鎌倉 明月院 2016-06-14
*天正2年(1574)
3月
・第2次巡視中のカプラル、入京、再び信長に謁見。
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・毛利輝元、安国寺恵瓊を使者として備前岡山城宇喜多直家を誘引。
直家は毛利氏と結んで浦上氏と断交。
毛利氏と対抗した浦上氏は、織田氏と結ぶ。
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・この頃、信長が上杉謙信に加納永徳筆『(上杉本)洛中洛外図屏風』を贈るという説がある。
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・北條氏、 羽生城を攻める
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・武田家臣天野景貫、犬居谷で家康を破る。
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・伊予、鷺森城主壬生川通国、黒川通長を万福寺の猿楽に招くが、宴後に斬殺。
鷺森城主となった家臣桑原泰国、仇の黒川通長が逃げ込んだ榎木城を攻め、自害させる。
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・スペイン軍、ルイ(オラニエ公ウィレム1世弟)を迎撃するためライデンの包囲を中断。
ルイと弟ヘンドリック、マース河畔でスペイン軍に迎撃され戦死。
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3月5日
・信長、佐久間信栄へ、近江甲賀郡地侍の降伏出頭の報告を受けて、その恭順を承認し、六角義賢・六角義治父子の籠もる石部城に対して付城を構築して攻撃を継続するよう命令(「山中文書」7)。
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3月5日
・武田信虎(81)、高遠で病没。
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3月6日
・足利義昭、河野通直(伊予守)に京都奪還への協力を求める。
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3月7日
・村井貞勝、以前通り、沢野井左馬助に夫役を安堵する(沢野井文書)。
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3月8日
・十市遠長、興福寺妙徳院へ入る。
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3月8日
・柴田勝家、夕刻に京都宇治に到着。
9日夕刻、大和多聞山城番替として着任。多人数のため、少々軍勢が興福寺に陣取る。
10日、興福寺へ使者を派遣、「ナラ中ノ成敗」を通達。(「多聞院日記」2)。
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3月8日
・筒井順慶・高田某・岡某・箸尾為綱ら大和国人衆、上洛。
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3月12日
・信長、岐阜発。佐和山に逗留。
16日、永原宿泊。
17日、志那から坂本へ琵琶湖を渡る。初めて相国寺泊。東大寺所蔵「蘭奢待」を所望する旨を正親町天皇へ奏聞。
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3月13日
・六角義賢・六角義治父子、近江石部城を脱出。
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3月13日
・筒井順慶、信長を迎えるためにこの朝に上洛(「多聞院日記」2)。
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3月17日
・柴田勝家、信長上洛に際し十市遠長を同行して上洛(「多聞院日記」2)。
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3月18日
・信長、従三位・参議勅定。
信忠・信雄・信孝・信包・家康、従五位上。柴田・佐久間・林・滝川・明智・丹羽・稲葉・伊賀・蜂屋、羽柴従五位下。大内義隆は従二位だが官は兵部卿・太宰大弐、六角当主は権中納言・参議。
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3月19日
・秀吉、長浜城入り。農民と農地耕作権保障基準についての条規を定める。
「在々所々、作職等のこと、去年、作毛の年貢を納所候ともがら、相乞うべきこと」。
実際に耕作し年貢を負担している者が誰かが、「作職」=農民と農地の関係=耕作権(農地所有権)と決める基準。去年誰が耕作し年貢を納めたかを確認することが第1歩だとする。
前の年に年貢を納めた者をその土地の作職所持者とすると令する事は、新しい一職支配の領有権の下での百姓=農民身分確定の意図を明確にしたもの。
中世的権利関係からして本年貢納入責任者は一般には名主層であるから、有力名主層=小領主層が、その領主化の途を否定されて、作職所持者として農民身分に格付けされることを示すものでもある。
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3月20日
・秀吉、竹生島の材木を受取る。
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3月20日
・足利義昭、武田勝頼・上杉謙信・北条氏政に和睦させ、家康と本願寺顕如に帰洛の準備を尽力させる。
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3月21日
・筒井順慶、京都より大和へ下向。
23日、筒井順慶の妻と母が人質として上京。(「多聞院日記」2)
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3月22日
・秀吉、長浜城入城の時の触状、在所掟を出す。
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3月22日
・塙直政、奈良に下向、蘭奢待の存在を確認。
その後、天皇の了解と東大寺への受け入れを依頼。正親町天皇は、これを憤り、口を極めて信長の理不尽を罵倒。
23日、塙直政、大和多聞山城に在番(「多聞院日記」2)。
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3月24日
・信長、蘭奢待拝領希望を禁裏奏聞。
26日、勅許。勅使日野輝資・飛鳥井大納言を奈良に派遣、東大寺へ蘭奢待切り取り院宣が下された旨を伝えさせる。東大寺僧衆は蘭奢待開封を認める。
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3月24日
・信長、相国寺茶会。堺衆を招く。
茶会の後、宗久・宗及・宗易(利休)のみ、書院で千鳥の香炉を拝見。
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3月26日
・秀吉、野村と三田村との井水相論を裁く(三田共有文書)。
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3月27日
・信長出迎えのため大和国神人は100人、地下衆は1町より10人ずつ肩衣・袴の装束で木津に出向く。
信長、原田直政・菅谷長頼・佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀・蜂屋頼隆・荒木村重・武井夕庵・松井友閑・津田某らの奉行衆を従え、軍勢3千余を率い大和国多聞山城へ到着、奈良中僧坊以下へは陣取りを厳重に禁止。筒井順慶、大和国多聞山城で信長に夕飯を振る舞う。
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3月28日
・信長、正倉院に入り、勅使立会いのもとに御物の香木「蘭奢待(らんじゃたい)」を運び出してその一部5.5cmほどを切り取る。切り取りの奉行は9名、柴田勝家・丹羽長秀・松井友閑など。荒木村重も随行(正倉院へは名代を派遣、信長自身は多聞山城で到着を待つ)。
「自らを将軍に擬するパフォーマンス」(今谷明)。
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3月28日
・村井貞勝、明智光秀とともに、法金剛院に所領を安堵する(法金剛院文責)。
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4月
・武田勝頼、足助城陥落。一旦甲府に戻る。
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・家康、犬居城包囲。勝頼の美濃攻め中に失地回復謀るも失敗。
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・北条勢と上杉勢、利根川を挟んで対峙。上杉勢は成果なく越後へ帰国。
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・オランダ独立戦争、ドイツから進攻したルートヴィッヒ・フォン・ナッサウ戦死
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4月1日
・信長、朝早々に奈良を出立。
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4月1日
・越前一向一揆勢、朝倉信鏡(景鏡?)の篭る平泉寺を攻撃、村岡山に築城。一揆勢の攻撃に朝倉信鏡(景鏡?)討死。6千坊を有する北陸の大古刹平泉寺は全焼。
南袋(勝山市域のうち九頭竜川以南の地)・北袋(同九頭竜川以北の地)・七山家(同滝波川上・中流域の地)の一揆勢は、七山家に通じる谷の入口の村岡山に平泉寺勢が城を築くと、「此山中ノ田畠、悉カリ(刈)田トナルベシ、左様ナラバ、山中ノ難儀ナリ」(「朝倉始末記」)という理由から、先手を打って七山家一揆を中心として村岡山に築城。
本願寺派遣の坊官・大坊主の指令ではなく、自らの作物を守ろうとする一揆独自の判断で行われる。
平泉寺や信鏡(景鏡?)は村岡山の一揆勢を攻撃するがて一揆の抵抗は強く、多くの僧兵が戦死。
本覚寺の支援軍が直接平泉寺を攻撃したため、平泉寺は焼かれ衆徒は壊滅し信鏡(景鏡?)は戦死。
本願寺は若林長門守を越前に送り仕置きさせ、家臣下間筑後法橋頼照を守護代として豊原寺におき、下間和泉守を足羽郡司として北ノ庄に、杉浦玄任法橋を大野郡司として一乗谷に、七里頼周を府中において支配させる(「朝倉始末記」6)。
この前後、越後高田の本誓寺超賢は門徒30人・米1500石を、越中射水郡門徒衆は米150石を石山に送る。加賀同様に越前も本願寺支配となり、北国からの人員補給・兵糧搬入が容易となる。
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4月2日
・顕如挙兵
本願寺顕如、前年の和約を破棄し石山本願寺に依り再度挙兵、信長属城を降す。
摂津を追われた前攝津守護池田勝正、讃岐の香西越後守、雑賀の鈴木孫一らが加わる。
本願寺勢、信長の再来襲に備えて雑賀衆を頼む。
本願寺に呼応した三好康長・遊佐信教ら、河内高屋城に篭る。
石山本願寺門徒勢、中之島織田方砦急襲、奪取。
前年6月、河内守護代遊佐信教、河内・紀伊守護畠山昭高を殺害、河内高屋城(羽曳野市)占領。阿波の三好康長や松永久秀に従っていた大和衆を入城させ、本願寺と連絡をとり信長に敵対。
畿内の反信長の残党が高屋城に拠った。
この時の本願寺・高屋城の挙兵には、足利義昭もかなり関係している。
義昭は、若江城から堺に移った後、毛利氏や信長の帰京の勧めを拒否して、紀伊の由良に蟄居していた。義昭は由良から頻繁に諸国の大名たちに御内書を送り、軍を出して信長を討つよう扇動していた。大坂・高屋方面では、側近の一色藤長がさかんに連絡をとっている(『根岸文書』)。
本願寺挙兵の3日前、信長は奈良東大寺で名香蘭奢待を切り取っているから、それを聞いた義昭が憤慨して、決起を促したのかもしれない。
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4月3日
・信長、本願寺顕如挙兵に対し即時軍勢を派遣し、苅田および放火を実行させる。
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4月4日
・信長、相国寺茶会。堺衆のうち宗及・利休のみ蘭奢待を扇に添えて与えられる。
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4月11日
・筒井順慶軍、信長命により石山本願寺攻略のため河内へ出陣。
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4月12日
・織田(畿内)軍、下八尾・住吉・天王寺に着陣、本願寺を攻め、高屋城にも軍を向ける。高屋城将遊佐信教を討つ。決定的な戦いにならず、28日、撤兵。
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4月13日
・信長、六角(佐々木)承禎の甲賀の最後の拠点近江石部城を攻撃、陥落。
13日、承禎、石部から逃亡。石部に佐久間信盛の手勢が入る。
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4月13日
・上杉謙信、利根川を挟んで北条氏政と対峙。由良成繁の金山城を攻め、武蔵鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)、忍・騎西城(埼玉県北埼玉郡騎西町)領内に放火。
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4月14日
・足利義昭、島津義久・喜入季久へ、信長と不和になり紀伊に滞在している旨を通知。「諸口調略」に関し江月斎を派遣し指令を下す。詳細は一色藤長・真木島昭光に伝達させる(「旧記雑録後編」)。
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4月14日
・柳生宗厳(柳生但馬)父子、筒井順慶と敵対する十市遠長と入魂にする(「多聞院日記」2)。
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4月14日
・カルヴァン派軍隊、モオ・ケルヘイドでアルバ公後継でフランドル統治のエクアンサンに敗北。ナッサウ公ルイ戦死。
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4月20日
・二条晴良、「源氏物語」秘訣を三条西実澄から伝授される。
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4月21日
・奈良にで夜に地震発生(「多聞院日記」2)。
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4月21日
・トスカナ(フィレンツェ)大公コジモ・デ・メディチ(55)、没。
後継の長男フランチェスコ大公は、コジモ後妻カーミラ・メディチを修道院に送る。
1568/2/4修道院をでる。1590/5/30、43歳で没。
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4月25日
・信長、島田秀満・山岡景佐へ、大和東大寺八幡宮社人・大仏殿寺人は先規に任せて諸役以下を免除する命令(「薬師院文書」)。
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