
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3月9日
・東部の第1軍と中部の第4軍はロシア軍を追撃、西部の第2・3軍はロシア軍を攻撃。
第3軍第1師団は三台子攻略支援に後備第1旅団(隠岐重節少将)後備第1連隊・第16連隊をその左側に連結して進撃させる。
午前8時30分、第2旅団(中村正雄少将)第2連隊は観音屯へ進撃、第1線第3・2大隊は半数近くの死傷者を出し攻撃停止。後備第1旅団は砂塵の中で文官屯を攻撃。同後備第1連隊長余語征清中佐は負傷。午後1時、同後備第16連隊(新名幸太中佐)は砂塵の中から現れたムイロフ攻撃隊(5個連隊)に奇襲される。後備第16・1連隊は田義屯に壊走。同時に、右側に隣接する第1師団第2旅団(中村正雄少将)にも波及し、これも退却・壊走。後備第1・第15・16連隊の残兵は夫々262、160、286人のみ。
午後5時、ロシア軍が再度第1師団左翼を攻撃。第1師団損害2,358(内戦死747)・後備第1旅団死傷1,939(内戦死761)、第3軍全体死傷5,470(内戦死1,753)の80%。

奉天全域に砂嵐、各所混乱。
午後1時30分、第12師団左翼第14連隊(竹下平作中佐)は砂塵をおして渾河をこえ、北方の護山堡にむけて追撃。また、近衛師団(浅田信興中将)・第4軍第10師団(安東貞美中将)も砂塵の中を渾河を渡河し追撃。近衛・第12・10師団はロシア第1軍に楔をうつ形になる。
午後5時30分、クロパトキン大将は参謀長サハロフ中将に総退却命令。
夜、クロパトキン、奉天駅より脱出、北方虎石山に向う。
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3月10日
・奉天占領。ロシア軍退却。
日本死傷70,028。ロシア側死傷60,093、捕虜21,792、失踪7,638。
開戦以来の日本軍動員数2,084,178
(明治38年男性人口23,421,000で、兵役人口は8,000,000と想定)
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3月10日
・ロシア政府、北海事件賠償金6万5千ポンド支払、落着。
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3月11日
・この日、漱石は明治大学で「倫敦のアミューズメント」と題した講演を行う。
「鶏の蹴合(けあい)」というロンドンの娯楽を紹介している時、奉天占領を告げる号外の鈴の音が鳴る。

この時の講演記録

 御承知の通り鶏の蹴合の運命にも余程消長がありまして、或時は非常に流行り、或時は非常に流行らなかったと言ひまする、彼(か)の「クロムエル」などといふ先生が出た時は鶏を蹴合はせるは怪しからぬ、止めて仕舞へと云って鶏を一羽も蹴合せなかったといふ、(此時校外へ号外売来る)、所へ号外が来た、(笑声起る)、どうもアンなものが来るといふと、奉天の方が面白いですからな、鶏の蹴合より日本と露西亜の蹴合ってる方が余程面白いです、(笑声起る)、何処をやってるんだか一向分らない、鶏の蹴合ですな、

漱石は、日本とロシアとの戦いを「鶏」と「鶏」との蹴合いに見立てた。
これは、日露両国が満州・韓国の利権を争った日露戦争の本質をよくとらえている。彼は、日露戦争を、義(日本)と不義(ロシア)の戦いとも、祖国防衛のための戦争とも考えていない。
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3月11日
・米、ルーズベルト大統領、在米元法相金子堅太郎に祝電。奉天開城の報に、各国新聞はロシアの和平調停申入れを論じる。ロシア紙「ノウォスチー」も終戦を訴え。
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