2015年3月31日火曜日

「我が軍」 「言論のの自由」 ・・・ 透けるものは (『朝日新聞』2015-03-29)

「我が軍」 「言論のの自由」 ・・・ 透けるものは (『朝日新聞』2015-03-29)

 自衛隊を「我が軍」と表現した安倍晋三首相。これに限らず、戦後日本の政治が守ってきた「一線」を越えるような発言が目立つ。長谷部恭男・早稲田大教授と、杉田敦・法政大教授の連続対談は今回、一連の言葉から見える政治的な志向や思惑、そうした政権の姿勢がもたらす問題点について語り合ってもらった。

発言で攻撃 「自由すぎる首相」 長谷部
野党もメディアも反応に鈍さ 杉田

杉田敦・法政大教授 耳を疑うような首相の発言が相次いでいます。

長谷部恭男・早稲田大教授 自衛隊を「我が軍」と。菅官房長官も「自衛隊も軍隊の一つ」と追認しました。自衛隊は戦力には当たらないというのが、戦後日本の一貫した「建前」です。戦前・戦中の軍による国政専断の可能性を断ち切り、人々が自由に生きる空間を切り開いたことこそが、憲法9条の意義です。

杉田 近年、「建前」は空虚な「見かけ」として否定的にとらえられることが多く、軽んじられていま
す。しかし「建前」には、原則とか基本方針という意味もあり、重要です。物事は原則通りにはいかないが、だからといって原則が不要とはならない。原則を立てておかないと大きく道を踏み外してしまいます。

長谷部 「日教組!」という答弁席からのヤジもなかなかです。首相の品格も国会の品位も関係ないと。「自由すぎる首相」です。

杉田 行政を監視する役割をもつ国会で、首相と質問者の関係は口頭試問を受ける受験生と面接官のようなもの。受験生が面接官にヤジを飛ばすことは、ヤジの内容が事実か、事実誤認かという以前に、試験自体を否定する行為であり許されません。首相のヤジは、国会への侮辱と言ってもいい。なぜ不信任決議の話すら出ないのか。「自由すぎる首相」のもと、野党もメディアも「首相たるもの」「内閣と国会の関係とは」という根本を見失っているのではないでしょうか。

長谷部 国会議員の国会での発言については、憲法で免責特権が認められています。全国民の代表として幅広く自由に議論を展開する必要があるからです。しかし、国務大臣は免責されないというのが憲法学界の通説です。国務大臣は政策遂行について説明責任を果たすために国会で答弁するのであって、一議員と同じ立場で自由に発言することは到底認められません。

杉田 安倍さんは昨年、衆院解散を表明した当日に民放ニュース番組に出演し、街頭インタビューについて、偏っているという趣旨の発言をしました。これを国会でただされると「言論の自由だ」と。しかし、一般市民の意見に首相が反論することが人権なのか。それこそ市民の言論の自由を萎縮させかねません。

長谷部 反論はしてもいいと思います。ただしそれは、言論の自由の問題ではない。あくまでも説明責任を果たす観点から行われるべきで、ましてや番組の編集権への攻撃という形でなされるべきではありません。放送法第1条には「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」とある。何が不偏不党かは、あくまでも各放送局が自律的に判断するという趣旨です。

戦後日本の「建前」を損と認識 杉田
議論省いたトップダウン目標 長谷部

杉田 政府与党は、情報の発信力において圧倒的に有利な立場にある。ゆえにメディアも含めて、ある程度、政府与党に対抗的であることが全体としての公平性につながる。政府側と、それに対する論評に機械的に同じ時間を割り振ることが「不偏不党」だというのは、実は偏った議論です。

長谷部 編集の自律は、そうであるように見えるという「見かけ」もとても重要です。外部の人間が編集に実際に介入するのは論外ですが、首相が番組の編集に文句をつけたり、与党が「公平中立」を放送局に要求したりすること自体が、編集の自律の「見かけ」を壊す。そのリスクの大きさ
を、安倍さんは理解していないようです。

杉田 一方、新聞には、不偏不党という要求は法的にはされていませんね。

長谷部 すべてのマスメディアに法律でもって倫理を要求すると、権力が濫用するリスクがある。だからあえて人為的に放送と新聞を切り分け、放送には政治的公平性や論点の多角的解明を要請する。一方、新聞には旗幟(きし)を鮮明にして、自由闊達な言論活動を遂行してもらう。そうして全体として多様性を確保することを狙っていると思います。

杉田 それぞれが「正しい」と思うことを発信し、議論したりせめぎ合ったりする中で公正性や公平性は形成されます。でも、安倍さんをはじめトップダウン型の国家を志向する人たちはおそらく、なぜそんな面倒なことをするのかと思っている。効率が悪いと。

長谷部 メディアを含めた社会全体がトップダウン型の効率的な企業体になるべきだと。

杉田 加えて、安倍さんの言動のベースには、メディアや野党に不当に攻撃されているという「被害者意識」があるようですね。「首相たるものメディアや野党の批判も甘んじて受けねば」などという「建前」に準じていても損だと。しかもそこが、一部の有権者の感覚とも共振している。戦後日本の「建前」に沿って過去の歴史を反省していたら、近隣諸国につけこまれ、日本は損をしている。本音を表に出すべきだと。

長谷部 だから戦後日本の「建前」を凝縮したかのような村山談話や河野談話はいやだ、本音ベースの70年談話を、という思考の道筋になるのでしょう。

タガ外せば歯止め失う 長谷部
「未来志向」は現実逃避 杉田

杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。

長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。

杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。

長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。し
かし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。

杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。

長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりところが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。     
=敬称略
(構成・高橋純子)

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