2016年3月16日水曜日

堀田善衛『ゴヤ』(89)「巨人の影に」(2) アランホエース謀叛事件 「フェルナンド王万歳! 群衆は、居酒屋へと引きあげて行った。 これですべては終ったか? それは終りではなかった。 むしろそれは、現代スペインにまで立ちいたるスペインの悲劇の開始であった。 一度目は喜劇かもしれぬ、しかし二度目のそれは悲劇である。」

北の丸公園 2016-03-15
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一八〇八年二月一日、ジュノー将軍は全ポルトガルが皇帝の名において統括される旨を宣言。遅まきながらよろよろとポルトガルに入ったスペイン軍は、港町のカティスとセピーリァへ撤退を命せられる。
一八〇八年二月、皇帝の軍隊はバンプローナとパルセローナに進駐。
・・・
・・・そのフランス軍を迎えたスペイン人民の反応はどうであったか。フランス派(afrancesados)と呼ばれた知識階級のみならず、一般人民までが熱烈に歓迎した。皇帝のジロンド軍団は、Armes liberatrice (解放軍)を歓迎するという、フランス語でしるされた凱旋門をくぐらされた。・・・
進駐して来たフランス軍は、
- カルロス四世万歳! スペイン人民万歳!
を叫び、スペイン人民は、
- ナポレオン万歳! フランス人民万歳!
と叫ぶ。その歓声そのものが、カルロス四世とマリア・ルイーサ、ゴドイのこの三位一体にとってすべては終ったのだ、と告げていた。
ゴドイは、アランホエース離宮にいた王と王妃との長時間にわたる協議の上で、ポルトガルからカディスへ撤退して来ていた軍隊に密命を下した。軍船を用意せよ!
北方からは、ミュラ将軍麾下の一万五〇〇〇の大軍団が南下して来、マドリード北方の要衝であるソモシエーラ山脈の峠を越え、城壁にかこまれた中世的な村ブイトラーゴに司令部を置いた。マドリードまでわずかに七六キロである。

・・・如何に連合軍であり、友軍であるとはいえ、要するに外国の軍隊である。・・・スペイン人民がそれをたとえ”解放軍”として歓迎したとしても、次第に不安がたかまって来ることは当然である。知識人、官僚、貴族たちのなかのフランス派は胸中に湧き立つものを感じはじめ、逆に彼らを弾圧してきた守旧派や聖職者たちは、いったいこの先何が起るのかと不安におののく。
特に、陰に陽にナポレオンに抵抗して来たゴドイの立場は、極度に困難なものになって来る。
三月一六日、王はとうとう布告を出さざるをえなくなる。

愛する臣下よ、かかる状況の下にあって汝らの高貴なる興奮動揺は、汝らの心に抱かれたる感情の証左である。汝らを父の如くに愛する余は、汝らを苦しめている不安を急ぎ慰めんとするものである。安息されよ、親愛なる連合軍及びフランス人民の皇帝は、平和的かつ友好的理念を以て我が王国を通過するものである。……数日を経れば、汝らの心にも平和がよみがえるのを見るであろう。

しかし、これでは、これは何を言ったことにもならない。・・・"

アランホエース離宮では、実に議論が沸騰していた。宮廷は二派にわかれて、双方ともに顔を真赤にして争っていた。
ゴドイと王妃マリア・ルイーサは、・・・彼らが貯め込んだ莫大な財産、財宝を抱えて海を渡ろうと決憲していた。ポルトガルから追い帰されたスペイン軍が港町のカディスとセピーリァに駐屯していたが、この軍は、すでに軍船の用意を命じられていた。
反対派は皇太子フェルナンドのまわりに結集した。スペイン王室はスペインの地にとどまらねはならぬ!
それは如何にも愛国的に見えたかもしれぬ、外見のところでは。しかし本音のところは、フェルナンドがかねてナポレオンにおべっかをつかって来たのであるから、皇太子ならばナポレオンと適当にやって行けるのではないか、というあてずっぽうにすぎない。
・・・

・・・ずっと以前からマドリードのマホたちを主とするごろつき社会に、ひそひそ声で囁かれる妙な合言葉のようなものが流れていた。”ティオ・ペドロ(ペドロおじさん)が言った、一七日、アランホエースへ・・・”というのである。・・・三月一七日に王と王妃とゴドイはアランホエースを出てまずセピーリアに移り、そこからカディス港へ行きアメリカへ逃げ出す!・・・

アランホエース離宮は、マドリードの南約四〇キロのところにあり、・・・
三月一七日、マドリードからアランホエースへいたる埃だらけの道を、近衛兵の一隊を先導として異様な服装をした一団の人間たちが三三五五、南下して行く。・・・
群衆のほとんどが黒い大きな帽子を目深くかぶり、黒、黄、緋色などの足許まであるマントを着てロもとをかくしている。なんとも多色多彩な連中であるが、とにかく顔を見せまい、としている。"
"夜に入って彼らはアランホエースの町に到着した。先頭の近衛兵の一隊が守衛に立っていた当番に離宮と庭園の鍵をあけさせ、埃だらけの黒帽子連中までを離宮の前庭や庭園内に入れさせた。
寒気がきびしかったので、”ティオ・マライエルバ(マライエルバおじさん)”と呼ばれる居酒屋から酒と食い物が運ばれた。
このいまに現存する居酒屋が謀叛の総司令部であり、そこに”ティオ・ペドロ”がいた。このティオ・ペドロこそが、オレンジ戦争のときの総司令官マヌエル・ゴドイの副官として、ゴドイ像のなかにゴヤの手で描き込まれ、近頃はまた自分だけの肖像画を描いてもらったテバ伯爵その人にはかならなかった。
・・・
小離宮内で、ゴドイが妻のチンチョン伯爵夫人と軽騎兵司令で同時にアルモドーパル公爵である弟のディエゴ夫妻などと晩餐をとっていた。・・・ゴドイ自身の親衛隊である軽騎兵は、”王命によって”営舎内に待機させられていて小離宮周辺には一兵もいなかった!
そうして離宮の前庭に大きなマントをひっかぶってうずくまっていた連中は、暗い二階のある窓だけを凝視している。すでに真夜中である。
その窓に灯がついた。
合図である。窓は皇太子フェルナンドの部屋のそれであった。
離宮とゴドイの小離宮との中間で、銃声一発。
誰かが軽騎兵の、鞍をつけろ、という装鞍ラッパを吹いた。
このラッパを合図に、黒、黄、緋色などの大マントを着込んだやくざ、ごろつきどもが一斉に武器を手にして立ち上り、ゴドイ邸へ乱入しはじめた。
弟のティエゴ・ゴドイがまず逮捕された。
しかしゴドイそのものは見付からない。打ち壊しと家探しがはじまった。寝室には、テンチョン伯爵夫人が娘のカルロータを抱いて立ちすくんでいた。
ゴドイはいない。
ごろつき連中には、しかし、チンチョン伯爵夫人に乱暴をすべき理由はない。・・・連中は帽子をとり、マントも脱いで丁重に、ゴドイがどこにいるかを訊ね、伯爵夫人がそれを知らないと言うと、離宮へ移って王一族と合流して頂きたい、と告げる。

・・・
離宮内では、・・・背の低い皇太子フエルナンドは傲然として王と王妃を見下していた。
・・・近衛兵の一部も暴徒と合流して大声でわめきながら小離宮をぶちこわし、離宮そのものの家探しをはじめた。
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ゴドイは変装して逃げ出し、南へ下ったという噂が流れる。
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王は行衛不明のゴドイを免職にし、午前五時に王に緊急拝謁に来た皇帝ナポレオンの特使ボーアルネイ公爵 - 皇后ジョセフィーヌの前夫の子である - の面前で、王自らが全軍の指揮をとることを宣告した。
しかし、・・・彼がしたことは、パイヨンヌにいるナポレオンに事態を通報せよ、という命を出しただけである。

一八日の朝が来て、マドリードから新たにありとあるごろつき、やくざ連中が駈けつけて来、離宮前庭は群衆でいっぱいになってしまった。しかもこの群衆は、
- ”望まれたる人〞を、王位に!
と呶鳴りまくる。
望まれたる人(Deseado)とは、言うまでもなく皇太子フェルナンドのことである。

・・・、ゴドイがいなければどうにもならない・・・。弟のティエゴ・ゴドイは彼自身が指揮官である軽騎兵に逮捕され、その兵営の牢獄へ監禁されてしまった。
・・・近衛兵の上級将校たちが、このまま夜に入れば最悪の事態が起りかねない、いまとなっては事態を収拾しうるのは皇太子だけだ、と王に進言をした。
・・・

・・・一九日の朝が来る。”ティオ・ペドロ”の動員したやくざ、ごろつきの数はますます増えつづけ、やがて午前一〇時すぎ、ゴドイのいた小離宮近辺で一大歓声が上った。
ゴドイを見つけたぞ!
ゴドイは謀叛開始と同時に、小離宮の物置きの屋根裏に、自らを絨毯です巻きにしてかくれていた。が、三十数時間も飲まず食わずではいられない。す巻きから抜け出して食い物をさがしに来たところを暴徒に捕えられた。彼をつかまえて、撲る、蹴る、刺す、つまりは殺そうとしだのは、王の弟、アントニオ・バスクァール殿下の手下の下司どもであった。・・・

・・・
群衆は本当にゴドイを殺しかねなかった。
離宮前庭まで引きずり出されて来たときには、すでに美々しい衣服は裂け、靴はなく、顔も手足も血まみれであった。・・・

カルロス四世は真青になって皇太子フェルナンドに、ほとんど哀願をした。ゴドイの生命を助けてくれ、何としてでも、もし必要なら王位をお前に譲ってもよい・・・。
皇太子は、この哀願に対して、冷然として、慣例通りの譲位確認書を政府官房長官ペドロ・セバーリョスにあてて書け、と要求をした。
その間、ゴドイはようやく群衆の打擲から救い出され、厩舎へ放り込まれた。
・・・
夕刻七時、王は諸大臣臨席の下で、王妃マリア・ルイーサの勧告もえて、健康を理由に譲位する旨の正式布告を官房長官に書いて手渡した。
この王の譲位布告には”譲位(abdicacion)”ということばを書くべきところに、はじめは、拒否、抗議という意にあたる protestacion としるされ、これを消して別のインクで”譲位”と王の手書きで書き改められていたと言われる。・・・"

- フェルナンド王万歳!
群衆は、居酒屋へと引きあげて行った。
これですべては終ったか?
それは終りではなかった。
むしろそれは、現代スペインにまで立ちいたるスペインの悲劇の開始であった。
一度目は喜劇かもしれぬ、しかし二度目のそれは悲劇である。
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