横浜市 2016-03-17
*フェルナンドはカルロス四世の譲位証書をとりつけて、”王”ということになったらしかった。
しかし新”王”として、それでは何をどうすればいいか。
この”王”もまたナポレオンの支持なくしては何一つ出来はしないのである。
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一方、王は、というよりむしろ王妃が巻きかえしに出た。
三日後の三月二二日、王はナポレオンに対して手紙を書き、そのなかで自分の譲位宣言を取り消してしまう。「余と余の王妃の生か死か」を選ばねばならぬ「強制」があったから無効である。この三月二二日から四月一〇日までの二〇日間に、王と王妃はナポレオンに、またミュラ将軍に実に二六通の手紙を書いた。
ところでアランホエース謀叛事件の報に接したミュラ将軍は、スペイン参謀本部と打ち合せた上で、兵をマドリード北方四〇キロの湯治場エル・モラールに進め、さらにカルロス四世譲位という大事を知って、三月二三日ついにマドリード入りを独断で決意した。首都の治安を気遣ったせいである。これもスペイン参謀本部の諒解をえていた。
"フランス車は、気安く迎え入れられた。・・・
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・・・二四日、新王フェルナンド七世がマドリード市のアトーチャ門から堂々たる青年王として入城して来たのである。
市民は熱烈にこの新王を歓迎した。
サン・フェルナンド美術アカデミイはただちにゴヤにこの新王の騎馬像を描くようにと命じた。
ゴヤも、おそらく、はじめはこの新王を歓迎したものであろう。少くとも悪名高いかの三位一体よりは若くもあり、清新である。いくらかの共感を以て描かれた唯一のものであり、またフェルナンド七世が直接カンバスの前に立ってくれた唯一の作品でもある。ただ不思議なのは、この騎馬像の下絵があるのであるが、これには顔が描いてない。王がモデルになってくれる稀な機会に、顔のない下絵を描くとは。・・・
アランホエース離宮にとりのこされた、前王と前王妃は何をしているか。前にも書いたように、彼らはもっぱらせっせと手紙書きである。外国の皇帝の代理であり、祖国をほとんど占領している将軍ミュラに。
しかもその内容は、一つにはもっぱら息子のフェルナンドについての悪口雑言である。・・・
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そうしてもう一つ、なんとしてでもいいからゴドイを助けてやってほしい・・・。そのためなら、なんならわれわれ三人そろってどこかへ隠居をしてもいい。・・・
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マドリード入りをした新王フェルナンド七世の最初の布令は、ゴドイの全財産の没収であった。がしかし、それ以前に、怒った民衆がぶち壊しをかけていた。彼の公邸だけではなく、妾のベビータの邸も、母親や兄弟の家などもさんざんにやられた。
それはたしかに一つの革命ではあったが、民衆の自発性にもとづくものでないことも明らかである。
そうして当のマヌエル・ゴドイ自身は、厩舎に監禁されて、火の気も食い物もなく、傷ついたまま放っておかれた。・・・
フェルナンドの第二の布令は、ゴドイを厩舎から引き出してマドリードまで引きずって来い、というものであった。・・・
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その結果として、どういうことが考えられるか。
ミュラ将軍が適確に予想をした。
わが軍をして汚辱にみちた光景に立ち会わせ、彼(ゴドイ)を保護せざるをえない立場に立たせ、その結果、現在わが軍を歓迎している民衆の眼にわが軍をおぞましいものとして見せつけることになります。
要するに、民衆には、敵(ゴドイ)の味方は敵、ということになると、ミュラ将軍はナポレオンに報告をしているのである。将軍はゴドイがマドリードに入ることを禁止せよ、と要請した。
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ミュラ将軍にはこの”新王”のマドリード入りを歓迎すべき理由がなかった。・・・将軍は”新王”に対して表敬訪問もしなかった。それに彼はカルロス四世の譲位否認の宣告書をさえもっている。
新王とその宮廷は次第に苛立ち、市民もまた真相を少しずつ知って憤懣をつのらせ、将軍は緑色の制服のせいで、”キャベツの芯〞と仇名をつけられる。このときから、すでに将軍とその軍隊は嫌われはじめるのである。
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ミュラ将軍は状況をくわしくナポレオンに報告し、すみやかに皇帝がマドリードに来ることを求めた。
しかしナポレオンはナポレオンで、まるで別のことを考えていた。
スペインの王が桂冠した。平和大公は投獄された。余はフランス人をスペインの王座に置くことを決めた。オランダの気候は君にあわない。余は君をスペインの王としようと思う。明確な返答をせよ。同意するや否や?(ルイ・ボナパルトへの手紙)
オランダ王ルイ・ボナパルトは、まるでどこかの県知事のように扱われたことに腹をたてて断ってしまった。そこでお鉢は、ミュラに、ではなくて、兄貴のジョセフ・ボナパルトにまわった。・・・ミュラが手に入れるのは、ジョセフがいなくなったナポリ王のそれであった。しかしこれはもう少し先のことである。
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バイヨンヌで、アランホエース謀叛以後のスペイン情勢を冷静は考察しながら、ナポレオンは、ほとんど爾後のスペインの歴史の全部を適確に見抜いていた。・・・ミュラ将軍あての三月二九日付指令を読んでいると、ある人々がこの人物を”天才”と呼ぶのも理由がある、とつくづく思うものである。
余は、貴官がスペイン情勢に関して余を誤らせているのではないか、また貴官自身誤認をしているのではないか、と恐れている。貴官は武装解除された一国を攻撃するのだなどと信じてはならぬ。スペインを従えるための示威部隊をしか貴官はもっていないのた。三月二〇日の革命(アランホエース謀叛)は、スペイン人民にエネルギーのあることを証明している。貴官はまったく新しい民衆とかかわりをもっているのである。彼らは勇気にみちている。
貴族と聖職者がスペインの主人なのだ。もし彼らの特権と存在が怯かされるとなれば、彼らは一団となってわれわれに対して立ち上り、戦争を永久化するであろう。
平和大公(ゴドイ)は嫌忌されている。何故なら彼がスペインをフランスに売ったと非難されているからだ。その不平不服がフェルナンドの王位簒奪を可能にしたのた。
皇太子は国家の首長たるべき何等の資質をももっていない。しかしそれは彼が我々に抗して立ち、人々が彼を英雄とすることを妨げるものではない。余はこの王族中の何人に対しても暴力を振わぬことを望む。嫌われるようなことをして、(人民の)憎悪に火をつけては何の役にも立たぬ。スペインには一〇万人以上の武装した人民があり、これは全王国蜂起の中核たりうるものである。
英国が、我々の困惑を大きくするためのこの機をのがすごとはありえない。彼らはシチリーとポルトガルで募兵をしている。
王家がスペインを去ってインド(アメリカ)へ行かないとなれば、この国を変えるものは革命あるのみである。しかしおそらくこの国はヨーロッパで革命のための準備がもっとも出来ていない国である。政府の怖るべき腐敗と、合法的権威にとってかわった無政府状態に気付いている人々は、最小限でしかない。
貴官が与えた(マドリードへの)進撃命令は、三月一九日の事件によってあまりに早過ぎた。余は命令する。軍規を厳しくせよ、如何なる間違いもあってはならぬ。住民に対しては最大限の配慮をせよ。第一に教会と修道院を尊重せよ。
軍は如何なる遭遇をも避けよ、スペイン軍とのそれであれ、分遣隊とのそれであれ。如何なる側面においても、導火線に火をつけてはならぬ。もし戦争に火がついたら、一切は失われる。
この手紙には、それこそ一切がある。爾後のスペインとナポレオン自身についての、一切、がある。私は思うのだが、かくまでの、ほとんど”見者”と言うべきほどの明視、明察は、やはり天才のものであろう。スペインは中味空洞のウドの大木だ、といった情報ばかりが来ていたなかでの、この明視、明察である。しかも彼はあたかも自分自身の宿命を知り抜いた上での、いわゆる”運命愛 amor fati”を自身に対してもっているかに思われる。爾後に展開する情勢の一切がここに明瞭に予言されている。・・・
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