2015年1月31日土曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(117) 「第18章 吹き飛んだ楽観論-焦土作戦への変貌-」(その1) : 「自由貿易は「前代未聞の富を創出」したが、「多くの人々に対して即座にマィナスの影響」を及ぼした。それは「労働者の解雇を必要とするとともに、国際貿易への市場開放は伝統的小売業者や貿易の独占業者に対する膨大な圧力となった」。こうした変化すべてが「収入格差の拡大と、社会的緊張の増大」をもたらし、その結果・米企業に対するテロ攻撃を含むさまざまな攻撃へとつながる可能性がある・・・」

北の丸公園 2015-01-29
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第18章 吹き飛んだ楽観論
-焦土作戦への変貌-

イラクは中東最後の大いなる末開拓地だ。(中略)イラクではこれまでに掘削された油田の八割で石油が発見されている。
 -デイヴィツド・ホーガン、アイルランド石油企業ペトレル最高経営責任者(二〇〇七年一月)

イラクでの負の結果招来を事前に認識していた人物:イラク政策の実行者ポール・プレマー
 二〇〇一年二月にテロ対策企業クライシス・コンサルティング・プラクティスを立ち上げた際、彼(プレマー)はクライアントに向けた事業趣意書のなかで、なぜ多国籍企業が国内外でテロ攻撃にさらされるリスクが増大しているのかを説明している。

 「国際ビジネスにおける新たなリスク」と題するこの趣意書によれば、クライアントであるエリート企業が直面する脅威が拡大している原因は、それらの企業に莫大な富をもたらした経済モデルにあるという。自由貿易は「前代未聞の富を創出」したが、「多くの人々に対して即座にマィナスの影響」を及ぼした。それは「労働者の解雇を必要とするとともに、国際貿易への市場開放は伝統的小売業者や貿易の独占業者に対する膨大な圧力となった」。こうした変化すべてが「収入格差の拡大と、社会的緊張の増大」をもたらし、その結果・米企業に対するテロ攻撃を含むさまざまな攻撃へとつながる可能性があるというのである。

軍事的・経済的ショック療法をあてにしたアーミテージの誤算
 イラクにおける軍事的および経済的ショック療法の筋書きをもっとも端的に述べているのは、リチャード・アーミテージ元国務副長官だ。

 いわく、イラク国民はアメリカの軍事力に圧倒されると同時にフセインがいなくなったことに心底から安堵するはずだから、「A地点からB地点へと容易に導くことができるだろう」と。そして数ヵ月もすれば、戦後の混乱から立ち直ったイラク人は、アラビア版シンガポールの世界 - 市場アナリストたちは興奮気味に「チグリスの虎」と呼んだ - を嬉しい驚きとともに享受するだろうという。

 ところが予想に反して、多くのイラク人は戦後ただちに自分たちの国をどう改革するかについて、発言権を要求した。そしてこの予想外の展開に対するブッシュ政権の対応が、最大のしっぺ返しを招くことになったのである。

破棄された民主主義
 イラク国民の民主主義への熱狂とプレマーの経済政策に対する明確な反対表明が、ブッシュ政権を困難な立場へと追いやることになった

 イラク侵攻後の二〇〇三年夏、バグダッド市民は日々の困難に見舞われながらも政治参加への熱い思いをたぎらせ、街は祝祭的とも言うべき熱気であふれていた。・・・

 夏の間、グリーンゾーンのゲートの外では連日抗議デモが行なわれたが、参加者のほとんどは職場への復帰を要求する労働者だった。新たに創刊された何百もの新聞は、プレマーや経済政策への批判記事を紙面に満載した。金曜礼拝では宗教指導者が説教のなかで政治に言及した・・・

 ・・・市民の熱狂を集めたのは、国内各地の市町村で自然発生的に始まった選挙だった。・・・人々は自ら市民集会を開き、新たな時代における市民代表者としてのリーダーを選出した。サマラ、ヒラ、モスルなどの各都市では、宗教指導者、世俗派の各専門家、部族代表者らが集い、宗派対立や原理主義台頭といった最悪の事態を招かないよう、地元の復興を優先することで一致団結した。・・・

 多くの場合、米軍もこうした動きを後押しした。イラクに軍隊を送ったのは民主主義を広げるためだというブッシュ大統領の言葉を信じ、米軍は投票箱を作るまでして選挙の実施に手を貸した。

民主主義実現の約束を反故にし、南米方式に回帰する
 アメリカ政府は、占領開始から数ヵ月以内に国民が選出したイラク新政府に権限を移譲し、政策決定には即イラク人を参加させるという思い切った約束をしていた。

 ところがその占領後最初の夏、・・・イラク国民の経済ナショナリズムが - とりわけ貴重な国家財産とみなされている石油資源に関しては - あまりに強固であることが明白になったのだ。
そこで米政府は民主主義実現の約束を反故にしたばかりか、ショックのレベルをさらに引き上げるよう命じた。・・・

 この決断によって、完全な自由市場経済を目指す改革運動は、その出発点である南米諸国で採用された方式へと回帰することになる。民主主義を暴力で抑え込み、反対する者を片っ端から連行して拷問を与えることによって経済ショック療法を強行する、という原点に立ち戻ったのである。

「暫定評議会」構想から「統治評議会」構想へ縮小し、更に「統治評議会」から統治権限を剥奪する
 プレマーがバグダッドに赴任した時点でのアメリカ政府の計画は、イラク社会のあらゆる部門の代表を集めた大規模な制憲議会を招集し、イラク人代表者に暫定評議会のメンバーを選出させるというものだった。ところがバグダッドに到着してわずか二週間後、プレマーはその構想を破棄し、「イラク統治評議会」のメンバーを自ら選ぶことを決定する。

 さらにプレマーは、イラク統治評議会に統治権限を持たせるという当初の考えもまた途中で覆した。のちに彼は、・・・評議会のメンバーは議論ばかりしていてちっとも先に進まなかったと説明している。

地方選挙中止を命じ、米軍が市町村指導者を任命
 赴任からわずか二ヵ月目の六月末、プレマーは地方選挙をただちに中止するように指令を出す。
統治評議会メンバーと同じく地方自治体の指導者も占領当局が指名するという新たな決定が下された。
これによって、イラクの最大宗派であるシーア派の聖地ナジャフで決定的な対立が生じる。
ナジャフでは米軍の協力を得て市全体の選挙を行なう準備をしていたが、選挙登録日の前日になって責任者の米軍中佐のもとにジム・マティス海兵隊少将から電話が入った。「選挙は中止しなければならなかった。プレマーは反米イスラム教徒の候補者が勝つことを懸念していた。・・・安全と思われるイラク人グループを選んで、その連中に市長を決めさせるようにとの指令が海兵隊に入っていた。・・・」と、『ニューヨーク・タイムズ』紙記者マイケル・ゴードンとバーナード・トレイナー元海兵隊中将は、イラク侵攻のもっとも信頼できる軍事的分析とみなされる共著書『コブラⅡ』のなかで書いている。
けっきょく米軍はフセイン時代に陸軍大佐だった人物をナジャフ市長に任命し、イラク全土のその他の市町村でも同様に指導者を任命した。

*アメリカの掲げる「バース党解体」がイラク国民の激しい怒りを招いた理由のひとつはここにあった。下級兵士全員が職を失い、出世するためには党員にならざるをえなかった教師や医師も解雇された一方で、それまでさんざん人権を蹂躙してきたバース党の軍高官に、市町村に秩序をもたらす役割が与えられた。

私は民主主義に反対しているわけではない(プレマー)
 プレマーは、民主主義を「全面的に禁止するようなことはいっさいなかった」と主張する。
「私は民主主義に反対しているわけではない。ただ、われわれの懸念を考慮に入れたやり方を取ろうとしただけだ。(中略)選挙を拙速に行なえば、破壊的な影響が出る恐れがある。慎重に行なわなければいけない」

イラク国民の最後の望み、国政選挙も白紙撤回
 プレマーは地方選挙の中止を命じたあと、二〇〇三年一一月に帰国してホワイトハウスでいくつかの秘密会議に出席し、バグダッドに戻ってくると国政選挙の白紙撤回を発表した。イラク初の「主権」政府は、国民の選挙ではなく任命によって決められるというのだ。

共和党国際研究所の調査結果
 この一八〇度の方針転換は、同時期にワシントンに本部を置く共和党国際研究所がイラクで行なった調査結果と関係がある可能性が高い。
 もし投票できるとしたらどんな政治家を選ぶかという質問に対するイラク国民の回答・・・。四九%のイラク人が「公務員の職を増やす」と公約した政党に投票すると答えたのに対し、「民間部門の職を増やす」と公約した政党に投票すると答えた者はたった四・六%だった。「治安が回復するまで連合国軍がとどまる」ことを公約した政党に投票すると答えた者もわずか四・二%にすぎなかった。

 要するに、もしイラク国民が次の政府を自由に選ぶことができ、その政府が実質的な権力を握れば、米政府はこの戦争の大きな目的のうちの二つ - イラクに自由に米軍基地を展開すること、そしてイラクをアメリカ多国籍企業のために全面的に開放すること - を達成できなくなるということだ。

プレマーの反民主主義的政策と反米武装勢力による攻撃激化の関係
 占領後イラクに赴任した国連外交官のサリム・ローンは、プレマーが最初に下した反民主主義的な決断がきわめて重要な意味を持っていたとふり返る。

「イラクで最初に外国人が大規模な攻撃を受けたのは、二〇〇三年七月にアメリカが最初のイラク人による指導機構である統治評議会のメンバーを選んだ直後のことだ。ヨルダン大使館が爆撃され、次にはバグダッドの国連事務所が爆破されて罪のない多くの人が死んだ。(中略)評議会メンバーの構成と、国連がその評議会を支持したことへのイラク国民の怒りが明らかに感じられた」と、このときの攻撃で多くの友人や同僚を失ったローンは言う。

裏切られたシーア派
 プレマーが国政選挙を白紙撤回したことは、イラクのシーア派にとって苦々しい裏切りだった。フセイン時代に何十年にもわたって弾圧されてきたシーア派は国内の多数派であり、選挙が行なわれれば勝利は確実だったからだ。当初はそのシーア派の抗議行動も、平和的なデモ行進という形を取っていた。バグダッドでは一〇万人、バスラでは三万人がデモに繰り出し、・・・。

 イラクのシーア派指導者ナンバー・ツーであるアリ・アブドゥル・ハキム・アルサフィはブッシュ大統領とブレア首相に宛てた書簡のなかで、「この移行プロセスにおける私たちの主要な要求は、任命ではなく選挙によって立憲政府を成立させることです」と書き、プレマーの計画は「ひとつの独裁体制を別の独裁体制と入れ替えることにほかならず」、もし米英がそれを強行すれば、勝ち目のない戦いに直面することになるだろうと警告している。だがブッシュとブレア・・・はイラク市民のデモ行進を民主主義が開花した証だと称賛する一方で、イラク新政権を任命する計画を強引に推し進めたのだ。

サドル師の影響力増大
 シーア派内の他の主要グループは任命による暫定政権に参加し、占領当局が起草した暫定憲法を甘受することを決めたが、サドル師はそれに反旗を翻して占領当局のやり方や暫定憲法を正当性を欠くものだと非難し、プレマーを公然とサダム・フセインになぞらえた。これと並行して、(ムクタダ・アル・)サドル師はマフディ軍の増強にも本腰を入れた。平和的な抗議がなんら功を奏さないことがわかると、少なからぬシーア派信者は、多数決による民主主義を実現させるためには実力で戦い取るしかないと確信するようになる。

 もしプッシュ政権が、イラク国民が選んだ政府にただちに主権を移譲するという当初の約束を守っていれば、抵抗勢力の反乱も全土に広がることなく小規模にとどまった可能性は十分にある。・・・したがってアメリカによる民主主義の否定がもたらした暴力的な波紋もまた、イデオロギー上のしっぺ返しのひとつである。
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