2022年11月23日水曜日

〈藤原定家の時代188〉寿永3/元暦元(1184)年10月6日~28日 頼朝、公文所(後の政所)を置く 別当に大江広元 義経(26)、院の昇殿を許される(後白河の側近となる) 追討使が安芸国衙を掌握 頼朝、問注所を設け三善康信を執事とする        

 


〈藤原定家の時代187〉寿永3/元暦元(1184)年9月1日~20日 範頼軍、京を進発 平信兼の宅地が義経に与えられる 河越重頼の娘、義経に嫁すために京に向う 義経、検非違使のまま従五位下に叙任 より続く

寿永3/元暦元(1184)年

10月6日

・頼朝、公文所(後の政所)を置く。別当に大江広元を補す。寄人に中原親能(広元の兄弟)・二階堂行政・足立遠元・藤原邦通ら。大規模な頼朝の家領群経営のための家政機関で、一般庶務や財政などの実務を管轄する。職員には朝廷に仕えた経験をもつ京下りの実務官人が多く任用された。

二階堂行政は、母方が頼朝と親戚関係にあり、広元同様に早い時期から幕府の文官官僚としての活動を始めた。のち、建久2年(1191)に政所令、同4年に政所別当に昇り在京中の広元に代わって政所の業務を統括。

武蔵武士の足立遠元は、長年、在京し、娘を後白河院近臣藤原光能の妻とするなど、都の貴族社会と深く交わった人物である。

「未の刻、新造の公文所吉書始めなり。安藝の介中原廣元別当として着座す。齋院次官中原親能・主計の允藤原行政・足立右馬の允籐内遠元・甲斐の四郎・大中臣秋家・籐判官代邦通等、寄人として参上す。・・・その後椀飯を行う。武衛出御す。千葉の介経営す。公私引出物有り。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月11日

義経(26)、院の昇殿を許される(後白河の側近となる)。義経に法皇の恩寵が増し、行家が接近するなどにより、頼朝・義経の対立が決定的になる。

15日、義経、院昇殿拝賀式。義経、八葉車乗車。衛府官人3人・騎馬共侍20名従う。庭上で舞踏後、殿上で法皇に謁見。

「因幡の守廣元(九月十八日任ず)申して云く、去る月十八日源廷尉叙留す。今月十一日院内の昇殿を聴すと。その儀、八葉の車に駕し、扈従の衛府三人・共侍二十人(各々騎馬)。庭上に於いて舞蹈す。劔笏を撥げ殿上に参ると。」(「吾妻鏡」同24日条)。

10月12日

・頼朝、安芸国在庁山方介為綱(やまがたのすけためつな)の勲功を特に讃える(「吾妻鏡」)。これは、追討使が安芸国衙を掌握したことを意味する。厳島神社の社家佐伯景弘は平氏の有力な与党なので、この時期に一族縁者を伴って平氏に合流したと思われる。

「参州、安藝の国に於いて賞を勲功有るの輩に行う。これ武衛の仰せに依ってなり。その中、当国住人山方の介為綱、殊に抽賞せらる。軍忠人に越えるが故なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月13日

・長門に進んだ葦敷重隆が平教盛らに追い落とされる、また平家の船500~600艘が淡路に着くとの伝聞。葦敷重隆は、尾張を本拠とする清和源氏満政流山田氏の一族。追い返されたとはいえ、この時点で範頼軍の先方は長門に到達していたことがわかる。

「伝聞、教盛卿等の為、長門の国に在るの源氏、葦敷追い落とされをはんぬと。また平氏五六百艘淡路に着くと。」(「玉葉」同日条)。

10月15日

・「今日、武衛山家の紅葉を歴覧せしめ給う。若宮の別当法眼参會すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

10月20日

頼朝、問注所を設け三善康信を執事とする。寄人に中民部大夫仲業(中原親能家人)。頼朝のもとに持ち込まれる所領関係の訴訟に対応するため、訴訟を審理する事務機関。

「諸人訴論対決の事、俊兼・盛時等を相具し、且つはこれを召し決し、且つはその詞を注せしめ、沙汰を申すべきの由、大夫屬入道善信に仰せらると。仍って御亭東面の廂二箇間を点じその所と為す。問注所と号し、額を打つと。」(「吾妻鏡」同日条)。

頼朝(鎌倉殿)のブレーン:

①三善康信(問注所執事、明法家(法学)の流れ)

②中原親能(公文所寄人、明法家の流れ)

③大江広元(公文所別当、文章道(詩文・歴史)の家系。大江匡房の曾孫、母が中原広季と再婚し、彼は広季の養子となる。中原親能の義弟となる)

④藤原(二階堂)行政(元民部省主計少丞)

⑤藤原広綱(頼朝の右筆、京下りの官人)

⑥山城介久兼(京下りの官人)。

10月25日

・義経、「大夫判官(たいふほうがん)」として大嘗祭御祓の行幸に供奉(「吾妻鏡」11月26日)。

10月26日

・藤原定家(23)、藤原公衝の聴禁色について贈答

10月28日

・石清水権別当成清、弥勒寺・宝塔院荘園管理を頼朝に申請。近く弥勒寺講師に還補される確信あるため(11月24日還補)。頼朝は、これを朝廷(大倉卿)に推薦。


つづく


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