2016年3月6日日曜日

明治38年(1905)9月11日~30日 戦艦「三笠」爆沈(死傷者699) 横浜・神戸で反講和演説会 『直言』無期限発行停止・廃刊決意 東京の新聞社12社が会合、「東京朝日」の長期発行停止抗議・解除要望 戸水事件

千鳥ヶ淵緑道 2016-03-02
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明治38年(1905)
9月11日
・山陽汽船(株)、下関-韓国釜山間の連絡航路開始。壱岐丸就航。
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9月11日
・戦艦「三笠」爆沈。佐世保軍港。死傷者699(死者339、日本海海戦犠牲者117を上回る)。
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9月11日
・夏目漱石のもとに山会の参加メンバー中川芳太郎が鈴木三重吉(漱石の小説の熱狂的な愛読者)の手紙を届ける。

この年3月頃から、「ホトトギス」の山会という文章読み合いの会が漱石宅で開かれていた。その会によく来たのは、高浜虚子、坂本四方太など「ホトトギス」の中心人物の外、寺田寅彦、皆川正禧、野間真綱、野村伝四、中川芳太郎など。

寺田寅彦(28歳)は前年9月から東京帝国大学理科大学の講師に任命されていた。明治36年、漱石が帰朝以来、大学院で実験物理学を研究していた寺田は、しばしば漱石家を訪れるようになっていた。彼の俳句や短い写生文は「ホトトギス」に掲載され、彼は雑誌の常連になっていた。

皆川正禧、野間真綱、野村伝四等は熊本で漱石に習った人々で、野間は大学卒業後、島津家の家庭教師をしていた。野村伝四は英文科2年に在籍して翌年7月に卒業予定、作家として立つ志があり、「ホトトギス」や小山内薫等の「七人」にしばしば作品を持ち込み、時には掲載され、時には拒絶されていた。

中川芳太郎は、京都の第三高等学校の卒業生で、英文科2年の学生。特に英語が出来、夏目に目をかけられていたので、特にその家に出入りしていた。この時期、作家夏目漱石の崇拝者が徐々に学生の間に出て来ていたが、まだ彼の身辺には現われていなかった。"

この日の中川芳太郎からの手紙には、鈴木三重吉という署名の巻紙に書いた手紙が入っていた。手紙は、延ばして見ると、八畳間をつき抜けて次の六畳の端まで届くほどだった。鈴木三重苦と中川芳太郎は第三高等学校の同級生。鈴木は明治37年9月、英文科に入り、この年7月まで漱石の講義を聞いていた。鈴木はひどい神経衰弱になって、この9月から1年休学することにし、郷里の広島にいたが、漱石の作品の熱狂的な愛読者で、その気特を、夏目家へ出入りしている中川に訴えて手紙を書いた。

夏目はその手紙を読んで驚き、中川に次のような手紙を送った。
「(略)あれ丈のものがかけるなら慥(たし)かに神経衰弱ではない。休学などとは思ひも寄らぬ事だ。早速君から手紙をやって呼び寄せ玉へ。(略)それから次に驚いた事は三重吉君が僕の事をのべつにかいて居る事だ。(略)然しいくら漱石だつて、金やんだつて、講師だつて、髭が生えてたつて、三重吉君からこれ程敬慕せられて難有(く)思ばんといふ次第のものではない。難有いなどは通過して恐ろしい位だ。(略)僕は是で中々自惚の強い男だからある人には好かれて然るべき性質を有して居ると自信して居るがね - 然しあれ程迄に敬慕され様とは気がつかなかつた。あれは己惚以上だよ。予期を超過する事五十五六倍だよ。元来人から敬慕されるとか親愛されると急に善人になりたくなるものだ。敬慕親愛に副ふ丈の資格を一夜のうちに作りたくなるものだ。僕も今夜は急に善人になりたくなつた様な気がする。(略)あの手紙は僕がこの手紙と同じくなぐりがきにかき放したものであるらしいが頗る達筆で写生的でウソがなくて文学的である。三重吉も文章をかいて文章会へでも出席したら面白いと思ふ。(略)」

鈴木三重吉(24歳)は、明治15年広島の猿楽町で生れた。彼の父は市役所の庶務課学務係に勤めていた。彼の二人の兄と末弟とは幼くて死んで、彼は一人子で育ち、その上、10歳の時に母を失い、父と粗父母に育てられたので、孤独な少年期のノスタルジィを抱いていた。三高在学中から、彼は神経衰弱と胃病に苦しめられて、「猫」に描かれている夏目の悩みと自分の悩みが同じもののような錯覚に陥っていた。"

この頃(9月初め頃)、漱石のロンドンの時代の知人である犬塚武夫の紹介状を持った一高出の東大生小宮豊隆(22歳)が訪ねて来た。新学年が始まるので、小宮は漱石を保証人に頼むために来た。彼は福岡県の生れで、豊津中学から第一高等学校に入り、この年東京帝大独文科に入学した。漱石の書斎に通されると、小宮は胡坐をかいて坐った。漱石家へ来る青年たちは皆、少くとも初めのうちは窮屈に膝を折って坐っていたので、小宮の行儀の悪さは目立った。

16日夜、小宮を紹介した犬塚武夫が漱石宅へ遊びに来た。犬塚が帰ろうとして玄関に出ると帽子と外套がなくなっていた。書斎にあった漱石のニッケルの懐中時計も無くなっていた。また鈴木三重吉の手紙が盗まれて、封筒だけが縁の下に棄ててあった。その厚い手紙を泥棒は札と間違えてたようであった。漱石が、友人の第二高等学校教授の斎藤阿具から借りていた家は、隣に中学校があったり畑地があったりして、泥棒に狙われやすい家であった。この年4月頃にも泥棒が入って、家中の普段着を全部盗まれて困ったことがあった
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9月12日
・横浜・羽衣座で有料演説会。予定の弁士が欠席し聴衆が騒ぐ。警官が抜剣して制止、負傷者でる。群衆3千、暴徒化し伊勢佐木警察署と付近の派出所10数を焼打ち。
午前1時、神奈川県知事の要請で東京から第1師団歩兵2個中隊派遣。19日迄警戒。
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9月12日
・神戸、湊川神社前大黒座で非講和有志演説会。河野広中・山田喜之助参加。
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9月13日
・永井壮吉(荷風)、ワシントンの酒場で娼婦イデスと出会う。
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9月14日
・満州軍総司令官大山巌元帥、全軍に休戦命令発令。
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9月14日
・奥羽本線開通。
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9月15日
・ハンガリー、ブダペシュト、「赤い金曜日」大デモ。
社会民主党指導の普通選挙要求10万人デモが下院包囲。
1週間後、フランツ・ヨーゼフは「連合」指導者に綱領の完全放棄要求。諸県での抵抗。
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9月17日
・この日付け漱石の高浜虚子宛の手紙。
「とにかくやめたきは教師、やりたきは創作。創作さへ出来れば夫丈で天に対しても人に対しても義理は立つと存候。自己に対しては無論の事に候」。
漱石は文学を渇望している。
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9月18日
・「東京騒擾画報」(「戦時画報」臨時増刊号)。
日比谷焼討ち事件の写真・報道画を多数収録。矢野龍渓の迫真ルポ「出鱈目の記」。日露開戦後、「近事画報」を「戦時画報」に改称。近事画報は矢野龍渓がおこす。編集長国木田独歩。
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9月18日
・ストックホルム、グレタ・ガルボ、誕生。
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9月20日
・露バルチック艦隊司令官ロジェストヴェンスキー中将一行、佐世保海軍病院を出て、広島県似島へ移動。宇品~広島経由列車で京都へ向う。
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9月20日
・午後4時30分、全国有志大会。上野精養軒。東京衛戍総督府より歩兵1大隊、騎兵3分隊、憲兵1小隊派遣。上野停車場・上野公園内に検問所。全国より200人。発起人総代河野広中、会長鈴木重遠(旧自由党政治家)。大竹貫一の読上げる上奏文可決。会場内には偽ボーイ、地方委員にも探偵が紛れ込む。この時点では、講和反対は言うものの戦争継続は決議文から消える。
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9月20日
・「直言」社説「政府に猛省を促す」で無期限発行停止。廃刊を決意。
日本国民は当局者に深大の怨恨を抱く。
「新聞紙が大活字を羅列して諸君を讃美謳歌しつつありし戦勝泰平の時期において、彼等国民の間には無限悲憤の熱涙を諸君のために拭いつつありし也。彼らの諸君に対する怨恨は、講和の条件によって醸成せられたるものにあらずして、その強いて抑え来れるの怨恨の、戦争終結をまって爆発したりしのみ」。
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9月21日
・東京の新聞社12社が会合。「東京朝日」の長期発行停止対策。
翌22日、社主・代議士である「東京日日」横井時雄、「毎日」島田三郎、「報知」箕浦勝人、「中央」大岡育造が、東京衛戍総督府、警視庁、首相官邸を訪問、抗議、停止解除要望。
24日、解除。
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9月21日
・東京府政治記者有志、警視庁廃止意見書を府会議員に送る。
22日、東京市会、日比谷焼打事件での民衆弾圧を批判し、警視庁廃止意見書可決。
11月27日、東京府会、貴族院・衆議院への請願など可決。
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9月22日
・東大を休職処分になった戸水寛人、「報知新聞」(主筆村井弦斎)客員として採用される。 村井弦斎:
9歳の時、ニコライ司教の駿河台学校でロシア語を学ぶ。東京外国語学校魯語学科第1期生(病気中退)。報知新聞社長矢野龍渓の勧めで「報知新聞」入社。新聞小説家として活躍。日清戦争後退社するが、のち社主三木喜八の呼び戻される。
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9月23日
・この日、永井壮吉(荷風)は重ねて父からフランス行きに反対の手紙を受け取る。
彼の日記。
「再び家書を得たり。仏国に遊ばんと企てたる事も予期せし如く父の同意を得ざりき。今は読書も健康も何かはせん。予は淫楽を欲して己まず。淫楽の中に一身の破滅を冀(こひねが)ふのみ。先夜馴染みたる女の許に赴き盛にシャンパンを倒して快哉を呼ぶ。」
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9月24日
・革命派の呉樾ら、外国視察に出発しようとしていた載沢ら5大臣を北京駅で襲撃。
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9月25日
・発行停止を解かれた「東京朝日」、紙面を8⇒12ページに増やし停止中の投書を多数掲載。
社説(池辺三山)「朝日新聞の解停」、停止について政府から何の説明もない、ありのままの見聞・見解を記したのみと政府を批判、「何をか恐れん」と言い放つ。パロディー「停止圧の話」では「日本もこんな風の吹く内は文明国でもなんでもない」と書く。
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9月26日
・関東総督府勤務令、制定。総督大島義昌大将。遼陽。天皇直属。
日本の南満州経営一手に引受ける(軍隊その他諸機関を統御して関東州を守備、民政監督、経理・衛生・兵站業務を統轄)。
10月17日、設置。
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9月26日
・西川光二郎、出獄。
「直言」が無期限発行停止となり、木下・幸徳・堺・西川が合議して、平民社解散・「直言」廃刊決定。財政上の問題の他、同志間の思想的相違、感情の齟齬の表面化。
堺利彦と延岡為子、西川光二郎と松岡荒村未亡人の文子との恋愛結婚問題は、キリスト教系の安部磯雄周辺は、それを非難していた。

堺は、『光』第4号(1906年1月1日)に「平民社解散の原因」を寄稿。平民社解散の原因は「主義の差に基づく分離」ではないと強調し、「社会主義といふ大傘の下に集るに於て誰しも異存は無い筈である、小生はコウ思って居るが、諸君のお考へは如何でせうか」と呼びかけr。堺は以後もそう主張し続ける。また、由分社で『家庭雑誌』を刊行しながら、堺は平民社が手がけた出版物を受け継ぎ、自らも各種メディアに文筆をふるって啓蒙活動に力を入れていく。
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9月27日
・清国の戸部銀行開業。
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9月27日
・列国、清国との間に黄浦江水路改良に関する約定調印。
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9月27日
・第2次日英同盟、日英両国で公表(締結は8月12日)。外交の失策を隠すための発表遅延と非難。
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9月27日
・「東京朝日」、警視庁廃止問題は「民間に於ける積年の宿題」とする社説。
警視庁は藩閥擁護のためのもの、人民擁護でなく、9月5日騒擾もこんな警視庁にも原因がある(抜剣問題など)。
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9月27日
・この日頃、島崎藤村(34歳)のところに蒲原有明がやって来て、この頃彼の熱中している象徴主義詩論をした。蒲原有明は、島崎藤村の「若菜集」に啓発されて小説かち詩に移り、以後もっとも熱心な藤村の支持者であった。しかし彼は、抒情詩の世界の探索を続けているうちに、素朴単純なロマンチシズムによる抒情詩では、現代人の気持を表現し得ないと考えて、ガブリエル・ロセッティからヴェルレーヌの研究に移り、独自の晦渋で曖昧を象徴詩の手法を創り出した。藤村は、既に詩作をやめていたが、あくまでも写実的な明確さを求めて、リアリズムによる小説を書いているときであったので、蒲原の詩論に承服できなかった。彼はかなり強い言葉で蒲原の議論に反対し、二人は意見が合わないままに別れた。

藤村は、この年4月末、足かけ7年間の小諸生活を切り上げて上京。翌5月6日、前年生れたばかりの三女縫子を急性脳膜炎で失った。その頃、詩人島崎藤村が畢生の大作を書き上げようとしているという噂が、東京の文壇で語り伝えられた。藤村は借家に、自費で3畳のトタン屋根の書斎をつけ足し、春から夏にかけて、「破戒」を書き続けた。
9月5日夜、藤村は日比谷辺を歩いていて、京橋辺を中心に行われた日露講話条約反対の焼き打ち事件を見た。
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9月27日
・小村寿太郎、ニューヨーク発。
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9月27日
・アルバート・アインシュタイン、特殊相対性理論についての第2の論文が受理される。それにはE=mc2の関係式が含まれている(『物理学年報』誌)。
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9月28日
・独仏協定調印。
独仏、モロッコ問題に関する国際会議(アルヘシラス会議、1906年1月16日〜4月7日)開催合意。独、仏に再度ビョルケ条約参加要請。
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9月29日
・平野友輔(48)、藤沢・稲毛屋での講話反対の神奈川県下有志大会の座長となり決議案・上奏案を可決。
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下旬
・戸水事件。
東京帝大法科大学教授・助教授、戸水休職処分に対する抗議書を文相に提出。
小野塚喜平次、穂積陳重(のち東大法学部長、枢密院議長)、山田三良(のち東大法学部長、日本学士院長)、美濃部達吉など。
10月3日、京都帝大法科大学学長・教授・助教授も文部省に抗議書提出。
10月、東大総長山川健次郎は戸水に「ローマ法」講師を依頼(事実上の復職)。
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