2022年11月2日水曜日

〈藤原定家の時代167〉寿永3/元暦元(1184)年1月20日(⑤) 義仲ゆかりの者たちのその後 ②木曾姫君 ③源行家 ④大夫房覚明     

 

大日本名将鑑 木曽義仲・大夫坊覚明(月岡芳年筆)

〈藤原定家の時代166〉寿永3/元暦元(1184)年1月20日(④) 義仲ゆかりの者たちのその後 ①義高と大姫 より続く

寿永3/元暦元(1184)年

1月20日(⑤)

〈義仲ゆかりの者たちのその後 ②木曾姫君〉

義仲滅亡の1年後の元暦2年(1185)3月、義仲の妹で宮菊(みやぎく)とよばれる女性が上洛。読み本系『平家物語』に従えば、義仲の生年は久寿元年(1154)、その妹であるから、腹違いと考えても義仲と同年、同腹なら義賢没年の翌年保元元年(1156)が生年の下限となる。

宮菊は、義仲の上洛に関係せず、所領に在国していた。夫は明らかでないが、上野国か信濃国の有力豪族で、その縁者に守られて田舎で静かに暮らしていたと思われる。義仲滅亡後に政子が猶子に迎えたとされるから、鎌倉幕府は義仲とその縁者の供養を託する人物として宮菊を考えていたのであろう。宮菊には、生きていくのに困らない財産を本宅安堵として保障していたと考えられる。

宮菊が上洛した目的を『吾妻鏡』は記さないが、素直に解釈すれば、兄の供養と考えてよいだろう。都に入った宮菊は、そこで思わぬ事態に遭遇する。宮菊のもとに所領回復を願う人々が集まり、敗訴した訴訟の文書を提出したり、現実には不知行となっている所領を寄進した。宮菊は、何が起こっているのかわからないまま、この申し出を受け入れてしまった。

この報せを聞いた頼朝も驚き、宮菊を「物狂いの女房」を呼んで鎌倉に呼び戻し、美濃国遠山庄に一村を与え、そこで静かに暮らすよう指示した。宮菊に関する記事は、これのみである。頼朝は、宮菊に悪意のないことを認めている。彼女は頼朝もあきれるほどの世間知らずであったがゆえに、大きな騒動を起こしたにもかかわらず、謀反の嫌疑をかけることもなく、不問に付した。宮菊のその後は、わからない。


〈義仲ゆかりの者たちのその後 ③源行家〉

行家は、この内乱で重要な局面を渡り歩いたにもかかわらず、周囲をかき乱すだけに終わった。行家を受け入れた義仲は、その場当たり的な言動に翻弄され続けた。それでも切り捨てなかったのは、義仲が親族を持たない孤独な存在だったためかもしれない。

義仲が頼朝との最後の決戦を行おうとしている頃、行家は石川城で挙兵して木曽方の樋口兼光の軍勢500騎を主戦場から引き離した。石川城は攻め落とされたものの、行家は脱出に成功する。

その後、源頼朝の代官として京都に駐留するようになった義経に接近し、再び京都に館を構えるようになった。

頼朝は、行家が京都で活動するかぎりは黙認するが、鎌倉と接触を持つことは認めなかった。

在京する義経は、頼朝が行家を警戒している理由を理解できなかった。身内の少ない義経は、叔父として行家と親しく接していった。義経には、頼朝の側近として活躍した大江広元、梶原景時、三善康信のような群臣、範頼の右筆中原重能、義仲の右筆大夫房覚明のような謀臣がいない。行家が独断で行う軽率な行動の危険性を、理解していなかった。

頼朝が義経を謀殺するため土佐房昌俊を上洛させた時、行家は部下を率いて義経の救援に向かった。ここで行家と頼朝との関係は、相互不干渉から敵対に変化した。この時以後、行家は義経と行動を共にするようになり、文治元年(1185)10月に義経が朝廷にせまって頼朝追討の宣旨を賜ると、行家は義経とともに反頼朝の軍勢を集めようとした。

しかし、地盤も部下も持たない義経と行家が朝廷の権威で軍勢を集めようとしても、頼朝の威光を覆すことはできなかった。武蔵国の庄四郎高家(しようしろうたかいえ)のように、義仲に代わる新たな主人として義経を迎える機運は在京する武家にあった。しかし、義経の威光は鎌倉の政治権力を背後に持つがゆえのもので、義経が鎌倉と戦うということになれば、話は全く別である。この宣旨で、義経が新たに加えた郎党にまで見放されてしまった。

都での活動を断念した義経一行は、京都を放棄して平氏の勢力圏であった西国に向かい、そこで反頼朝の軍勢を集めようとした。しかし、大物浦(だいもつのうら、尼崎市)で嵐に遭遇し、義経一行は離れ離れになってしまった。高倉範季(後鳥羽天皇の後見・源範頼養父)の子範資(のりすけ)が範頼の配下を率いて追撃したことが、義経が大物浦で天候回復を待てなかった理由である。

行家は大物浦で義経と別れて潜伏したが、翌文治2年5月12日、和泉国在庁官人の日向権守清美にかくまわれていたところを北条時定に追討され、梟首となった。

〈義仲ゆかりの者たちのその後 ④大夫房覚明〉

義仲の右筆として活躍した大夫房覚明について、『平家物語』諸本は官人として活動した時期の俗名を「進土蔵人藤原道広」と伝える。藤原氏であること、大学寮で文章道を学んだ官人で漢詩文の教護を身につけていたこと、朝廷で六位蔵人を務め、摂関家が管理する藤原氏の学校勧学院の別当を務めたことが記されている。

その後、僧籍を得て興福寺に入り、維摩会(ゆいまえ)、最勝会(さいしようえ)、法華会(ほつけえ)の三会を務めた有職の僧となり、信教得業(しんぎゆうとくごう)とよばれた。

文才に長けていたことから、以仁王挙兵の時に興福寺から園城域寺に返す返牒を起草したことが、平氏政権から興福寺悪僧の張本人とみなされた原因となった。以仁王挙兵が当初は嗷訴であったため、信救は反乱に与したという意識もないままに源平合戦に巻き込まれていくことになる。

覚明が『平家物語』に出てくる最後の場面は、法住寺合戦に勝利した義仲が天皇になろうか院になろうかと現実が見えなくなっていた時に、武家源氏がそこまで望むものではないと諌言し、院御厩別当が妥当な役職であると助言した一件である。

義仲滅亡後の覚明は、興福寺時代の僧名と職位に戻り、昔のように信教得業とよばれ、建久6年(1195)には箱根山に住んでいた(『吾妻鏡』)。伊豆山・箱根山は頼朝が二所詣(にしょもうで)として参詣する寺社なので、このことを知った頼朝は、「箱根山の外に出さないこと、鎌倉の中に入れないこと、鎌倉の近国に入れないこと」を厳守させるよう箱根山別当に厳命した(『吾妻鏡』建久6年10月13日条)。移動に制約はかけたが、箱根山で静かに暮らしている分には問題にしないという判断である。覚明の最期は明らかでない。


つづく

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