2016年6月12日日曜日

應永27(1420)年5月~12月 フス戦争 フス派軍が異端撲滅十字軍を破る トロア条約(ヘンリ5世とシャルル6世娘カトリーヌが結婚し、その子にはフランス王位継承権を与える。二重王位) 

小石川後楽園 2016-06-06
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應永27(1420)年
5月
・ジギスムントの「異端撲滅十字軍」に欧州の広範囲より兵が集結(「30以上の国州から無数の人」、7~8万人)。
5月、進撃開始。
15日クトナー・ホラのジギスムントの元にフス派の代表団が訪問、ジギスムントは「例え王国が滅びようとも異端を撲殺する」と断言。
20日、ターボル軍がプラハ着。
数日後、ジャテツ、ロウニ、スラニーなどボヘミア北西部の都市からも援軍が集結。プラハ市民はジクムントに味方するプラハ城を攻撃するが、守備隊の抵抗に強く陥落できず。
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5月9日
・フェルトレ市、ヴェネツィアに降伏
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5月21日
・トロア条約締結
ブルゴーニュ公フィリップ2世(24、善良公、故ジャン無畏公息子)と結んだヘンリ5世(33)、ブルゴーニュ公擁するシャルル6世・王妃イザボーの間でトロア協定締結。
協定はヘンリ5世とシャルル6世娘カトリーヌ(19)の結婚と、シャルルの没後フランス王位のランカスター家による継承を定める。
王太子シャルル(17)の王位継承権、否認。王太子シャルル叉はアルマニャック派に属する者あるいは味方する者を反逆者と見なす。
王太子を王位継承から除外し、「フランス王国の王位は、それに付随する諸権利および諸々の物件と共に、以後永久に我らが息子となるヘンリーおよびその後継者の属するものとする」と規定。
ヘンリ5世は、シャルル6世・イザボーの娘カトリーヌと結婚し、その婿となり、この結婚から生れる王子はフランス・イギリス王国の二重の王位を約束される。
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6月

・仏、王太子シャルル(後の7世)、カルカソンヌ、モンペリエ、ニームを経て、6月初、ポワチエ入り。南の王領でのブルゴーニュ派都市はエーギュ・モルトほか3つを残すのみ。
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6月2日
・ヘンリ5世(33、位1413~1422)、シャルル6世娘カトリーヌ(19)と結婚。トロワのサン・ジャン教会。
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6月7日
・仏、ヴィルヌーヴ・ル・ロア降伏。
12日、サンス降伏。
16日、ブレイ・シェル・セーヌ降伏。
7月7日、モントロー降伏。
11月18日、ムラン降伏。
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6月19日
・ウーディネ、ヴェネツィアに城門を開く。アクィレイアを始めとして、続々と小自治体ヴェネツィアに降る。
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7月
・プラハの広場においてカトリック側とフス派穏健派側の会談。
「プラハ4箇条」について討論。一旦、会談は順調に運ぶかと思われたが、公開討論の手続きの話で双方の主張がぶつかり挫折。

①神の言葉はチェコ王国全域において、自由に、妨げられることなく聖職者によって述べられ、説かれるべきである。
②尊い聖体である神の肉と血は、パンと葡萄酒の両種によって、あらゆる忠実なキリスト教徒に自由に与えられるべきである。
③多くの聖職者や修道士は、世俗の法に基づいて多くの財産を所有し、キリストの教えに反し、聖職者としての務めを損ない、また世俗の領主身分を大きく妨害している。これらの不正な財産は奪われるべきである。
④死に値する罪を犯した人々、神の法に背いた人々は、どのような身分であれ、然るべき方法で捕らえられ、処罰されるべきである。俗人に関しては、淫行、暴食、盗み、殺人、偽誓、不正利得などが、聖職者に関しては聖職売買、秘蹟や教会の職務に対する謝礼の要求、贖宥状販売などがこれにあたる。
これらの項目の後に、聖書の詳細な引用によってこれらの主張の根拠づけがなされている。
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7月14日
・フス派軍、神聖ローマ皇帝軍(十字軍)をプラハ近郊ヴィトコフで撃退。
ターボル軍の「戦車」と「火器の集中攻撃」が数で優勢の十字軍を殲滅。ジシュカは、ヴィートコフの丘に堅牢な防備施設を構築。

十字軍は、プラハ城~ヴルタヴァ川北岸に回って布陣し、渡河して市街東方のヴィートコフの丘を拠点としに定め、14日夕方、騎兵隊を主力に街を攻撃開始。
銃器・棍棒で武装したプラハの軍は、城壁外に築いた防御柵に立て籠もり、これに立ち向かう。
当初、十字軍に対し劣勢だが、ジシュカ率いるターボル軍が加わるや、十字軍は一転混乱し退却開始。ヴルタヴァ川を渡り陣に戻るが、約500が落命したという。

遂にボヘミアは、正統の国王と全面衝突するに至る。しかし、新しい体制の基本方針や権力の所在は不明確なまま。
①フス派の内部でさえ様々な党派が分立し、
②フス派に共感を抱かない市民・貴族なども多数いる。

1420年の十字軍撃退から21年始めにかけて、フス派穏健派(ウトラキスト)とターボル軍は敵と戦闘を繰り広げる。
西ボヘミア地方でカトリック諸侯を中心として結成された同盟に対して攻勢を強め、プルゼニやその他の都市を落とす。
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7月28日
・プラハ、神聖ローマ帝国皇帝ジギスムント(52)、聖ヴィート大聖堂(プラハ王城内)でボヘミア王として戴冠式。軍勢が大敗した為すぐに退却。(ハンガリー王1387~1437。国王1411~1437。ベーメン王1419~1437。)
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8月5日
・ターボルの聖職者達、プラハの代表者たちに徹底した改革を望む12項目の要求を提出。急進派が政権を掌握する新市街はこの12箇条を承認するが、旧市街及び大学のマギステル達はこれを拒否。急進派はプラハを退去し、その前にいくつかの修道院や高位聖職者の家に火を放つ。

日常の生活での不道徳・不正、商人・手工業者の不正、中でも高利貸しを神に背く行為として罰することを求め、特に聖職者・マギステルに神の法に厳格に従うことを要求(これまでの要求と大きく異なることはない)。更に、「異端的な」修道院や教会の破壊、祭壇画など偶像崇拝的なものの破棄、「異教的でドイツ的な」法を廃止して神の法だけを求める(それまでの秩序・習慣に根本的な転換を迫るもの)。
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8月16日
・越前守護代で実際の国務を担当した斯波家執事甲斐将教、没。将久(常治)家督継承(後の長録合戦の主役)。
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9月
・ヤン・ジシュカ、タボル山に帰還。
この時期にはタボル派の「共同生活への復帰」が失敗していた。
農民に対する諸義務を廃止し、租税・兵役・使用税が復活。
期待が裏切られたタボル派は、農村で掠奪を開始。
穏健なタボル派は、共産主義的原則を捨て、タボル派になる以前と変わらない生活に復帰し始める。
狂信的なアダム派の一部は、「聖戦」を主張。
ヤン・ジシュカ、1421年4月、ペテル・カニシュとアダム派75名を処刑。
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9月3日
・スコットランド摂政オルバニー公ロバート(80)、没。次男マードックを後継摂政に指名。
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9月27日
・ヴェネツィア、トレントのジョヴァンニ・ヴィスコヴォに1000金ドゥカーティの貸し付け。
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9月30日
・教皇ルティヌス5世(位1417~1431)、ローマに帰還。
ジェンティーレ・ダ・ファビリアーノ、ピサネッロ、マサッチョをローマ に呼び、サンタマリア・マッジョーレ教会、聖ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ教会の壁画を描かせる。
秘書:当代最高のヒューマニスト、ポッジョ・ブラッチョリーニ。神学に暗く文学に明るい人々(プロスペロ・コロンナ、ジュリアーノ・チェザリーニ)を枢機卿に任命。
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11月
・プラハ、貴族の出席を得て開かれた集会で、ポーランド国王ヴワディスワフに王位を提供することが決められる。
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11月1日
・ボヘミアのフス派、再び神聖ローマ皇帝軍を破る
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12月
・ターボルを拠点にする急進派率いてきたミクラーシュ、不慮の事故で急没。代わってヤン・ジシュカが急進派を率い、プラハの穏健派とは協調できるようになる。

(情勢概観)
1420~21年初、プラハはジシュカ率いるターボル軍と提携して戦い、西ボヘミアに成立したカトリック同盟を破り、プルゼニその他の都市に「プラハの四箇条」を認めさせ、東方ではクトナー・ホラなど多くの都市を制圧した。
新市街の急進派指導者ジェリフスキーも、聖職者のながら戦いに赴く。
1421年前半には、プラハを頂点とする21の都市からなる「プラハ同盟」が成立し、プラハは、各都市の参事会員の任命権、裁判権、徴税権などを行使(かつての国王役人の役割をプラハ市当局が担う)。
地方都市ばかりでなく、多くの貴族たちもプラハの勢力の前に屈し、「プラハの四箇条」を認めることを誓約。
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12月1日
・仏、ヘンリ5世・フィリップ善良公とシャルル6世、パリ入城。
この頃ヘンリがルーアンで鋳造させた貨幣には「イギリス国王、兼フランス王位継承者」と刻まれる。
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12月26日
・ボヘミア、ヒュネック・フォン・ヴァルドシュタインを長とする使節をポーランド宮廷に派遣、「全フス派の総意」としてヤギェヴォに「福音の保護者」となって欲しいと懇願。王は拒絶。使節はリトワニア大公宮廷へ向かい、大公ビトルド(リトワニア名:ヴィタウタス)にチェコ王国の主になるように懇願。
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12月28日
・蓮如の父存如、正妻を迎えるため、蓮如生母、本願寺を去る。
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