2022年10月2日日曜日

〈藤原定家の時代136〉寿永2(1183)年 北条義時(21)長男泰時誕生 定家(22)藤原季能女と結婚 1月~2月 「千載集」選集院宣 定家(22)正五位下 野木宮合戦(志太義広敗走、足利忠綱逃亡)            

 


〈藤原定家の時代135〉養和2/寿永元(1182)年9月~12月 源希義(義朝五男、頼朝弟)殺害 宗盛内大臣、知盛権中納言(従二位) 安徳天皇の大嘗会御楔 頼朝・政子、亀前を巡るトラブル より続く

寿永2(1183)年1月

・この年、北条義時(21)長男泰時誕生

母は『武家年代記』に「母は御所女房阿波局」とあるから、頼朝挙兵後の婚姻であるが、離別したらしい。

・この頃、藤原定家(22)、藤原季能女と結婚。

季能は六条顕季の流れ。顕季の子長英は白河院の寵臣で、長実女に美福門院得子があり、鳥羽院後宮に入り近衛天皇が生れている。長英の子頼盛の子が俊盛で、その子が季能。季能は俊成の弟子。俊成にゆかりの深い八条院は、美福門院の姫宮で、妻の加賀も関わりがある。それらの縁で、定家は季能女と結ばれたと思われる。長男光家は、元暦元年(1184)に生れてる。光家の次に、定修と女子2人がある。その後、この妻とは何故か離別。

建久5年(1194)頃、西園寺藤原実宗女を迎える。


1月2日

・藤原実国(44)没

1月7日

・源(久我)通親、正三位となる。

1月22日

・平資盛(内大臣重盛2男、維盛の下、23)、蔵人頭に補任。頭中将と呼ばれる。同年7月3日従三位叙任。都落ちにより同年8月6日解官。


2月

・平通盛、従三位・非参議に叙任。越前三位と呼ばれる。

・関白基通の妻完子(北の政所、清盛の娘)、従三位叙任。

・鎌倉に、平家軍京出撃と急報源頼朝、和田・岡部・宇佐美などを遠江浜松荘へ出発。

・後白河院(57)、藤原俊成に院宣により「近古以来の和歌を撰び進(まい)らしめ給ふべし」と「千載集」のための選集を命じる。奉者は蔵人頭平資盛(重盛の子、維盛の弟、維盛は俊成の娘の子と結婚、院の近習)で、俊成と後白河を結びつける。俊成は、既に編集を進めている私撰集「三五代集」をもとに息子定家の助力も得て、文治4年(1188)4月完成。

2月19日

・藤原定家(22)、正五位下に叙せられる。

2月20日

・常陸の志田義広、挙兵に際し藤姓足利忠綱に参戦を要請。鎌倉を落とそうと、大軍を率い常陸から下野に向かう。

(「吾妻鏡」は義広は「鎌倉に向かうとするが、義広の軍勢は現在の石岡市から古河市、小山市と西に向かっている。義仲に合流しようとする途次、小山氏に合戦を仕掛けられたと推察する説もある)

23日、(同族の)小山朝政と下河辺行平・源範頼、下野野木宮(下都賀郡野木町)で義広を迎撃、撃破(野木宮合戦)。志太義広、敗走。

小山勢に、藤姓足利七郎有綱、有綱の嫡子佐野太郎基綱、4男阿曽沼四郎廣綱、5男木村五郎信綱等が参加(「吾妻鏡」)。常陸の関政平、頼朝軍から志太義広軍に参陣。頼朝、察知していたが対処できず。上総権介広常など板東武者の間に、西国出撃遠征拒絶論広まる(平家支配と私的宿敵を排除したので遠征不必要)。

〈本項は「吾妻鏡」では養和元年閏2月となっているが、この年(寿永2年)とするのが正しい〉

志田義広

頼朝の叔父、為義の三男、義朝の弟。平家全盛期には八条院領常陸国信太荘(しだのしよう、茨城県稲敷郡美浦村)の預所に補され、そこに住まい志田三郎先生(せんじよう)と称した。先生は皇太子の護衛兵の筆頭者のことで、就任の確証はない。治承4年(1180)11月、頼朝の佐竹攻めの際、国衙で弟の行家と共に頼朝に面会。その後、鹿島社領を掠領するなど自立の動きを示していた。

小山朝政(おやまともまさ);

下野国衙の有力官人小山政光の嫡男、末弟の結城朝光の母は下野の豪族八田(宇都宮)宗綱の娘で頼朝の乳母(寒川尼)。治承4年9月3日、頼朝は去就不明の小山氏、下河辺行平、豊嶋清元、葛西清重らに合力を呼びかけ、これを機に彼らは頼朝陣営に加わった。

足利忠綱

重盛に恩義を感じて平家に属した足利太郎俊綱の嫡子。足利と小山はともに秀郷流藤原氏であったが、「一国(下野)の両虎」として覇権を争っていた。忠綱は頼朝方に押されがちな劣勢挽回のために志田義広に合流した。

敗れた志田義広は逃亡し、義仲のもとに身を寄せる。

足利忠綱は山陰道から西海へ逃亡。忠綱の父俊綱は同年9月、頼朝に攻撃され郎従の裏切りで殺され、藤原姓足利氏の嫡家は滅亡。関東での親平家勢力は一掃される。

「武衛の伯父志田三郎先生義廣、骨肉の好を忘れ、忽ち数万騎の逆党を卒い、鎌倉を度らんと欲す。縡すでに発覚す。常陸の国を出て下野の国に到ると。・・・爰に下河邊庄司行平下総の国に在り。小山の小四郎朝政下野の国に在り。・・・これに依って朝政が弟五郎宗政、並びに同従父兄弟関の次郎政平等、合力を成さんが為各々今日下野の国に発向す。而るに政平御前に参り身の暇を申し座を起ちをはんぬ。武衛これを覧玉い、政平は貳心有るの由仰せらる。果たして道より宗政に相伴わず、閑路を経て義廣が陣に馳せ加うと。」(「吾妻鏡」養和元年閏2月20日条)。

「義廣三万余騎の軍士を卒い鎌倉方に赴く。先ず足利の又太郎忠綱に相語る。忠綱本より源家に背くの間、約諾を成す。・・・次いで義廣與すべきの由を小山の小四郎朝政に相触る。朝政の父政光は、皇居警衛の為未だ在京す。郎従悉く以てこれに相従う。仍って無勢たりと雖も、中心の所これ武衛に在り。義廣を誅し取るべきの由群議す。老軍等云く、早く與同せしむべきの趣、偽って先ず領状せしむの後これを度るべきなりてえり。則ちその旨を示し遣わす。義廣喜悦の思いを成し、朝政が館の辺に来臨す。これより先朝政本宅を出て、野木宮に引き籠もらしむ。義廣彼の宮の前に到るの時、朝政計議を廻して、人をして登々呂木澤・地獄谷等の林の梢に昇らしめ、時の声を造らせむ。その声谷に響き、多勢の粧いを為す。義廣周章迷惑するの処、朝政郎従太田の冠者・永代の六二郎・和田の次郎・池の二郎・蔭澤の次郎、並びに七郎朝光郎等保志秦の三郎等攻戦す。・・・五郎宗政(年二十)鎌倉より小山に向かう・・・駕を馳せ義廣が陣方に向かう。義廣乳母子多和利山の七太鞭を揚げ、その中を隔つ。宗政弓手に逢い、七太を射取りをはんぬ。宗政の小舎人童七太が首を取る。その後義廣聊か引退し、陣を野木宮の坤方に張る。朝政・宗政東方より襲い攻む。時に暴風巽より起こり、焼け野の塵を揚ぐ。人馬共に眼路を失い、横行分散す。多く骸を地獄谷・登々呂木澤に曝す。また下河邊庄司行平・同弟四郎政義、古我・高野等の渡を固め、余兵の遁走を討ち止むと。足利の七郎有綱・同嫡男佐野の太郎基綱・四男阿曽沼の四郎廣綱・五男木村の五郎信綱、及び大田小権の守行朝等、小手差原に陣取り、小堤等の所々に合戦す。この外八田武者所知家・下妻の四郎清氏・小野寺の太郎道綱・小栗の十郎重成・宇都宮所信房・鎌田の七郎為成・湊河庄司太郎景澄等朝政に加う。蒲の冠者範頼同じく馳せ来たる所なり。」(「吾妻鏡」養和元年閏2月23日条)。

2月21日

・安徳天皇、後白河法皇に朝覲行幸。

2月21日

・「今夜、右衛門督清宗卿(13)、按察使頼盛卿の女を嫁し、内府(宗盛)の八条高倉邸に迎えらると、云々」(「吉記」同日条)。宗盛と頼盛の和解。


つづく


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