2016年3月10日木曜日

應永15(1408) 大御所足利義満(51)、没。 宿老斯波義将は義満への太上法皇の称号追贈を辞退させる。 義満が寵愛した足利義嗣(義持の弟)への家督相続を退けて、将軍義持の地位を確定させる

千鳥ヶ淵緑道 2016-03-02
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應永15(1408)
この年
・イングランド、ノーサンバランド伯ヘンリ・パーシィ(67)、戦死(1341~1408)。
1405年ヘンリ4世に追われてスコットランド、各地を転々とし、故郷に戻ったところを発見され、戦って戦死。第2代ノーサンバランド伯ヘンリ・パーシィ(14)、初代の孫。
パーシィ家は滅亡しない、ネヴィル家がランカスタ家の代理人として発展。
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・ウェールズ、オーウェン・グリン・ダウの反乱(1400~1415)
ヘンリ4世、本格的な攻撃開始。ハーレク・アベラストウィズ等の主要拠点奪回、オウェン軍は、北ウェールズに押し込められる。
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・イングランド、ジョン・ガワ、没。著書の「瞑想者の鏡」「叫ぶ者の声」「愛する者の告白」。
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1月
・フランス、アミアンの商議。ジャン無怖公のイニシアティヴ貫徹。
2月始め、ベリー公ジャン、アンジュー公(シチリア王)ルイ2世は、パリに引き上げ。
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1月18日
・那須山噴火。灰や硫黄が降る。常陸那珂川硫黄を流すこと5~6年。
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2月2日
・斯波義将弟、若狭守護・加賀守護を勤めた斯波義種(57)、没(高経の五男)
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2月28日
・フランス、ジャン無怖公、サン・ドニ滞在。
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・フランス、ローマ派・アヴィニョン派の両派枢機卿、夫々の教皇に愛想を尽かし、一致して行動開始。
「ピサ公会議」開催宣言
ローマ派・アヴィニョン派の両派枢機卿、2人の教皇に出席を求める。
教皇グレゴリウス12世、アヴィニョンとの融和を提唱。
ローマ派枢機卿、教皇グレゴリウス解任の教皇選挙会召集。
両派の枢機卿が合流。
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3月3日
・ブルゴーニュ公ジャン無畏公、パリ帰還。パリ市民の歓迎。
8日、ジャン無畏公、サン・ポル館で勝利、王の赦免状入手。王妃イザボーと王太子ルイはムランに逃亡(オルレアン派諸侯、これに従う)。
パリ代官ギョーム・ド・ティニョンヴィル、大学の特権を侵害したとの理由で職務剥奪。
ブルゴーニュ人ダンピエール候シャルル・ド・シャチヨン、フランス海軍提督に任命。
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3月15日
・義満、北山邸に後小松天皇の行幸をあおぎ、世阿弥による一世一代の天覧能を主催。
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4月
・教皇グレゴリウス12世、ウィクリフとスタニスラフの著書に書かれた誤謬を説く者は聖職者・俗人を問わず厳罰に処せられ、今後これをとりあげるのは、これを論駁する目的以外には許されないこととする。そしてウィクリフなどの著作を持つ者は30日以内にこれを教会当局に差し出すことが命じられる。

プラハ大司教ハーズンブルクのズビニェク(1403年選出)は、ボヘミア有力貴族であるが、内戦による治安悪化に積極的に対処する一方、大学の神学論争解決にも乗り出す。
ズノイモのスタニスラフは彼の命令によって聖体に関する自説を撤回させられるが、ウィクリフ派に対する大司教の態度は必ずしも徹底したものでなく、反ウィクリフ派は、直接ローマ教皇に訴える。
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4月25日
・義満末子義嗣(15)、天皇の前で元服。
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4月25日
・ナポリ王ラディスラス、ローマを占領。シエナ、ロマーニャに侵攻。
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5月6日
・足利義満(51)、没。
宿老斯波義将は義満への太上法皇の称号追贈を辞退させる。
義満が寵愛した足利義嗣(義持の弟)への家督相続を退けて、将軍足利義持の地位を確定させ、幕政を安定させる。義嗣の存在は、以後も義持との対立を内包し、幕府内部の分裂の契機としても作用する。

「さても准后はきた山にさんそうをたてらる。このところは西園寺の居所んてあるを申うけられて、むかし常盤井の相国の造営せられしにもなをたちこえて、玉をみがきこがねをちりばねてつくりたてられて、応永十五年三月行幸を申さる。十日ばかり御逗留のあひだ、舞童御覧・三船・和歌・蹴鞠など御あそびをつくされしに、・・・さためあきうきよのならひのうたれさは、いくほどなく同五月六日じゆこう薨じ給ふと鹿苑院と申す。 世中は火を消たるやうにて、御あとつぎも申をかるゝむねもなし。此若公にてやとさたありしほどに、管領勘解由小路左衛門督入道をしはからひ申て、嫡子大樹相続せらる」(「椿葉記」)。

義持初期の幕政の特徴
①義満に顕著な朝廷との接近の阻止:
義満没後、太上天皇の尊号問題が朝廷で議せられるが、宿老斯波義将の強い要請のもと将軍義持がこれを辞退。有力幕閣による将軍権力絶対化阻止や本来の武士政権への軌道修正。
②守護権限の拡大:
義満没後、発布の「諸国闕所事」(室町幕府追加法152条)は、「諸人望み申すについて充行われるといヘども、あるいは本主と号し、あるいは新給と号し、証文を帯し申すの輩繁多也、茲により参差の沙汰出来之条然るぺからず」という状況下に「闕所之段、土貢之員数守護に相尋ね、左右について其の沙汰あるぺし」というもの。
幕府の闕所地給与に際しての守護の権限・役割の増大を示すもので、闕所地であるか否かの判断、当知行の確認が、守護に任される。1404(応永2)年、安芸の国人33人が、新任守護山名満氏の支配に対抗して一揆契状を結ぶが、その第1条「故なく本領を召放さるれば、一同欺き申すべき事」とあり、この幕府追加法の意義は明瞭になる。
③対明朝貢貿易の中断:
王朝諸勢力を傘下に収め、西国の雄大内義弘を倒した幕府将軍権力にとって、冊封体制下の「日本国王」である事の政治史的役割が、意味を持たなくなった。
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5月18日
・プラハ大学総会、再度「ウィリクフ教説の禁止」、宣言。
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5月25日
・教皇グレゴリウス12世の「異端者の処罰」対抗する為、世俗の者も含むチェコ人による会議開催。
「ウィリクフ教説の禁止」するグレゴリウス12世による干渉は続くが、ウィリクフティーンに同情的な国王ヴァーツラフと王妃の「暗黙の庇護」があり、教皇やプラハ大司教ツビニェックに対するチェコ人の敵意も高まりつつある。
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6月
・この頃、竜保丸(上杉憲定2男)、常陸太田城に入り家督を継ぎ、12代佐竹義憲となる(1416、改名して佐竹義人)。
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・翌年1月のプラハ大学恒例の自由討論会の議長に、ボヘミア「国民」の若いマギステル、クニーンのマチェイが名のりをあげる。
ウィクリフ派、公の場での論戦を通じて反撃に出ようとする。

マチェイは、ウィクリフを「福音のドクトル」と呼んだとして反ウィクリフ派から訴えられ、5月に大司教館で審問を受けたばかり。
この時期のウィクリフ派は、ウィクリフの著作の提出を命じられ、聖職者を攻撃する説教を一切禁止されるなど、大司教側からの強い圧力を受け、2人の指導者(ズノイモのスタニスラフとシュチェパーン・パーレチ)にも、審問の為にローマから召喚状が出ている。
一方、ボヘミア以外の3「国民」は、異端の嫌疑のある人物が議長を務める自由討論会には出席できないと主張するが、国王は、討論会参加は絶対の義務と申し渡す。
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6月8日
・大御所足利義満に太上天皇の尊号宣下の内意に対して、前幕府管領・幕府最大の実力者斯波義将の反対で、将軍足利義持、これを辞退。
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6月22日
・若狭に南蛮船が来航。
「応永十五年六月二十二日南蕃船着岸、帝王の御名亜烈進卿、蕃使使臣問丸本阿、彼帝より日本の国王への進物等、生象一疋黒、山馬一隻、孔雀二対、鸚鵡二対、其外色々、彼船同十一月十八日大風に中湊浜へ打上られて破損の間、同十六年に船新造、同十月一日出浜ありて渡唐了、同十九年六月二十一日南蕃船二艘着岸これ有り、宿は問丸本阿弥、同八月二十九日当津出了、御所進物注文これ有り、・・・ 」(「税所次第」)。
「若狭郡県志」では、南蛮船使臣は黒象1匹以下を持参し京都に至り将軍義持に献じ、11月小浜を出船、大風のため中湊浜に打ちあげられ破損、翌16年造船して小浜を出て帰国と記される。
この南蛮船は、「旧港」(スマトラ島パレンバン)の華僑頭目で明朝よりパレンバン宣慰使に補任された施進卿の派遣した船である。
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7月
・ブルゴーニュ公ジャン無畏公(37)、リエージュ司教ジャンが閉じ込められているネーデルラント・マーストリヒトに進軍。
リエージュ司教ジャン兄ギョーム・ド・バヴィエールも、ナミュール伯ギョームと合流してコンドロス経由進軍、ジャン無畏公とモンテナエケンで結集。
ジャン無畏公のパリ出発後、オルレアン派、パリ帰還、策動再開。
ルイ・ドルレアン未亡人ヴァレンティナ・ヴィスコンティと仲間が力を盛り返す。
シャルル6世、ジャン無畏公への「王の赦免状」の無効宣言。
王妃イザボーと王太子ルイがブルターニュ公ジャン5世派遣軍勢の保護を受け優位に立つ。
王妃イザボーとルイ・ドルレアン未亡人ヴァレンティナ・ヴィスコンティの義理の姉妹が結束を固める。
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7月2日
・ヴェネツィア、ピエトロ・ゼン、トルコに平和維持交渉のため派遣
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7月4日
・プラハ大司教ズビニェク、ウィクリフの著作の提出命令に従わない者全てに破門を言い渡す。
国王は自分の国に宗教的誤りは存在しないという立場をとり続け、大司教に圧力をかけ、17日、大司教は緊急の教会会議において、プラハ大司教区には一切の異端や誤謬は存在しないと宣言させられる。
しかし大学に始まった論争は、一方的禁圧・隠蔽で片づけることができないところまで進んでいる。
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9月
・カスティーリャ王太子フェルナンド、プリエゴ攻略。
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9月11日
・フランス、ルーブル宮でオルレアン派の演説会。
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9月13日
・ヴェネツィア、リアルトのサン・ジョヴァンニの時計つき鐘楼再建
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9月23日
・オテー(エルフ)の戦い
ジャン無畏侯、リエージェ市民軍を破る。
リエージュ司教に擁立のチエール(ティエリー・ド・ペルウェズ)、レヘント(摂政)に擁立のペルヴェル(ペルウェズ)領主アンリ・ドルヌ、共に戦死。
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10月16日
・京で地震。29日、11月1、2日にも地震。
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10月24日
・リエージュ市の自治は違法との判決。リエージュ司教領でリエージュ司教ジャンの独裁制確立。ジャン無畏公、反乱鎮圧後フランドルへの統制権確保。
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11月10日
・仏、王妃イザボー他の王家、狂気の王シャルル6世と共にパリよりロワール川南のトゥールに逃亡。
28日、ジャン無畏侯、万歳の叫びに迎えられてパリに入る。
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11月24日
・ボヘミア国王ヴアーツラフ4世、公会議が彼のドイツ王位を認める条件つきで、ピサに使節派遣の決定を伝える。
この頃、一部の枢機卿達は、翌年イタリアのピサで公会議を開催し、ローマとアヴィニョンの教皇をともに罷免し、新しい教皇を選び、30年間続いた教会分裂を終わらせる計画が持ちあがり、各国の君主に対して、ローマとアヴィニョンのどちらも支持しない「中立」が要請された。ボヘミア国王ヴアーツラフは、新教皇によって再び自分がドイツ国王として承認されることを期待。

国王ヴァーツラフ4世、異母弟ジギスムント皇帝(ルクセンブルク家出身)から「再び帝位を奪還すべく」ピサで開催の「教会会議」に使節を派遣決定。
彼の皇帝復帰には、ジギスムントが外交でとりこんでいる「ローマ教会」の動向が重要。(ヴァーツラフはかつてカール皇帝長男として帝位を継いだが、失政ゆえに帝位を追放)

ローマ教会分裂状況(ローマのグレゴリウス12世、アヴィニョンのベネディクトゥス13世が対立)。
国王ヴァーツラフは当初ローマのグレゴリウス12世への忠誠を誓うが、これを「会議が終わるまで」と断る(これは神聖ローマ皇帝ジギスムントの目指す「教会統一」の動きに反するもの)。
チェコ人やウィリクフティーンはこれに賛同、大司教とドイツ系貴族達がこれに大反対。
プラハ大学での「国王の決定」に関する協議では、大学総長ヘニング=デ=バルテンハーゲンは投票を行う前に会議を散会、大司教や高位聖職者たちの思惑を退ける。
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12月4日
・フランス、オルレアン公ルイ(ルイ・ドルレアン)未亡人ヴァレンティナ・ヴィスコンティ、ブロワで没。オルレアン家シャルル・ドルレアンに指揮権移動(ルイ・ドルレアン長男、14、1394~1465)。オルレアン・ブルゴーニュ公両家の和解が試みられる。
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12月13日
・京で地震。
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12月27日
・川上郷内三村の村民、説成親王の挙兵に応ずる。
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