2016年3月20日日曜日

堀田善衛『ゴヤ』(92)「巨人の影に」(5) 「ホセ一世の方は、ほとんどいやいや国境を越えてスペインの最初の町であるサン・セパスティアンへ入った。その町で護衛のフランス兵の一人が、 - なかなか美男子だね、吊るして眺めるにはもって来いだ! と叫ぶスペイン女の声を聞きつける。」

北の丸公園 2016-03-15
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六月六日、「もう一人の余自身」である、ナポレオンの兄、ジョセフ・ボナパルトがナポリから急遽バイヨンヌに到着し、文字通りスペインの王位を強引に呑み込まされた。スペイン王ホセ一世という次第である。
・・・彼はパイヨンヌに来てからも毎日、ナポリにのこして来た愛人のアトリ公爵夫人に手紙を書き、なかの一通に「私の地位は私の性格とはまるで逆のものです」と嘆いている。
七月七日、バイヨンヌにおいてホセ一世の戴冠式が行われる。冠をかぶせてくれるのはプルゴスの大司教である。
ナポレオンはこれで一安心、とばかりにパイヨンヌを去って行った。表面的には、全スペインの大貴族の全部、異端審問所をはじめとして、たった一人のブルボン家の者としてスペインにのこったトレドの大司教をも含む司教の全部、政治家たちのほとんど全部、将軍、提督、文学者、学者、法律家、財界人等々がバイヨンヌヘ熱烈な忠誠を表明して来た。・・・。
積極的に反対の意を表明して制憲議会に参加しなかったのは、たった一人、オレンセの司教だけであった。・・・。

さればナポレオンは去り、カルロス四世と王妃マリア・ルイーサは、ゴドイとのあいだの子と言われるフランシスコ・デ・パウラ親王をはじめとして、皇太子と弟のカルロス、アントニオ・バスクァール殿下だけを除き、あの『カルロス四世家族図』中の全員と、一〇〇人を越える扈従をひきつれてパリの北東七六キロのところにあるコンビェーニュの離宮へ向う。もとよりゴドイもいっしょである。・・・。

皇太子フェルナンドと弟と、叔父 -・・・- の三人は、ナポレオンとの取り極めにより、オルレアンの南五〇キロ足らずのところ、ヴァランセイにあった宰相タレイランの金ピカの城館へ行く。
コンビェーニュ派もヴァランセイ派も、殿下の称号をもち、たっぷりナポレオンに年金をつけてもらっている。フェルナンドの方はしっこくナポレオンに何人かいる筈の姪の一人を嫁にくれと言うので、宰相タレイランはパリから数人の女優を送りつけてあてがった。・・・

ところでホセ一世の方は、ほとんどいやいや国境を越えてスペインの最初の町であるサン・セパスティアンへ入った。その町で護衛のフランス兵の一人が、
- なかなか美男子だね、吊るして眺めるにはもって来いだ!
と叫ぶスペイン女の声を聞きつける。

・・・中世的な、ガタの来ていた政治行政の近代化が開始された。
・・・フランス派の大知識人ルイース・デ・ウルキーホが総理大臣となった。彼はつい最近までブルゴスの獄に投じられていた。二度目のつとめである。このウルキーホ氏は、当時としてはもっとも正確な見通しをもっていた。ブルボン王家のスペインにおける未来は、皇太子フェルナンドがあくまでスペインに残りとどまること、そのためには対仏抵抗の陣頭に立つこと、これ以外にはないと考えていた。従って必要とあれば対仏抵抗感情のもっとも強いアラゴン地方を根拠地とし、サラゴーサに下って頑張ること・・・。ウルキーホはむしろそれを望んでいたらしい節がある。けれども当のフェルナンドが簡単にナポレオンの脅しに屈し、その上皇帝ナポレオンの一家に加えてもらえるかもしれないという、ナポレオンの側からのすかしにも容易に乗ってしまう以上、望みはない。
しかもなお国家としてのスペインは存続しなければならないのであるから、ウルキーホはホセ一世を受け入れたのであった。・・・。

・・・、彼の内閣がスペインがこれまでもった最良の閣僚によって構成された・・・。有能な財政家であるカバルース伯爵も、追放されていた先から帰って来て大蔵大臣に就任した。短期間のフェルナンド七世の下での閣僚も数人留任してバランスがとられた。かつてゴヤが肖像画を描いた多くの開明派の知識人たちもみな適所に任を得て働き出した。
けれども、そこにただ一人だけが欠けていた。しかもその一人は、学殖においても実践経歴においても最も重要な人物である。それはホペリァーノスである。ウルキーホとカバルースの二人が内務大臣に就任してほしいと依頼をしたのであったが、ホペリァーノスは健康状態を理由にして断ってしまう。・・・。
拒否をしたことの本当の理由は、どうやらホペリァーノス自身が総理大臣でないことにあったらしいのである。

制憲議会の活動も活発につづき、大体の骨子が出来上った。新憲法は決して革命的なものなどではなかった。むしろおだやかな妥協的なものであった。カトリック教はスペインの国教であること、全スペイン人は法の前に平等であること、行政組織はそれぞれに規制されねばならぬこと、一一二人の代議員によって構成された議会は、租税と予算を決定すること、二六人からなる上院を構成すること、司法権の独立、拷問はこれを禁ずること、異端審問所は、カトリックが国教である以上、これを存続、但し大幅に改組し権限を縮小すること(ゴヤの友人である異端審問所の前官房長リォレンテ師はこの改組の仕事に任じられ、かつ異端審問所自体の批判的歴史を書くことになり、大いに憎まれることになる。現在でもスペイン人筆者のゴヤ研究のなかには、その必要もない場所でリォレンテ師を痛撃しているものがある)。最後に、フランスとの同盟は永久のものであること、等々。
・・・
政治家も行政官も、また財政家や経済人も、さらに宗教家、文学者や教育者たちもみな新しい希望に燃えてスペイン近代化のために勇躍して巨歩を踏み出した。・・・
と、たしかに見えたのである、表面的には。
そうして表面的には、「五月の二日」と「五月の三日」にはあたかも何もなかったかのように、見えた。
しかし・・・。
すでにマドリードで、また地方の大都市で、さらには山深い村々でさえ、流血のいざこざがナポレオン軍との間に起っていたのである。・・・。

なぜか?
多くの歴史家たちは、その原因を一言で言って、ホセ一世がスペイン人でなかったこと、彼が後に仇名されたように”侵入王、あるいは押し込み王 El Rey intruso”であったことに求めている。つまりこの外国人の押し込み王を排し、真のスペイン人の王であるフェルナンド七世を求めたのだ、というのである。
しかし・・・。いったいスペインの王室は一五世紀にフェルナンド・アラゴン王とイザベル・カスティーリア女王の結婚によって国土統一が出来て以後、このカトリック両王の孫のカルロス一世兼神聖ローマ帝国皇帝は、これはすでにオーストリア人であり、若い頃にはスペイン語も話せなかった。以後ハブスプルグ王家がつづき、ついでブルボン家が来ている。そのすべてを”押し込み王”と言うとすれば、それも不可能ではない。まして”望まれたる”フェルナンドは血液からしてスペイン人ではない。・・・、彼はフランス、オーストリア、ナポリ、それにパルム公国などの混血児でこそあれ、スペインの血は一滴もない。
しかし、れっきとした事実を屁理屈に変えてしまうのもまた政治の弁証法のうちであった。
スペイン人 - 特に下級聖職者と一般民衆の眼には、彼らの皇太子がナポレオンのとりことなり、ヴァランセイに幽囚されている、ということにいつかなってしまった。フェルナンドが事実としてスペイン人ではない、などということは、ここで一挙にただの庇理屈ということに変貌してしまう。ましてやフランス革命はアンチ・キリストであり、そこから出て来たナポレオンは言うまでもなくアンチ・キリストの代表的親玉である。その親玉の代理人であるホセ一世は、いったいカトリック王国の王たるべき如何なる資格があるか。

下級聖職者、農民、都市プロレタリアートの眼が、いっせいにヴァランセイ城に閉じこめられた”望まれたる”フェルナンドの方に集中する・・・。当時スペインの教会や修道院には一〇万人前後の修道者がいた・・・。

ではこの”望まれたる”人は、・・・いったい何をしていたか。
六月二二日、ヴァランセイでフェルナンドのとりまきが会議をひらき、「彼らの国(スペイン)の憲法とスペイン王ホセ一世に忠誠を誓う」ことを表明するために、ナポレオンに対して手紙を書き、これをナポレオンの手からホセ一世に廻送してもらうという、二重の誓約をしているのである。その手紙のなかでフェルナンドは、自分はナポレオンの何人かいる姪を嫁にもらいたいと思っている、それはかなえられるものと思うから、自身「ナポレオン皇帝の尊厳なる家族の一員」であると考えている、と書いているのである。また彼はホセ一世が創設した勲章を下さる光栄に浴したいとねがい、さらには英国が救いの手をさしのべてスペインへおかえし申そう、とひそかに言って来ると、この密使をたちまちナポレオンに手渡してしまう。
事実として、金ピカの宮殿で毎日のうのうとしているフェルナンドが、ナポレオンに奴隷のように隷従して媚を売ろうとすればするほどに、本国では「悲劇の皇太子」「監守とスパイにとりかこまれ」「悲惨にも鉄鎖につながれている」というフィクシオンが肥大して行く。しかもナポレオン軍の弾圧が強まれば強まるほど、このフィクシオンは”現実”になって行くのである。
・・・。
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