2015年6月8日月曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(17) 「9 繁華殊に著しく」 (その1) : 「梅雨ころ起稿せし小説冬扇記は筆すゝまず。其後戦争起りて見ること聞くこと不愉快ならさ(ママ)るはなく感興もいつか消散したり。新に別種のものを書かむかと思へどこれも覚束なし」(『断腸亭日乗』昭和12年11月16日)    

千鳥ヶ淵緑道 2015-06-08
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9 繁華殊に著しく
「人間ぎらいで一応通っている荷風には、特定の溜り場をもって、気のおけぬ複数の相手と毎夜のごとく顔を合わせずにはいられぬという半面もあった。そうした習慣がはじまったのは、『濹東綺譚』の『作後贅言』の背景となっている《数寄屋橋際なる伯拉爾児(ブラジル)珈琲店万茶亭》に立ち寄った昭和七年七月二十日以後で、校正の神様といわれた帚薬=神代種亮との交游をふかめ、高橋邦太郎ほかの常連と次第にひとつのグループを形成する結果をまねいた。それはなんとなく落合って雑談をかわすというだけのものであったが、経営者にとっては客の廻転のさまたげになる。《此夜西銀座喫茶店耕一路の主人神代氏を通じて予等一同の来集することを謝絶す。何の故なるを知らず。思ふに神代氏昼の中より来り午睡などするがためならむ歟。》と『日乗』にあるのは昭和八年三月二十二日で、同年四月二十九日以後、さらに溜り場を八丁目金春通りの茶房きゅうペるに移している。」

「・・・玉の井に荷風が興味を寄せはじめるきっかけもきゅうペるでつくられた様子なので、その前後の有様からさぐっていってみることにする。

《先生が、はじめて店へおみえになった時、カウンターに近い席に坐られたのが緑で、それからずうっとそこが先生の席のようになって、先客があってもかならず先生に席を譲られたものです。》

「文芸」臨時増刊の「永井荷風読本」に、きゅうペる店主の道明真治郎が執筆した『濹東綺譚が書かれた頃』に一節・・・

《先生が、この席で、いつも談笑されたのは、高橋邦(邦太郎=仏文学者)、安東(英男=シャンソン作詞家、松竹少女歌劇団員)、杉野(昌甫まさよし=筆名・橘太郎、早大教授)、竹下(英一=劇作家)、酒泉(健夫=号・空庵、歯科医)、樋田(行雄)、万本(定雄=建築デザイナー)の諸氏で、特に当時万朝報の記者であった樋田氏の話には、呵々大笑されたものです。先生が玉の井へ足を踏み入れられたのは、昭和七年のはじめだそうですが、昭和十一年の春ごろから足繁く通うようになられたのも、この樋田氏の話が、その一因になっているのではなかろうかと思われます。先生は玉の井から帰られると忘れないうちにと、よく玉の井の地図をこまごまと半紙に書いておられましたが、私もその下書をいただいたことがあります。》

・・・、荷風自身《初て玉の井の路地を歩みたりしは、昭和七年の正月堀切四木の放水路堤防を歩みし帰り道なり》と「日乗」中の一節『玉の井見物の記』に記しているように、彼は七年一月二十二日と二十五日に玉の井へ歩をはこんでいる。が、その折には興味をひかれなかったらしく、ふたたび『日乗』に《玉の井に至り陋巷を巡見す。》と玉の井の文字がみられるのは四年後の十一年三月三十一日で、この点もまた道明真治郎の記述は符合する。

そして、そのあとには玉の井にかよい、きゅうペるに立ち寄るという日常が展開されることになるのだが、両者の頻度を出勤簿風に数字でしめしてみることにする。
・・・

十一年一月=久7。
二月=久6。
三月=久10。玉1。
四月=久3。玉3。
五月=久7。玉7。
六月=久4。玉2。
七月=久6。玉1。
八月=久2。玉1
九月=久0。玉13.
十月=久5。玉12.
十一月=久6。玉11。
十二月=久3。玉5.

このうち、四月にはわずか三回の玉の井行で『寺じまの記』が書かれたのに反し、『濹東綺譚』は通算四十回という実績の上に立って九月二十日に起稿、十月二十五日に脱稿、『濹東余譚』(のち『万茶亭の夕』となり、さらに『作後贅言』と改題)は十一月二日に書き上げられている。

『濹東綺譚』を起稿して脱稿に至る九月と十月の両月で合計二十五回という玉の井がよいに対して、九月にはきゅうペるが0、十月には十二対五と数字が完全に逆転しているのもむべなるかなと思わされるわけだが、『濹東余譚』まで書きあげてしまって、いわば用済みとなった十一月以後も玉の井がよいは依然として続行される。性的人間としての荷風の一面をうかがうにたる行動というべきだが、十二年に入ると、八年四月以後三年半余もかよいつづけたきゅうペるのほうは完全に見かざられてしまうのに対して、玉の井がよいの上に浅草がよいが加わり、さらに重層的に吉原がよいまでがはじる。
そのありさまをふたたび数字でしめしてみる・・・。

十二年一月=玉5。浅4。
二月=玉5。浅5。
三月=玉3。浅5。
四月=玉7。浅6。
五月=玉4。浅4。吉2。
六月=玉3。浅0。吉16。
七月=玉3。浅1。吉9。
八月=玉4。浅7。吉6。
九月=玉7。浅6。吉2。
十月=玉10。浅9。吉0。
十一月=玉2。浅14。吉1。
十二月=玉3。浅26。

・・・食事の場所を、銀座から徐々に浅草へ移している傾向もみとめられる。が、最も注目すべき点は、すでに玉の井をえがいてしまった荷風が吉原を書いてみたいと考えて、それを実行に移しているありさまがうかがえることである。

銀座で食事をしたあと《北里に遊び彦太楼に登》った六月二日の記事中には《現代の遊廓のことも何やら筆にしたき心地するなり。》という文字がみえ、同月六日には《遊里の事を書きて見むと思立》ってタクシーで吉原に行き、京町二丁目の河内屋に登楼して内外の様子を書きとめている。そして、四日後の十日には《北里を描くべき小説の腹案稍成る。》と記している。

ひとつことに執着しはじめると、荷風はとどまることを知らぬような性格の持ち主だが、この吉原がよいの場合も例外ではない。『濹東綺譚』が執筆された十一年の九月と十月には二ヵ月間に通計二十五回玉の井にかよっても、彼はかならず帰宅していたのに反して、十二年六月の『日乗』にしめされているかぎりでは、十六回の吉原がよいのうち大部分は宿泊して朝帰りをしたのち、その夜もまた出直して宿泊をかさねている。十一日の記事にある《今月六日の夜より毎夜北里の妓楼に宿するに、今は妓楼が余の寝室の如く、我家はさながら図書館の如く思はるゝやうになりしもをかし。》という一節から、そのありさまがうかがわれよう。さらに四日後の記事には《北里に夜をあかすこと昨夜にて丁度十夜となれり。今宵も出かけたく思ひしが用事輻輳したれば家にかへる。》とみえていて、翌十六日には京町一丁目の品川屋、二十一日には江戸町二丁目の山木屋に泊っているばかりか、中間の十八日には洲崎の藤春屋に出遊して、玉の井にも足をはこんでいる。」

「が、《腹案稍成》ったはずのかんじんの作品のほうは、いっこうはかどらない。同月十三日の記事には《燈下初めて草稿に筆を着けたり。されど疲労甚しく筆すゝまさ(ママ)れば姑くして歇む。》とあり、二十二日には《朝七時楼を出で京町西河岸裏の路地をあちこちと歩む。起稿の小説中主人公の住宅を定め置かむとてなり。》、二十四日には《水道尻にて車を下り創作執筆に必要なる西河岸小格子の光景を撮影し、再び円タクにて家にかへれば六時なり。》、二十六日には《午後執筆。草稿は冬扇記と題す。世に用なき間(ママ)文字なればなり。》とある。そして、月を越えた七月九日には《余がこのたびの曲輪通ひは追憶の夢に耽らむためなれば、其他の事は一切捨てゝ問はざるなり。》、十八日には《小説の草稿をつくること二三葉。》、三十日には《冬扇記の草稿中絶して既に旬余なり。》とあって、四ヵ月後の十一月十六日には、次のように記されるに至る。

《梅雨ころ起稿せし小説冬扇記は筆すゝまず。其後戦争起りて見ること聞くこと不愉快ならさ(ママ)るはなく感興もいつか消散したり。新に別種のものを書かむかと思へどこれも覚束なし。》

私の見るるかぎり、幻の作品『冬扇記』に関する記事は、『日乗』のなかにこれ以外みあたらない。が、荷風の作品年譜の上からいえば『濹東綺譚』のすぐあとにつづくことになる昭和十三年二月の『おもかげ』は、右のような試行錯誤のなかからうまれ出た作品とみられる。そうした見方の出所をしめすためには、ふたたび『日乗』を追う必要がある。
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